2010年10月20日水曜日

竹内敏晴さんとマルチン・ブーバーの『我と汝』について。

 23日(土)の「ISC・21」10月名古屋例会が近づいてきたので,そろそろ準備にとりかからなければと気持ちだけが焦っている。しかし,ほとんどなにも準備ができていない。
 それでも,なんとかマルチン・ブーバーの『我と汝・対話』(岩波文庫)だけは読んでおこうと思い,あちこち拾い読みをはじめた。しかし,どこを拾ってみても難解きわまりない。が,なんとしても,竹内さんがブーバーのどこに興味をもたれたのか,その手がかりくらいはつかみたいものとアンテナを張っていたところ,最後の解説(訳者の植田重雄氏によるもの)に,そのヒントとなりそうな文章(P.270.)が見つかったので,それを,まず紹介してみようと思う。
 「存在は言葉であり,対話の語りかけ,語りかけられることによって,その存在性が明らかになり,啓示への新しい道が開かれるのである。今までは人間の思惟する<われ>が世界や存在や神を理解してきたが,ブーバーはこの対話という存在了解の道をとおって,人間中心の<われ>だけによるのではなく,<われ>と<なんじ>の間に生ずるものが,真の存在であり,出合いとしての啓示の展開であると見る。この<われ>と<なんじ>の「間の領域」こそ,存在が存在となり,一切が成熟してゆく。もはや啓示を遠い彼方のものとして想い浮かべるのではなく,現実に生きる<今><ここ>において,<われ>と<なんじ>の全人格的呼びかけや出合いの現存在の中に生起し,成熟するものなのである。対話的な思惟は,現代の存在の局面を根本的に変容させたのである。」
 竹内さんが「呼びかけのレッスン」や「<じか>に触れるレッスン」を編み出し,それに磨きをかけていくことになる,そのきっかけを与えた一つがマルチン・ブーバーの『我と汝・対話』というテクストにあったとすれば,植田氏のこの解説はきわめて重要な示唆をふくんでいるように,わたしには思われる。
 とりわけ,引用の最後の部分「この<われ>と<なんじ>の『間の領域』こそ,存在が存在となり,一切が成熟してゆく」 は,竹内さんが何回もくり返しおっしゃっていたことばと共振し,共鳴するように思う。竹内さんの「呼びかけのレッスン」も「<じか>に触れるレッスン」も,なにを隠そう「この<われ>と<なんじ>の『間の領域』」で成り立っているレッスンなのだ。だから,「呼びかけ」られることによって,さらに,<じか>に触れることによって,わたしという「存在が存在となる」。しかも,それをくり返していくことによって「一切が成熟してゆく」ということになる。
 だから,これらのレッスンは何回やってみても同じことは一度もない,そのつど毎回,変化する,と竹内さんはおっしゃる。「存在が存在になる」そのなり方も,「成熟してゆく」その仕方も,まいたびごとに変化する,というのである。レッスンはまるで生きものそのものである,と。

(あとで追加記入の予定)

0 件のコメント: