今日の夕刊に「追憶の風景」というコラムがあって,「神とつながっている世界」という大見出しで,民俗学者谷川健一さんが,写真入りで紹介されている。テーマは「宮古島」。
このコラムの最後のところに「民俗学とは神と人間と自然の交渉の学である」という谷川さんのことばが書き込まれていて,わたしの眼が釘付けになった。なぜなら,9月の神戸例会の折に,スポーツ人類学の専門分科会でのシンポジウムの報告を聞いて以来,カチンとくるものがあって,このところ「スポーツ人類学」とはいかなる学問なのか,と自問自答していたからである。
そのときの報告によると,今福龍太さんの文化人類学の考え方(たとえば,ディスクライブではなくインスクライブする立場)に依拠しながら,シンポジウムを展開したら,袋叩きにあった,というのである。しかも,今福さんの考え方は,スポーツ人類学では受け入れられないということですでに議論済みである,というのである。しかし,どのような議論がなされて,どのような理由で「受け入れられない」という結論に達したのか,会員であるわたしは「学会誌」でも「会報」でも読んだ記憶がない。どこで,いつ,そのような重要な議論がなされたのか,不勉強なわたしは知らないでいた。しかし,わたしのような会員も少なからずいて,いまも,今福さんの理論仮説をてがかりにスポーツ人類学の研究に励んでいるのも事実である。そういう研究者・会員を「論外である」として排除する力がはたらいているとしたら,それは「学会」活動としてはまずいのではないか,とわたしは考える。
そんなわけで,今日の夕刊にあった谷川健一さんのことばは,ことのほか強烈な刺激となってわたしの眼に飛び込んできた。もちろん,厳密にいえば,文化人類学と民俗学は区別されなければならないが,しかし,その大本のところはかなり重複している,近接の学問領域である。スポーツ人類学とて代わらない。たとえば,スポーツ人類学の研究対象となる「綱引き」や「相撲」などは,民俗学の研究対象として取り上げる場合とでは,その方法や目的に間違いなく違いがあるはずであるが,その違いを厳密に説明することはかなり困難であろう。
ところが,スポーツ人類学の学会誌に掲載された論文には,「神と人間と自然の交渉の学」であるという認識はほとんど読み取れない(わたしだけかも知れないが)。わたしに言わせれば,きわめて形骸化した「参与観察」に終始しているように思われる。この「参与観察」という方法論に根源的な問いを発しつつ,その限界性をいかに突き破っていくか,というのが今福さんの一貫した主張であり,考え方である。その主張は『クレオール主義』『荒野のロマネスク』に始まって,最近では『群島─世界論』という膨大な論考を積み上げている。これらの仕事をどのように議論し,それらを超克されたのか,わたしは知りたい。
(未完)
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