2010年10月4日月曜日

朝青龍の「断髪式」のポスターから透けてみえてくるもの

 とても迷ったけれども,やはり,これは書いておこうと覚悟しました。それは,昨日の朝青龍の「断髪式」のポスターに書き込まれたコピーについて。
 まずは,ポスターを紹介しておこう。ポスターの上半分は,朝青龍の土俵入をアップにした写真,その下半分に以下のようなコピーが書き込まれている。
 大きく見出しのことば:「自業自得」
 そして,小さな文字でコピーがつづく。
 「俺はあと2年,大好きな相撲を続けたかった。
  10月3日午前11時。
  この日が相撲人生最後の日。運命の日。断髪の日。
  ほんとうは,あと2年。相撲をやりたかった。
  子供の頃からの憧れだった横綱。
  体も大きくないのに,一生懸命やったんだ。
  俺はやってきたんだ。
  でも。
  わがままをやりすぎたかな。
  まだまだやりたい夢があったのに。
  後悔先に立たずって言葉が骨身にしみる。
  日本のみなさん。
  今まで騒がせてばかりでごめんなさい。
  だから,もう,これが最後の日。
  ぜひ,見守ってください。
  ありがとう。
  日本のみなさん。ありがとう。」

 このポスターのコピーを読んで,みなさんはどんな感想をもたれたことでしょうか。わたしの気持ちは複雑です。朝青龍に初めて会ったときのことからはじまって,「You Tube」でみた「断髪式」の様子まで,さまざまな想い出がめまぐるしく渦をまいています。そして,朝青龍とはいったい何者だったのか,と。
 希代の名横綱にして,やんちゃ坊主。あの天真爛漫な笑顔から,仕切り直しの最後にみせるあの鬼の形相にいたるまで,さまざまな顔を,そのときそのときの感情のまま,素直に表出させる,丸裸の人間そのものとしての朝青龍。そんな剥き出しの,そして粗削りの人間・朝青龍が,わたしは好きだった。いまの世の中,あんな風に生きられる人はだれもいない。多くの人のないものねだりを,朝青龍はひとりで背負って立っていた。そんな朝青龍が好きだった。ひとりくらい,こういう生き方をする人間がいたっていいではないか。こういう横綱に対して「厳重注意」くらいのところでとどめて,泰然自若としていられるくらいの成熟した社会が,わたしは好きだ。日本相撲協会もそのくらいの度量が欲しかった。
 本題にもどろう。
 上記のコピー。わたしはしみじみと眺め,何回も読み返してみる。
 このコピーは,じつによく書けている,と思う。その拙さと巧みさが渾然一体となっていて,このコピーの文章そのものが朝青龍の個性とみごとに重なっていく。いかにも朝青龍らしい。その矛盾したところが。
 わたしの勝手な推量によれば,このコピーは最初に朝青龍が自分の思いの丈をありのまま書いて,それをもとにしてプロのコピー・ライターが手を入れたものではないか,とおもう。でないと,これだけ生々しいことばはでてこないし,素晴らしいリズムもでてこない。まことにぎくしゃくしていながら,それでいて,どこか訴える力をもっている。つまり,アマチュアとプロの技が渾然一体となった,不思議な迫力がある。いかにも,朝青龍らしい・・・というべきか。
 さて,このコピーを読んだ第一感は,やはり,朝青龍はモンゴルの人だったんだなぁ,ということ。日本に対しては,最後まで,ある一定の距離を保っていた。高校1年生で日本に留学してきているので,ことばも達者,そして,日本文化も知り尽くしている,日本人の情感もわかっている。優勝インタビューの受け答えのうまさをみれば歴然だ。しかし,それてもなお,日本人になりきることはなかった。そして,最後の一線はモンゴル人としての矜持だった。だから,モンゴルでは当たり前のことが,なぜ,日本では通用しないのか,と意図的に「やんちゃ」を振る舞いつつ挑発していたのではなかったか,とわたしなどは邪推する。でなければ,あんな,みえみえのやりたい放題をするはずがない。なぜなら,朝青龍その人はとても賢い人なのだから。
 「自業自得」というテーマの選択もみごと。これを言われてしまったら,日本人としては非難のしようがなくなる。なんだぁ,わかってんのか,と。そして,「ごめんなさい」と言われてしまったら,「いやいや,どうしまして」と言わざるをえない。この「ごめんなさい」も,性格が素直な,いかにも朝青龍らしい表現。自分が納得すれば,すぐに「ごめんなさい」と,まるで子供のように詫びを入れる。その代わりに納得がいかなければ,これまたやんちゃ坊主のようにゴネる。場合によっては,口だけではなく,手もでる。「わがままやりすぎたかな」などという表現は,いかにも本人のことばのように聞こえてしまう。しかも,「後悔先に立たず」とまで言わせてしまう。このコピーは,まことに稚拙にみえていて,しかも,みごとに完結している。
 朝青龍という人は,ほどほどの手加減ということを好まない人だった,とわたしは思っている。初めて,わたしが彼と出会ったのは,彼が高校一年生の秋。日本にきてまだ半年ほどのころ。なのに,すでに,日本語にはほとんど不自由していなかった。大阪で開催された「民族スポーツ・フェスティバル」で「モンゴル相撲」を紹介することになって,招聘されたのが朝青龍ファミリーだった。もちろん,そのころはまだ朝青龍ではなくて,ひとりの高校生だったわけだが・・・。かれの父親はモンゴル相撲の大関の地位をもち,かれの兄3人もモンゴル相撲の力士として知られている,いわゆるモンゴル相撲一家なのだ。かれはその末っ子(男4人兄弟)。で,本番の前日のリハーサルのときのことである。兄たちが手加減してかれを投げたとき,そんなんでは駄目だ,もっと,思いっきり投げろ,と注文をつけた。兄たちは,でも,ステージは板敷きだから痛いだろう,とかばう。そんなのは構わない,本気で投げないとモンゴル相撲の迫力がでない,とかれ。兄たちは「わかった」と言ってから,よってたかってかれを投げ飛ばした。みごとな受け身をみせて,わたしは感動したし,でも,全身は打ち身で真っ赤になっている。それでも,本人はいたって満足そうな顔をしている。が,さすがに父親が割って入って,なにやら「打ち合わせ」をして,終わりになった。翌日の本番は,まさに,「手加減なし」の素晴らしいステージが誕生し,観客から大きな拍手をもらっていた。その意味では,かれは根っからのアンターテーナーだったんだなぁ,といまはそうおもう。
 この種の朝青龍の思い出を語りはじめたら,これまた,エンドレス。というわけで,この話はここまでで,ひとまず,おしまい。

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