2015年8月22日土曜日

溝口神社。伊勢神宮の分霊社。しかも,安産祈願の神社。おやっ?なにかあるな?

 溝の口に引っ越してきて間もないころ,そう17年ほど前のこと,近所を散歩していて「溝口神社」に出会い,へえーっ「溝の口」を守る神社があるんだ,という程度の認識ですっかり忘れていた。しかし,沖縄に嫁いだ娘から「溝口神社」は安産祈願の神社で有名なんだと聞かされ,びっくり。あわてて再度,確認のためにでかけてみた。

 もう少し樹木に囲まれた瀟洒な神社だとおもっていたら,どっこい丸裸の小さな社殿がぽつんと建っていた。もっとも裏道から突然,この社殿の前に立ったので,なおさら驚いた。左側に,社殿に似合わないほど立派な社務所があって,ご祈祷の案内やお札などがずらりと並んでいる。しばらく境内でたたずんでいたら,結構,入れ代わり立ち代わりしてお参りにくる人がいる。しかも,そのうちの半数ほどは社務所に向かい,なにやらお話をしている。なるほど,かなり有名な神社なのだと納得。

ふとみると,小さな提灯がぶら下がっていて,よくみると側面に「伊勢神宮の分霊社」と書いてある。えっ?まさか?とびっくり。

どうして?といぶかりながら参道を歩いていたら,溝口神社の案内板があった。そこには「川崎の祈願所」とあり,御祭神は「天照皇大神」と「日本武尊」とある。そして,「神社のいわれ」が縷々詳しく述べられている。それによれば,もともとは「赤城大明神」(「赤城社」)として建てられた神仏混淆の古社であり(1709年),明治になって神仏分離の令によりこの地域の総鎮守として祀るために,新たに伊勢神宮から分霊を迎え,祭神を天照皇大神と日本武尊とし,社名も溝口神社と改めた,とある。

 
明治維新による神仏分離令なるものの実態のひとつの例がここにある,と初めて知り感動。そうか,天皇制の基盤をさらに確固たるものにするための神仏分離令だったのだ,と。そして,伊勢神宮の分霊社は,そんなに多くどこにでもつくれるものではなかったはずなので,この地域では珍重され,大事にされて,多くの信者をもつことになったのだろう,とこれはわたしの想像。
 
その隣には「ご祈祷」の案内板がある。それによれば筆頭が「安産祈願」,つづいて「お宮参り」,「七五三詣」とある。いずれも「子ども」関連である。これが明治以後のことだとすれば,やはり,ここにも富国強兵を支える人材確保,いわゆる「生めよ殖やせよ」政策の反映をみる思いがする。看板を付け替えた神社にはこんな背景も読み取ることができる。いやはや驚くべき発見。

 
そんなことを思いながら参道を歩いていると,狛犬さんに出会う。こちらもよくみると「子持ち」の狛犬さんだ。なるほど,これで,この神社のなりたちがみえてきた。子孫繁栄と国家安泰がセットとなって,伊勢神宮の分霊社を全国にばらまいていった,その一つがこの「溝口神社」だったのだ。つまりは,明治政府の国策の一環として,この神社は機能した,というわけだ。いまは寂れてしまっているが,いっときは相当に繁盛した神社だったに違いない。

 
神社の参道の入口には,「例大祭」のポスターが掲示してあった。9月12,13日とある。どんなお祭りをするのか,ことしは顔を出してみようかとおもう。とりわけ,神社の中での祈願がどのように執り行われるのか,知りたいところだ。できれば,聞き取りもしてみよう。

 
この神社は,旧大山街道に面している。落語の「大山詣」でも知られるように,江戸時代には,江戸の庶民が精進落としも兼ねて,多くの人が大山神社(神奈川県厚木市?)をめざした。その大山街道からこの神社の参道がついていて,その奥まったところに社殿(当時は,「赤城社」)があったことになる。たぶん,大山詣での旅人も,この赤城社に立ち寄り,一休みしながら,旅の無事を祈願したことだろう。


〔追記〕
安産祈願の神社としては,水天宮と溝口神社とが並び称せられているとも聞き,いささか驚いてもいます。それほどの神社であるとしたら,これまでの経緯を調べてみる必要がある,と考えています。なにゆえに「赤城社」を「溝口神社」に社名を変えたのか,もっと深い理由がありそうだからです。なにかが隠されている・・・・そんな予感がいっぱい・・・・。
 
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