2013年6月17日月曜日

パワー・ポイントによるプレゼンテーションについて,ひとこと。

 まだ,大学に勤務していたときから,折にふれ異議申し立てをしていたのですが,一向に相手にもされず一笑に付されたまま,納得できないでいたことのひとつにパワー・ポイントによるプレゼンテーションがありました。たとえば,大学院の修士論文や博士論文の審査会などでパワー・ポイントによる発表がなされることが多くありました。これはこれでいいとおもっていました。この方がわかりやすいという点では文句はありません。しかし,発表が終って,質疑に入ったときに手元になにも資料がありません。すると,どういうことが起きるか。ちょっと記憶を確認しようとおもってもどうしようもありません。あとは,あいまいな記憶を頼りに質問をするしかありません。これではしっかりとした「審査」はできません。ですから,このパワー・ポイントによる発表形式は嫌いでした。終ったあとには,ほとんどなんの痕跡も残らないのです。すべてが忘却のかなたに消え去るのみです。せめて,審査会なのだから,ハードのペーパーを提出すべきではないか,と提案したことがあります。が,そのときの指導教員の応答を聞いて呆気にとられてしまいました。ペーパーを残すと盗用される恐れがあるので,あとに痕跡を残さないパワー・ポイントで発表させているのです,と。国際的な権威のある学会ならともかくも,大学院の修士論文レベルの研究発表です。しかも,その場の多数の意見だったことに,またまた驚きでした。

 同じようなことが,その後,たとえば,わたしの所属しているスポーツ史学会大会でも多くなってきました。パワー・ポイントで発表しつつ,ペーパーも配布する発表者がほとんどですが,時折,パワー・ポイントで発表するだけで,なんの痕跡も残さない発表者がいます。しかも,その傾向が徐々に増えつつあります。これは困った問題だとおもっています。やはり,学会からもどって,あの発表が面白かったなぁと振り返り,そのときの資料を頼りにもう一度,記憶をたどり直すことが,わたしの場合にはよくあります。そのときに資料がなにもないのは困ってしまいます。

 企業などでなされる極秘の戦略会議などでパワー・ポイントを用いて,出席者の合意をえるためだけの目的ならば,それでいいでしょう。間違ってもペーパーの資料は残さない方がいい,という特別の場合もあります。それはそれでいいとおもいます。しかし,極秘にする必要もない,むしろ,みんなに広く周知させたい情報をパワー・ポイントで説明して,あとに手元になにも残らないやり方というのはいかがなものか,と考えてしまいす。しかも,そこでの決定に責任をもたされるということになると,話は別です。

 そういうことが,今日,起こりました。わたしの住んでいるマンションの管理組合のある部会の引き継ぎ会議でのことでした。以前にもこのブログで書きましたように,ことし抽選でみごとに理事に当選してしまいました。75歳以上は辞退することができるという規定がありますが,これまで,なにもしないでお世話になるだけでしたので,お邪魔にならない程度にできることをやってこれまでの恩義を果たすべきだとおもって引き受けました。その結果,管理組合理事会のある部会にわたしも所属して,それなりの役割を分担することになり,その引き継ぎのための会議が今日ありました。そのときの会議が,なんとわたしの嫌いなパワー・ポイントによる説明でした。手元にはなんの資料もありません。それはそれは立派な,要領を得た,とてもわかりやすい手慣れたプレゼンテーションが展開されました。

 途中で,あれっ?と思うことも何回もありました。が,そのすべてをメモすることもできないまま,終って「なにか質問はありませんか」と仰る。なんとなくわかったような気にはなるのですが,もう一度,確認しようと思ったときには手元になにもありません。ですから,及び腰のまま,どうしても気がかりだったふたつの点について,教えてください,とお願いをしました。ほんとうは,もっともっと細部にわたって教えてほしいことがたくさんありました。だって,これからたった4人のまったく経験のない新しい理事で,この部会を支えていかなくてはなりません。その上で,リーダーと書記を決めなさい,ときた。初めて顔合わせをしたばかりのどこのどなたかもよくはわからない人同士で,リーダーと書記を決めることのあまりの不自然さに愕然としてしまいました。そうか,管理組合というのはこんな風にして維持されてきたのか,と。

 で,引き継ぎ事項については,あとでメールで送信します,ということで会議を解散。しかし,いまだにそのメールは届いていません。

 で,どうやら理事会の全体会議のことを合同会議と呼び,そこが理事会の最高の意思決定機関となっているのですが,そこでの会議も,今日,確認したかぎりでは,パワー・ポイントを使って説明をし,採決をするという手続を踏むとのこと。だとしたら,リーダーはパワー・ポイントを駆使してプレゼンテーションができる人しか不適切だ,ということになってしまいます。いろいろ聞いてみますと,必ずしもその必要はないとの説明もありました。

 しかし,主流はすでにパワー・ポイントを用いてすべて処理をし,ペーパー資料のような痕跡を残さない方向に向かっているようです。でも,それは違うのではないか。パワー・ポイントを用いて説明してもいい,同時に,手元に残るペーパーの資料(パワー・ポイントの画面をプリント・アウトしたもの)も配布すべきではないか。そうしないと,あとで,確認する方法がなくなってしまう。情報が上滑りをしていく可能性が大である。

 とまあ,管理組合の理事初体験の,引き継ぎ会議で出会ったパワー・ポイントだけによる説明に,以前から感じていた不安,それも,もっともっと進化したかたちでの,そこはかとない不安を感じた次第です。まあ,どうでもいいや,と思えばこれでいいのです。しかし,いま,すでに,あの話はどうだったのかなぁ,とおもっても確認する方法がありません。この疑問をいだいたときに,すぐに確認できることが重要なのだとわたしは考えています。それがなくなってしまうと,「考える」ということができなくなってしまう,のみならず,考えるということをしなくなってしまいます。そここそが大問題だとわたしは考えています。要するに「思考停止」の始原。

 さあ,これから管理組合にどのようにコミットしていくのか,考えなくてはならない正念場に立たされることになりました。まともなことを言えば言うほど嫌われるだろうし,かといっていい加減にしておくわけにもいかないし・・・・,さて,久し振りの思案のしどころ。

 パワー・ポイント使い方の功罪については,これからも慎重に考えていく必要があることは間違いありません。わたしはそう固く信じています。まずは,隗より始めよ。そのことわざどおりに,これからも慎重に対処していくことにしたいとおもっています。

 パワー・ポイント,とんだ騒動のお粗末。今日はここまで。

1 件のコメント:

柴田晴廣 さんのコメント...

 詐欺でもそうですが、盗用も盗もうとしてるんですから、ありとあらゆる手を使ってくる、これはいわゆる「ふりこめ詐欺」をみれば明らかなことです。
 録音・録画機器が発達した今日で、資料を配布しなければ盗用されないなど、浮世離れした妄想ですね。
 加えておけば、「痕跡を残さない」ということは、仮に盗用された場合、盗用を証明できないということにもなります。
 国立国会図書館では、公表された著作物(著作権法4条)について納本制度の利用を呼びかけています。現在は書籍でなくても、CDに著作物を収録し、題名を印刷したラベルを貼付すれば、受け取ってもらえ、日本全国書誌番号が付与されます。
 こうしておけば、盗用されたときの証明も簡単ですし、万人が公表された著作物にアクセスすることができ、著作権法の法目的である「文化の発展に寄与すること」(著作権法1条)にもなります。
 なお個人が納本制度を利用した場合、定価の半額の金額の還付金を請求することができます。