2013年6月6日木曜日

富士弾丸登山「危ない」から自粛せよ,だと?やはり「世界文化遺産登録」は辞退しよう。

 いまさら富士山を世界文化遺産に登録しなくても,すでに世界中に知れ渡った立派な人類遺産だとわたしは信じている。だから,富士山の世界文化遺産への登録には反対である。登録してもしなくても,富士山は富士山であり,世界に誇る名山であり,その実態はなにも変わらない。

 富士山は,海に近い独立峰なので,どこから眺めても際立った美しさを見せている。駿河湾や伊豆半島からの眺めもとびきり美しいし,山側にまわれば「富士にはススキがよく似合う」(御坂・三ツ峠・太宰治)といわれる絶景があり,八ヶ岳,南アルプス,などのどの山頂からも天気さえよければ,その雄姿を眺めることができる。そして,なにより富士山を眺めていると世俗の汚れたこころが洗い清められる思いがする。むかしからの信仰の山としての威力はいまも少しも衰えてはいない。だから,富士山は日本人のこころの奥深くに根づいた山なのだ。

 だから山開きを待ちわびるようにして一般の登山客も押し寄せてくる。シーズンたけなわともなれば,登山客で長蛇の列ができる。こうなると,健脚者にはまどろっかしくなって,敬遠の対象となる。なかでも健脚を誇る登山者は,昼のピーク時を避けて深夜に登り,ご来光を仰いで下山する,いわゆる「お月見登山」「日の出登山」に向かう。これはいまに始まったことではない。

 志賀直哉の名作『暗夜行路』には,鳥取県の大山(だいせん・またの名は伯耆富士)登山の様子が描かれている。主人公の時任謙作が「六根清浄 お山は青天」と唱えながら,夜を徹して登っていく。そして,頂上でご来光を仰ぐ,感動的なシーンは映画にもなって,強烈な印象となってわたしの脳裏に焼きついている。夜を徹して登山に挑む,体力の限界に接近することによって「六根清浄」が達成され,清いこころで大自然の太陽と真っ正面から向き合う,そのとき人は生まれ変わる,ここに「日の出登山」の大きな意味がある。これは日本人の信仰登山の原点の一つにもなっている。そして,その伝統はいまも引き継がれている。

 いまも,むかしも,体力に自信のある人は,一度は富士登山に挑戦し,しかも,できることなら「日の出登山」を目指す。そのことの,どこがいけないのか。

 今日(6月6日)の「東京新聞」に,びっくりするような囲み記事が掲載されている。
 短いので,全文引用しておこう。

 見出しは,富士弾丸登山「危ない」。山小屋泊まらず,夜通し歩く。山梨,静岡両県,自粛を要望。本文は以下のとおり。

 静岡県の大須賀淑郎副知事と山梨県の横内正明知事は5日,観光庁を訪れ,山小屋に宿泊せずに夜通しで富士山を登る「弾丸登山」の自粛を求める要望書を井出憲文長官に提出した。
 富士山の世界文化遺産登録が確実となり,登山者の増加が見込まれるため,両県が要請した。要望書は「弾丸登山の自粛を呼び掛けてきたが,登山者の30%以上に上るとの推計もあり,放置できない」と指摘。弾丸登山は体調を崩しやすく,事故が起きる危険が高いとして,自粛を関係団体に周知徹底させることを求めた。

 以上である。これについて,ひとことのコメントも付されてはいない。ただ,垂れ流し。ジャーナリストの矜持もなにも感じられない。たんなる情報の提供。この要望書に対して観光庁長官はどのようなコメントをしたのか,なにもない。たぶん,長官はこのまま関係団体に「周知徹底」させる手続をとるのだろうと思われる。これまた,なんの見識もなしに。

 富士山の登山は,いろいろのコースがあるが,一般的には初心者は「五合目」駐車場から入る。ここからの登山は,健脚者にとってはいとも簡単。神奈川県の丹沢山地の南端に大山(おおやま・1252m)というむかしからの信仰の山がある。落語の「大山詣で」で知られるように,江戸庶民にとってもおなじみの,もっともポビュラーな山である。つまり,信仰という名のもとでの物見遊山(筆降ろしというおまけ付き)にでかける山である。五合目からの富士登山はこれよりもはるかに簡単である。健脚者であれば,五合目から頂上まで2時間もあれば充分だろう。

 これを,こともあろうに「弾丸登山」と名づけ,危険だ,と断ずる。ならば,登山はすべからくすべて「危険」である。だから,すべての登山を自粛せよ,と通達をだすべし。

 わたしは,そのむかし縦走登山に没頭したことがあるので知っているが,「弾丸登山」ということばのはじまりは,五万分の一の地図(国土地理院発行)を,東西,あるいは南北に,一日で一枚分を歩き抜けることからきている。そんなことは,加藤文太郎(単独行の名人,というより,あまりのスピードにだれも一緒には歩けなかったというエピソードがある)のような超人にしかできない芸当だ。そんなことばを無批判に富士登山に持ち込んできて,「警告」を発する。この悪意に満ちた権力構造剥き出しの「脅し」はいったいなんのためか。その背後には,あまりあからさまにはしたくない利害関係がうごめいていることも,わたしには透けてみえてくる。

 しかし,そんなことは「棚上げ」にして,ここで企まれていることは,大義名分ともいうべき「世界文化遺産登録」を前面に押し立てての,悪しきポピュリズムの煽動でしかない。弾丸登山「危ない」と書かれれば,登山の知識のない人は「ああ,そうか」となる。「山小屋泊まらず,夜通し歩く」などは非常識きわまりない,と映るだろう。しかし,五合目から「夜通し歩く」となれば,頂上はあっという間に通過し,明け方には御殿場を通過して,もっとさきまで歩いていってしまうだろう。この記事を書いた記者も,それをパスさせたデスクも,そして,最終チェックをした検閲も,富士登山のなんたるかをなにも知らない人ばかりだった,ということのようだ。

 こんな情報が垂れ流されている。新聞というメディアのもつ暴力性に,当事者たちはもっとこまかな注意を払ってほしい。こんな暴力を放置したまま,いまごろになって(いの一番に富士山ならまだわかる)富士山を世界文化遺産にしようという意図はどこからくるのか。

 しかも,すでに情報が流れているように,富士山への「入山料」をとるという話もちらほら。しかも,「5,000円」前後,という。こんなことがまことしやかに囁かれている。そして,ネット上を流れている。狂気の沙汰としかいいようがない。しかも,「5,000円」くらいは相場ではないか,という意図的・計画的な「援軍」まで動員して。

 こうしてメディアは民意を操作していく。その操作性が,このところ露骨になってきている。とりわけ,原発,経済,TPP,憲法,沖縄,体罰,スポーツ,・・・・もろもろ。世も末という体たらく。国民総背番号制のゆくすえは,みるも無惨としかいいようがない。ジョージ・オウエルの描いた『1984年』という小説世界が,いよいよ,この日本で現実となりつつある。

 となれば,朝の起床の様子から,テレビに合わせての体操,食事,トイレ,・・・・すべて当局によって管理されることになる。そういう時代の到来をオウエルは「1984年」と設定していた。

 いささか脱線してしまった。富士山に登るかどうか,どのように登るか,すべからく登山というものは基本的に「自己責任」の上に成り立つ文化だ。そこに,いちいち余分な口出しを,それも「無知」のまま,権力が干渉しようとしている。すでに,改憲議論をさきどりするかたちで,地方自治体が動きはじめている,とわたしにはみえる。

 同じ『東京新聞』の一面に,検証・自民党改憲草案──その先に見えるもの・2,の特集記事が読ませる。大きく「個人の権利より国家」,という見出しが躍ってぽる。内容をみれば,そちらに向かって大きく舵を切ろうとしている意図が丸見えになってくる。護憲派弁護士の伊藤真氏の懸念「脱原発デモつぶし」も可能になってくる「恐れ」がある,が説得力をもつ。

 富士弾丸登山「危ない」から自粛せよ,なとという記事は大したことではない,と人は言うかもしれない。しかし,真実は細部に宿る。蟻の一穴が防波堤を突き崩す。歯止めがきくうちに対策を練るべし。それが国民の使命でもある,とわたしは考える。

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