気がつけばもう6月1日。そして,土曜日。このところ1週間が矢のように飛び去っていく。どうして1週間がこんなに速く過ぎていくのだろうかと呆れてしまう。忙しいわけでもなんでもないのに・・・・。ただ,ぼうっとしているだけなのに・・・・。
学生時代のように,朝から「黒板に向かって坐し」(西田),その間ずっと「昼飯はなにを食べようかと妄想し」(わたし),午後の授業では「どの映画を見にいこうか」と苦慮を重ねた時代が懐かしい。あの時代は時間がゆったりと流れていたように思う。いまは,「黒板を背にして立つ」(西田)ことからも解放され,時間はまったくわたしの自由になるというのに・・・・。
やはり人間はなんらかの拘束があるとそこから自由になろうと努力するが,なんの拘束もなくなってしまうと自由のありがたさも理解できなくなってしまうようだ。もう一度,青春(老春か?)をとりもどすには,毎日の時間割を組んで,みずからを拘束し,そこから逃れるための算段に苦慮する時間を設けるべきなのかもしれない・・・などと真剣に考えている。サクセスフル・エイジングは,なかなかことばどおりには進まない。
閑話休題。
遅れていた『スポートロジイ』第2号の初校ゲラが上がってきたという連絡がみやび出版の伊藤さんからあった。21世紀スポーツ文化研究所(「ISC・21」)の研究紀要として発行してきた『IPHIGENEIA』を改題し,装いも新たに『スポートロジイ』として昨年創刊号を発行。つづけて第2号は,3月末,遅くも4月末には刊行したいと考えていたのだが,わたしの手順が悪く,とうとうこんな時期になってしまった。しかし,公費による紀要発行とは違って,自分のポケット・マネーで発行するものなので,時期に縛られるよりは内容にこだわることにした。
編集業務を担当してくださっているみやび出版の伊藤さんのメールによれば,創刊号よりも内容が充実していて面白い,とのこと。第2号の構成は,大きくは四つの柱になる予定。ひとつは,ドーピング問題,ふたつには,グローバル化と伝統スポーツ(第2回日本・バスク国際セミナーからの抜粋,ここには今福龍太,西谷修の両氏による特別記念講演も収載されている),みっつには,ナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン』をどう読み取るかという合評会をやったときの西谷修さんのお話を載録したもの。というか,西谷さんはきちんとした内容にしておきたかったということで,わざわざ想を練り直し,まったくの書き下ろし原稿を寄せてくださった。よっつには,わたしの研究ノート。題して「スポーツの始原について考える──ジョルジュ・バタイユの思想をてがかりにして」。創刊号のときに,ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』のスポーツ史的読解をこってりとやったので,第2号では,それと連動するかたちで,それ以前に書き散らしていた原稿を掻き集めてきて,「スポーツの始原について考える──ジョルジュ・バタイユの思想をてがかりにして」というタイトルのもとに整理してみた。
こんなところが概要である。
あとは,「第2号のことば」と「編集後記」を書き加えれば,わたしの手から離れることになる。これらは初校ゲラに眼をとおしてから,と考えている。あと一息である。
かたちの見えなかったものが徐々にその姿を見せはじめ,やがてかたちとなり,校正・検閲をすませて一冊の本となり,世に送り出せることの喜びは一入である。こんなことをわたしの道楽でやろうというのだから,贅沢の極みである。しかも,わたしなりの「野望」もある。「スポーツ学」という新しい学問を構想し,初めて提唱したのはわたしだが,その後の使われ方はみごとなまでにお粗末そのもの。「スポーツ学」のなんたるかも考えないで,浅はかなアイディアだけでことを処理して平気である。「スポーツ学」はそんな甘いものではないし,そんなに安易に用いてほしくない,という一種の憤りのようなものがわたしのなかに燃えたぎっている。かといって喧嘩を売ってもはじまらない。ならば,みずから,「スポーツ学」とはなにかという根源的な問いを発し,その答えをみずから模索し,提示していくことが先決ではないかと考える。その手始めが,この『スポートロジイ』の創刊であり,いま,その第2号が世にでようとしている。
この研究紀要が,どういう人に,どのように読まれているのか,いまのところまったく不明である。が,せめて第5号くらいまでは発行をつづけながら様子をみたいとおもっている。いずれにしても,内容がかなり先鋭的(前衛的,哲学的,思想的・・・)なので,いますぐに理解が得られるとはおもっていない。おそらく10年,20年の時間を経たころに,この『スポートロジイ』の評価が定まるのだろうと想像している。わたし自身でそれを見届けることがてきるかどうかも定かではない。が,それでも,まことにスリリングで,道楽としては最高のものだと自負している。
というようなことで,『スポートロジイ』第2号の現状報告としたい。
内容は熟読玩味に値する,きわめて先鋭的なものである,と予告しておきたい。
乞う,ご期待!
学生時代のように,朝から「黒板に向かって坐し」(西田),その間ずっと「昼飯はなにを食べようかと妄想し」(わたし),午後の授業では「どの映画を見にいこうか」と苦慮を重ねた時代が懐かしい。あの時代は時間がゆったりと流れていたように思う。いまは,「黒板を背にして立つ」(西田)ことからも解放され,時間はまったくわたしの自由になるというのに・・・・。
やはり人間はなんらかの拘束があるとそこから自由になろうと努力するが,なんの拘束もなくなってしまうと自由のありがたさも理解できなくなってしまうようだ。もう一度,青春(老春か?)をとりもどすには,毎日の時間割を組んで,みずからを拘束し,そこから逃れるための算段に苦慮する時間を設けるべきなのかもしれない・・・などと真剣に考えている。サクセスフル・エイジングは,なかなかことばどおりには進まない。
閑話休題。
遅れていた『スポートロジイ』第2号の初校ゲラが上がってきたという連絡がみやび出版の伊藤さんからあった。21世紀スポーツ文化研究所(「ISC・21」)の研究紀要として発行してきた『IPHIGENEIA』を改題し,装いも新たに『スポートロジイ』として昨年創刊号を発行。つづけて第2号は,3月末,遅くも4月末には刊行したいと考えていたのだが,わたしの手順が悪く,とうとうこんな時期になってしまった。しかし,公費による紀要発行とは違って,自分のポケット・マネーで発行するものなので,時期に縛られるよりは内容にこだわることにした。
編集業務を担当してくださっているみやび出版の伊藤さんのメールによれば,創刊号よりも内容が充実していて面白い,とのこと。第2号の構成は,大きくは四つの柱になる予定。ひとつは,ドーピング問題,ふたつには,グローバル化と伝統スポーツ(第2回日本・バスク国際セミナーからの抜粋,ここには今福龍太,西谷修の両氏による特別記念講演も収載されている),みっつには,ナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン』をどう読み取るかという合評会をやったときの西谷修さんのお話を載録したもの。というか,西谷さんはきちんとした内容にしておきたかったということで,わざわざ想を練り直し,まったくの書き下ろし原稿を寄せてくださった。よっつには,わたしの研究ノート。題して「スポーツの始原について考える──ジョルジュ・バタイユの思想をてがかりにして」。創刊号のときに,ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』のスポーツ史的読解をこってりとやったので,第2号では,それと連動するかたちで,それ以前に書き散らしていた原稿を掻き集めてきて,「スポーツの始原について考える──ジョルジュ・バタイユの思想をてがかりにして」というタイトルのもとに整理してみた。
こんなところが概要である。
あとは,「第2号のことば」と「編集後記」を書き加えれば,わたしの手から離れることになる。これらは初校ゲラに眼をとおしてから,と考えている。あと一息である。
かたちの見えなかったものが徐々にその姿を見せはじめ,やがてかたちとなり,校正・検閲をすませて一冊の本となり,世に送り出せることの喜びは一入である。こんなことをわたしの道楽でやろうというのだから,贅沢の極みである。しかも,わたしなりの「野望」もある。「スポーツ学」という新しい学問を構想し,初めて提唱したのはわたしだが,その後の使われ方はみごとなまでにお粗末そのもの。「スポーツ学」のなんたるかも考えないで,浅はかなアイディアだけでことを処理して平気である。「スポーツ学」はそんな甘いものではないし,そんなに安易に用いてほしくない,という一種の憤りのようなものがわたしのなかに燃えたぎっている。かといって喧嘩を売ってもはじまらない。ならば,みずから,「スポーツ学」とはなにかという根源的な問いを発し,その答えをみずから模索し,提示していくことが先決ではないかと考える。その手始めが,この『スポートロジイ』の創刊であり,いま,その第2号が世にでようとしている。
この研究紀要が,どういう人に,どのように読まれているのか,いまのところまったく不明である。が,せめて第5号くらいまでは発行をつづけながら様子をみたいとおもっている。いずれにしても,内容がかなり先鋭的(前衛的,哲学的,思想的・・・)なので,いますぐに理解が得られるとはおもっていない。おそらく10年,20年の時間を経たころに,この『スポートロジイ』の評価が定まるのだろうと想像している。わたし自身でそれを見届けることがてきるかどうかも定かではない。が,それでも,まことにスリリングで,道楽としては最高のものだと自負している。
というようなことで,『スポートロジイ』第2号の現状報告としたい。
内容は熟読玩味に値する,きわめて先鋭的なものである,と予告しておきたい。
乞う,ご期待!
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