今日(26日),『スポートロジイ』第2号の再校ゲラがとどきました。これの編集をお願いしているみやび出版の伊藤さんから,まずは今福さんの講演録から読んでみてください,とコメントがありました。初校のときには,わたしは時間がなくて,別の人の原稿を一生懸命に読んでいました。今福さんのものは伊藤さんがしっかりみてくださるものと信じていましたので,あとまわしにしていました。ただ,今福さんからは,直接お会いしたときに,しっかり手を入れたいと思っている,とお聞きしていましたので,どんな風になったかなという密かな期待はありました。
が,今日,真っ先に読ませていただいて,ビックリ仰天でした。これは書き下ろしではないか,と。しかも,その密度の濃さに圧倒されてしまいました。最初の第一行からわたしのこころを鷲掴みにしてしまい,夢中になって読んでいるうちに,なんどもなんども無呼吸状態になって苦しくなり,びっくりして深呼吸をする,ということの繰り返しでした。最後まで一気に読まされてしまう,恐るべき内容になっています。
さて,この今福さんの講演録のすごさをどのように表現したらいいものか,これまた大変なことです。まあ,思いきって,わたしの受け止めたままを,ひとことで言ってしまえば,これは現代という時代・社会を生きる人間としての,こころの底からの「スポーツ批評」そのものではないか,ということです。つまり,いま,わたしたちの目の前で起きている「近代競技スポーツ」(今福さんの独特の用語)の諸矛盾について考えていくと,そのさきには身体に埋め込まれた始原の記憶が待ち受けている,だから,その身体の始原の記憶や身体の生成の記憶をいま一度探り出すことによって,これまで潜在化していた「スポーツの本質」を浮き彫りにすることができるのではないか,とわたしは受け止めました。
「スポーツ批評」といえば,この講演録のなかで今福さんも触れているのですが,ご自身の書かれた『ブラジルのホモ・ルーデンス』が想起されます。なぜなら,この本のサブタイトルは「サッカー批評原論」となっているように,徹底した「サッカー批評」を展開されています。それを,こんどは「スポーツ批評」全体に拡大し,具体的な例を挙げて,説得力のある,明晰な分析の妙味を堪能させてくれます。そのあまりの迫力に圧倒されてしまい,ついには,なんども無呼吸に陥る,という次第です。でも,それがまた快感であり,快楽でもありました。
とまあ,どんな風に表現してみても,表現不足。自分でまどろっこしくなるばかりですので,その触りの部分を引いておきたいとおもいます。たとえば,以下のようです。
「・・・・いずれにしても,我々の身体と歴史の間の呼応関係,相互の干渉,紛争,そういう問題がここに出てきます。我々の身体に刻み込まれている歴史とは何か。それは,近代のスポーツを取り上げてみれば明らかになるわけですけども,そごで明らかになるのは支配的な歴史,制度的な歴史,権力によって構築されてきた歴史です。それは,われわれの近代の歴史そのものが戦争という,ひとつの強力な社会の変革力,それを軸にして語られてきたということを示しています。歴史は常に戦争という変動力をひとつの軸にして語られてきたわけですね。それとちょうど並行するように,戦争を擬似的な対抗原理として受け止めた時に「競争」という原理が出てきます。この戦争や競争あるいは勝敗原理といったものによって貫かれている歴史が,まさに近代スポーツという身体の中に深く刻み込まれている。この戦争,競争,勝敗原理という連続体が歴史として,われわれのスポーツする身体の中に深く刻み込まれているのです。」
と述べた上で,多木浩二の「写真論」を援用して,歴史というものにも乱丁や落丁がある,写真とはその歴史の乱丁や落丁の証しであり,表現である,と述べた上でつぎのように今福さんは持論を展開されています。
「この示唆を受けて,ここで私は身体というものも一つの歴史の乱丁の証と考えることができないであろうか,という問いかけをしたいと思うのです。これは,先ほど言ったような戦争,競争,勝敗原理といった連続体によって刻み込まれた歴史ではなくて,むしろそういう歴史の中で忘れ去られているある乱丁や落丁の痕跡です。それが身体の奥深いところに刻み込まれているのではないかということです。そこには,歴史の亀裂が封じ込まれているのではないか。支配的な歴史によっては捉えることができないような断片的な歴史が,乱丁のように,迷路のようにして身体の中に沈んでいるのではないか。正当な歴史的視点によっては見いだされないある種のリアリティが身体の中に眠っているのではないか,そういう問いかけです。」
こうした伏線を布いた上で,さまざまな具体的な事例を引き合いに出して,詳細な考察を加えていきます。たとえば,ロンドン・オリンピックでの柔道の「ポイント制」「ジャッジ」「指導」「審判」「これは柔道ではない」「ビデオ判定」などについて。そして,最後につぎのように述べています。
「写真が歴史の乱丁であり落丁であると多木さんは言われたわけですが,写真はその成立の初期から人間の身体を最も大きな対象としてずっと撮り続けてきたことも事実です。ですから,写真と身体は非常に深く関わっている。その写真映像が逆にデジタルな事実をつくり出してスポーツを搾取しようとしているのは,身体と写真映像の深い関係の反作用として生まれた問題かもしれない。ともかく,スポーツの探求は,歴史哲学的な探求としての歴史の乱丁や落丁を探り出すという作業につながってくるだろうと思います。身体という亀裂,空白,揺らぎ,その中に競争原理から離れた固有の美しさや快楽を探すことは,そうした思想的な探求につながっていくに違いないと私は確信しています。」
ここで述べられている「スポーツの探求は,歴史哲学的な探求としての歴史の乱丁や落丁を探り出すという作業」という言説が,わたしには強烈な印象となって残りました。
この今福さんの講演録が掲載される『スポートロジイ』第2号は,いまのところ7月15日発行の予定で進行しています。明日には,再校ゲラをもどすことになっています。今夜は眠れそうにありません。
が,今日,真っ先に読ませていただいて,ビックリ仰天でした。これは書き下ろしではないか,と。しかも,その密度の濃さに圧倒されてしまいました。最初の第一行からわたしのこころを鷲掴みにしてしまい,夢中になって読んでいるうちに,なんどもなんども無呼吸状態になって苦しくなり,びっくりして深呼吸をする,ということの繰り返しでした。最後まで一気に読まされてしまう,恐るべき内容になっています。
さて,この今福さんの講演録のすごさをどのように表現したらいいものか,これまた大変なことです。まあ,思いきって,わたしの受け止めたままを,ひとことで言ってしまえば,これは現代という時代・社会を生きる人間としての,こころの底からの「スポーツ批評」そのものではないか,ということです。つまり,いま,わたしたちの目の前で起きている「近代競技スポーツ」(今福さんの独特の用語)の諸矛盾について考えていくと,そのさきには身体に埋め込まれた始原の記憶が待ち受けている,だから,その身体の始原の記憶や身体の生成の記憶をいま一度探り出すことによって,これまで潜在化していた「スポーツの本質」を浮き彫りにすることができるのではないか,とわたしは受け止めました。
「スポーツ批評」といえば,この講演録のなかで今福さんも触れているのですが,ご自身の書かれた『ブラジルのホモ・ルーデンス』が想起されます。なぜなら,この本のサブタイトルは「サッカー批評原論」となっているように,徹底した「サッカー批評」を展開されています。それを,こんどは「スポーツ批評」全体に拡大し,具体的な例を挙げて,説得力のある,明晰な分析の妙味を堪能させてくれます。そのあまりの迫力に圧倒されてしまい,ついには,なんども無呼吸に陥る,という次第です。でも,それがまた快感であり,快楽でもありました。
とまあ,どんな風に表現してみても,表現不足。自分でまどろっこしくなるばかりですので,その触りの部分を引いておきたいとおもいます。たとえば,以下のようです。
「・・・・いずれにしても,我々の身体と歴史の間の呼応関係,相互の干渉,紛争,そういう問題がここに出てきます。我々の身体に刻み込まれている歴史とは何か。それは,近代のスポーツを取り上げてみれば明らかになるわけですけども,そごで明らかになるのは支配的な歴史,制度的な歴史,権力によって構築されてきた歴史です。それは,われわれの近代の歴史そのものが戦争という,ひとつの強力な社会の変革力,それを軸にして語られてきたということを示しています。歴史は常に戦争という変動力をひとつの軸にして語られてきたわけですね。それとちょうど並行するように,戦争を擬似的な対抗原理として受け止めた時に「競争」という原理が出てきます。この戦争や競争あるいは勝敗原理といったものによって貫かれている歴史が,まさに近代スポーツという身体の中に深く刻み込まれている。この戦争,競争,勝敗原理という連続体が歴史として,われわれのスポーツする身体の中に深く刻み込まれているのです。」
と述べた上で,多木浩二の「写真論」を援用して,歴史というものにも乱丁や落丁がある,写真とはその歴史の乱丁や落丁の証しであり,表現である,と述べた上でつぎのように今福さんは持論を展開されています。
「この示唆を受けて,ここで私は身体というものも一つの歴史の乱丁の証と考えることができないであろうか,という問いかけをしたいと思うのです。これは,先ほど言ったような戦争,競争,勝敗原理といった連続体によって刻み込まれた歴史ではなくて,むしろそういう歴史の中で忘れ去られているある乱丁や落丁の痕跡です。それが身体の奥深いところに刻み込まれているのではないかということです。そこには,歴史の亀裂が封じ込まれているのではないか。支配的な歴史によっては捉えることができないような断片的な歴史が,乱丁のように,迷路のようにして身体の中に沈んでいるのではないか。正当な歴史的視点によっては見いだされないある種のリアリティが身体の中に眠っているのではないか,そういう問いかけです。」
こうした伏線を布いた上で,さまざまな具体的な事例を引き合いに出して,詳細な考察を加えていきます。たとえば,ロンドン・オリンピックでの柔道の「ポイント制」「ジャッジ」「指導」「審判」「これは柔道ではない」「ビデオ判定」などについて。そして,最後につぎのように述べています。
「写真が歴史の乱丁であり落丁であると多木さんは言われたわけですが,写真はその成立の初期から人間の身体を最も大きな対象としてずっと撮り続けてきたことも事実です。ですから,写真と身体は非常に深く関わっている。その写真映像が逆にデジタルな事実をつくり出してスポーツを搾取しようとしているのは,身体と写真映像の深い関係の反作用として生まれた問題かもしれない。ともかく,スポーツの探求は,歴史哲学的な探求としての歴史の乱丁や落丁を探り出すという作業につながってくるだろうと思います。身体という亀裂,空白,揺らぎ,その中に競争原理から離れた固有の美しさや快楽を探すことは,そうした思想的な探求につながっていくに違いないと私は確信しています。」
ここで述べられている「スポーツの探求は,歴史哲学的な探求としての歴史の乱丁や落丁を探り出すという作業」という言説が,わたしには強烈な印象となって残りました。
この今福さんの講演録が掲載される『スポートロジイ』第2号は,いまのところ7月15日発行の予定で進行しています。明日には,再校ゲラをもどすことになっています。今夜は眠れそうにありません。
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