2014年10月4日土曜日

西谷修さんの新著『破局のプリズム』(ぷねうま舎刊)をお薦めします。チョー哲学=世俗哲学の手の内を考える。

 
しばらく前から西谷さんが「ちょうてつがく」ということばを発するようになり,わたしは勝手に「超哲学」だと思っていました。それでもなんとなく不安でしたので,直接,伺ってみました。すると意外な答えが返ってきました。文字で書けば「チョー哲学」です,と。なぜ,カタカナなのか,と一瞬考えてしまいました。

 そこには西谷さんならではの皮肉とジョークがこめられているのだろう,とこれはわたしの解釈。皮肉は,硬直化してしまって現実と向き合わなくなってしまった「哲学」一般に対するものなのかな,と。それも「哲学」を超越してしまっては,もはや意味をなさなくなってしまいます。ですので,その中間あたりをねらっての「お遊び」ではないか,と。しかも,「チョー・カワイイ」という流行語ともひっかけてのジョークにも通じているようです。もっと言ってしまえば,形而上学に凝り固まってしまった思考は,こんにちの世界や時代に対応できないものになってしまった,とりわけ,「9・11」以後,さらには「3・11」以後の時代や世界を受け止め,分析していくことはできなくなってしまった,という認識があってのことだと思います。つまり,未来にあるべきはずの「破局」が「いま,ここに」きてしまった,この時代・世界に向き合うためには「チョー哲学」こそが必要なのだ,という主張でもあるとわたしは理解しています。そして,その中心にある視座は「生身の人間」である,と。


 つい先日亡くなられたばかりの哲学者・木田元さんは「反哲学」ということばを用いて,少なくともハイデガー以後の哲学は,それまでの形而上学とは一線を画すものだ,という立場を貫かれました。『反哲学史』(講談社学術文庫)などにその主張が如実に現れていたように思います。

 西谷さんの主張は,木田さんの「反哲学」とも異なります。西谷さんの主張は,たぶん,ごくごく平凡な日常を生きる「生身の人間」の視点から,心ならずも「破局」を迎えてしまった「いま,ここ」に視線を注ぎ,このような事態にいたってしまった時代や世界を直視し,根源的な問いと答えを導き出そう,としているように見受けられます。その方法論が「チョー哲学」,すなわち「世俗哲学」というわけでしょう。

 しかし,世間一般の認識では,「世俗哲学」は,いわゆるアカデミックな「哲学」とは違って,一段低い,素人哲学といったニュアンスがあるように思います。その辺りのことを意識してか,西谷さんは,あえて「チョー哲学」といい,しかも,真の「世俗哲学」こそが「生身の人間」のための「哲学」なのだ,と主張されているように思います。

 以上が,西谷さんの新著『破局のプリズム』──再生のヴィジョンのために,を読みながらわたしの頭のなかを駆けめぐり,考えたことのもっとも大きなテーマでした。

 内容については,いつも思うことですが,ずいぶん前に書かれた言説であっても,少しも「古く」ならない,それどころかより「光彩」を放ちはじめることに感動です。時代や世界や経済や戦争や社会や宗教や芸術や文学や思想や哲学や医療や芸能やスポーツや人間を隈なく渉猟し,深い洞察から導き出される西谷さんならではの「芸」だ,とわたしはいつも感心しています。こんなに広い視野と深い洞察を持ち合わせている人を知りません。

 いよいよ佳境に入る,そんな心境すら透けてみえてくる名著です。
 こころからの敬意をこめて,西谷さんのこの新著をお薦めさせていただきます。

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