2014年10月7日火曜日

「東京五輪の会場見直し」という新聞記事にもの申す。

 わたしがこよなく愛している東京新聞ですが,運動部の書く記事にはときおり眼を覆いたくなるような,お粗末な紙面にでくわすことがあります。今日(10月7日)の朝刊の「解説」「記者の眼」という欄に,そのサンプルが登場してしまいました。リードの部分は「高橋知子」という記者名が入っていますが,本文の最後のサインは(運動部)となっています。ということは,東京新聞の「運動部」の共通認識であり,共通の見解である,と受け止めることがてきます。しかも,デスクが最終的には,これでよし,というお墨つきを出しているはずです。

 となると,こんなレベルの問題意識しかないのか,と落胆してしまいます。もっと骨のある「批評性」を全面に展開するくらいのことをやってほしい。そのための「解説」であり,「記者の眼」という欄であるはず・・・。まずは,とくと記事の内容をご覧ください。

 
クレームをつけたいことはいくつもありますが,できるだけ焦点を絞って,わたしの見解を述べてみたいと思います。

 まずは,リードの最後の文章。「その計画は今,膨れ上がる会場整備費を前に揺らぎ始めている」というくだり。いかにも,もっともらしく,わかりやすいし,そのとおりなのですが問題はそれだけではありません。もっと大事なことが抜け落ちています。それは,「IOCアジェンダ21」に違反しているという事実です。そのことを指摘する抗議の声が,建築家集団からも,市民団体からも,自然保護団体からも,そして学会からも指摘され,国内の五輪関係団体に抗議とともに提示されているばかりではなく,IOCの本部にもこれらの異議申し立てが届いていてるという事実です。しかも,IOCの調整委員からも応答があり,問題を重視している,という返事をもらっているといいます。問題はこちらの方が重大です。

 たしかに,建築業界は資材・人材が足りず,会場整備のための諸経費が跳ね上がっていることは事実です。それは新国立競技場建設計画の経緯をみているだけでもわかります。しかし,どうしても必要なものであり,それだけの価値のあるものであるならば,お金を捻出することは不可能ではありません。しかし,問題は,そんなにカネをかける必要があるのか,という会場設備計画の杜撰さにあります。だから,いまごろになって「見直し」などというお粗末なサル芝居が始まってしまうわけです。新築などしなくてもできる会場はいくらでもあります。なによりも1964年の東京五輪の時の遺産があります。現国立競技場のように,少し改修をすれば,立派に使える会場はいくらでもあります。

 なのに,わざわざ東京湾埋め立て地の,東京都が保有している買い手のつかない遊休地に無理矢理,五輪という名のもとに新しい会場施設を建造しよう,というのです。言ってみれば,石原都政がたくらんだ虫のいい話です。ところが,ここにきて建造費が膨大に膨れ上がったために,舛添都知事があわてて,それらを「見直す」と言っているだけの話です。なんのことはない,よくよく計画を検討してみたら,まったくでたらめな計画ばかりであるということが発覚しただけの話です。それほどいい加減なことが,東京五輪招致の背後では行われてきた,というわけです。

 ところが,そこに,運動部の記者さんたちの眼がとどいていません。ですから,こんな薄っぺらな記事になってしまうのです。この問題は掘り下げていけは,日本の政治と経済の根幹にかかわる根源的な核心に触れることになります。そこまでやるにはスペースが足りませんが,ちらりと指摘するくらいは可能です。

 もう一点だけ。これも本文の最後の文章です。「今回,新たに建設される会場も,先々まで利用されることが望ましい。ずっと将来,三度目の東京五輪が実現したら,その時でも活用できる会場を造る,という視点があってもよいかもしれない」。

 なにを寝ぼけたことを言ってるのか,とここでも大声を発してしまいました。この文章も,一見したところ,きわめて常識的で,まっとうな内容のようにみえます。でも,これはいまの時代を席巻しているポピュリズム的視点とほとんど変わりません。しかし,ここにもきわめて重大な視点の欠落があります。

 もはや,東京都内には,そして,その隣接県には,有り余るほどの立派なスポーツ施設が建造されています。しかし,これらは一般市民には遠い存在で,ほとんど利用不可能な条件で,囲い込まれています。それなのに,まだまだ立派なスポーツ施設を建造せよ,と言っています。これらのスポーツ施設は相当に大きなスポーツ大会でないかぎり利用できない施設ばかりです。それでも,まだまだ同じようなスポーツ施設を造るのが望ましい,と言っているのです。利用頻度のきわめて少ない巨大なスポーツ施設をいっぱい造って,いったい,どうしようというのでしょうか。

 もっと重要な視点があります。それは,2050年には日本という国のかたちがどうなっているのか,という視野の広さです。「ずっと将来,三度目の東京五輪が・・・」,三度目ではありません,四度目です(一回は,戦争によって返上しています。今回も,土壇場で返上ということもありえます)。それはともかくとして,「ずっと将来」の日本はこんにちの延長線上にはありません。たとえば,もっと近い将来の2050年ですら,建築家の槇文彦氏の積算によれば,人口の半分は高齢者となり,典型的な高齢化社会が出現し,国民総生産は世界の14位あたりまで下がるだろう,と予測しています。となりますと,スポーツ施設の維持管理どころか,国家をどのようにして支えていけばいいのか,という重大な問題が待ち構えています。槇文彦氏はこうしたことを視野に入れて,たとえば,新国立競技場建設計画を抜本的に見直すべきだ,と提言しています。

 もはや事大主義の時代は終わったのです。これからは縮小化の時代です。槇文彦氏は,新国立競技場建設計画を最低限のものに抑え,子どもたちのスポーツの広場として自由に活用できるように工夫し,時代のニーズに合わせて観客席を少しずつ取り壊し,最終的には全部取り壊してしまって,一般市民のスポーツのためのマルチ広場にすべきだ,と提案しています。

 その根拠は,大正時代の先祖が,神宮外苑をスポーツ公園として開発するという英断を下してくれた,そのお蔭でいまのわたしたちはその恩恵に浴し,巨大なスポーツ・イベントを開催して,世界のスポーツを堪能することができるようになった。人口も増大し,国民総生産も右肩上がりで上昇した。しかし,これからは下り坂の時代です。となれば,やがては大きなスポーツ・イベントは不要となる時代がやってきます。そのときには,大正時代の祖先へのご恩返しとして,未来の子孫のために,もとの更地にしてお返しするのが,人としての道だ,と槇文彦氏は説いています。

 世界的な名声をほしいままにした建築家の見識は素晴らしいものです。これらの話は活字になって本にもなっています。この他にも,たとえば,伊東豊雄さんの素晴らしい提案もあります。こうした最近の動向を,東京新聞の「運動部」の記者さんたちは視野に入れているのだろうか,と訝らざるを得ません。もし,スペースの関係で,この程度の話に落とし込んだのだとすれば,こんご,連載でいいですから,「東京五輪を考える」という特集を組み,詳細に問題の所在を明示していただきたいと希望します。わたしも,このブログを通じて,東京五輪の問題点については,少しずつになりますが,書きつづけようと思っています。

 長くなってしまいました。今日のところはここまで。
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