2014年10月29日水曜日

「小野の里」(小野妹子,小野篁,小野小町,小野道風,などゆかりの地)をフィールドワークしてきました。

 びわ湖の西岸を走る湖西線の沿線に,「小野」という駅があります。つぎの駅が「和邇」。このふたつの駅の間の山側に,いわゆる「小野の里」とよばれる地域が広がっています。たった一駅の区間ですので,ハイキング・コースとして知られ,ふたつの駅ではハイキング・コースの絵地図を用意しています。駅員さんに声をかけるとすぐに手わたしてくれます。

 健脚者であれば,もっと山側に分け入っていくと,古い古墳群が点在していますし,そのむかし和邇一族が鉄の加工を行っていたという蹈鞴(タタラ)の遺跡も残っているとのことです。このタタラ遺跡は,この地域の古代史の謎を解くためのキー・ポジションのひとつでもあります。なぜ,この地にタタラ遺跡が残されたのか。当時の日本には鉄鉱石から鉄を抽出する技術はまだありませんから,鉄のかたまりを朝鮮半島から運び,この地で鉄の加工を行ったというのです。ですから,なぜ,この地で?という疑問が湧いてきます。

 わたしたちは総勢5人。そのうちのひとりは「小野」姓。しかも,かれの家系図には小野篁がその祖であると明記されていて,大事に保存されている,といいます。しかも,かれがその小野家のご当主でもあります。かれ自身もまた半信半疑ながら,ひょとしたら,という期待もあっての参加です。ですから,単なる「小野の里」めぐりでは済まされません。おのずからなる緊張感もただよっていました。そんなわけで,これまでに経験したことのないフィールド・ワークになりました。

 同行者のもうひとりは「河童研究者」。タタラを支えていたのは和邇一族。その和邇から分離独立したのが小野一族。となれば,朝廷の中央と密接な関係にあった小野一族(小野妹子を筆頭に)が,あるときからその存在が曖昧になり,分散離散していく運命をたどることになる,この経緯をしっかりと分析していくと,「河童」との接点もなきにしもあらず,というわけです。

 わたしの仮説では,天智天皇が大津宮を造営し,その地で天皇に着任したこと(なぜ,この地でなければならなかったのか,という点についてはまた別の機会に),そして,3年後には病没,その直後には,弟であるのちの天武天皇に滅ぼされたこと(壬申の乱,これもまた説明不能な暗い陰の部分がありますが,これもいずれまた),このとと小野一族が深くかかわっていたのではないか,というのが一つ。もう一つは,小野神社の社務所で仕事をしていた古老の人から聞いた話。それは,南北戦争のときに小野一族は後醍醐天皇側につき,敗戦とともに離散してしまった,というもの。その結果として,「小野に小野なし」といわれるように,小野の里に小野姓を名乗る家系は一軒もない,とのこと。

 となると,これは出雲族と同じで,国譲りのあとは,全国に離散していったこととよく似ています。しかし,出雲族には知恵者がいて,崇神天皇(神武天皇と同一人物説あり)以下の天皇と手を結び(そのうちのひとりがノミノスクネ),天皇家にまつろった一族は栄華をきわめ,まつろわなかった一族はエタ・ヒミンとなり,さらに差別された一族は「河童」にされてしまいます。

 こんなことを考えてみますと,「小野に小野なし」と伝承されてきたということは,小野姓を名乗ること自体が反天皇ということを意味することになり,したがって,小野姓を捨てて別姓を名乗るか,それとも小野姓を名乗りつつ隠れ里に蟄居するか,のいずれかの選択を迫られたのではないかと考えることができます。

 まあ,こんなことを考えながら,「河童研究者」の車に便乗して,小野姓を名乗る研究者仲間と一緒に「小野の里」をめぐりました。駅でもらった絵地図によれば,和邇駅をスタートとするハイキング・コースになっていますが,わたしたちがもらった絵地図は小野駅でしたので,そのハイキング・コースを逆に移動することになりました。最初に行ったところは唐臼山古墳(小野妹子が埋葬されていたところと考えられており,その遺跡を中心に,いまは小野妹子公園と呼ばれています)。この地は深い感動を覚えました。いずれ写真を提示しながら,くわしく感想を書いてみたいと思っています。

 つぎにたどりついたのは小野道風神社。大きなお寺の横の路地を入った突き当たりのところにありました。どちらかといえば瀟洒なこじんまりとした神社でした。ここでのくわしい感想もまた,別の機会に。

 つぎは小野神社・小野篁神社。ここは境内も大きく,しっかりとした構えの神社でした。いかにも小野一族の祖霊を祀る神社といった風格を備えていました。ここで,社務所にいた古老から小野一族に関する伝承をいろいろと聞かせていただきました。これは偶然でしたが,なかなかのインフォーマントとしての役割を果たしてくださいました。ありがたいことです。それは,同行した小野姓を名乗る,わたしたちの研究者仲間のお蔭でした。家系図の話もしてありましたので,当然のことながら,古老の弁にも熱が入ります。

 最後に到達した神社が「天皇神社」。これがどういう性格の神社なのか,あちこち眺めまわしましたが,つかめないままでした。同名の神社も聞いたことがありませんし,不思議な神社でした。なぜ,「天皇神社」などという名の神社がこの地に存在するのか。なにか,隠された伝承でもあるのでは・・・?と想像をたくましくしています。

 トータルの感想を書いておけば,さらなる予備調査をした上で,確かなインフォーマントをみつけてインタヴューをしてみたい,その上で,もう一度,自分の脚でこの地を歩いてみたい,としみじみ思いました。

 以上,とりあえずのご報告まで。詳しくはまたのちほど。

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