2014年7月23日水曜日

ちかごろ上空がやたらとうるさい。オスプレイ飛行訓練のための地ならしか。

 じつは,しばらく前から上空の騒音がうるさいと感じていました。しかし,その頻度はまだ許容範囲でした。ときおり,耳を引き裂くような轟音の飛行機が,低空で通りすぎていきます。それは,なにごとか緊急事態でも起きたのかと心配になるほどのものです。

 ヘリコプターは,時折,なにか事件がおきると上空を何機も飛来することがあります。これは音でわかります。火事か,大きな交通事故か,といった類のものがほとんどです。しかし,ヘリコプターではない飛行機が低空で通過するのです。民間の旅客機は,よほどのことがないかぎり高度1万メートル前後の高さで飛んでいますので,その音はほとんど聞こえません。が,最近,飛んでいる飛行機は低空飛行です。

 これは自衛隊の飛行機なのだろうか,それともアメリカ軍の軍用機なのだろうか。わたしには区別がつきません。が,いずれにしても,とにかく驚くべき轟音です。びっくりして音のする方を追ってみますが,その姿を見かけたことはほとんどありません。なぜなら,雲が低く垂れ込めた日に飛来することが多いからです。どうやら,雲に隠れるようにして低空飛行の訓練をしているように思えてなりません。

 そこで気になるのはオスプレイです。このところ全国展開の様相をみせ,沖縄や岩国だけではなく,とうとう関西を超えて関東への飛来し,ついには北海道にまで達しています。わたしの住んでいるところは厚木基地や横田基地に近いので,これからオスプレイが飛行訓練をする可能性はきわめて高いと思われます。だとすれば,一般市民の間に,いまのうちに轟音に対する免疫をつくっておく必要がある,とオスプレイの飛行訓練を計画している関係者が考えたとしてもおかしくはありません。その延長線上での,最近の轟音なのかなぁ,と勘繰ったりしています。

 つい最近,以下のようなFB情報に出会い,大きな衝撃を受けています。

 蓮見唯香 @YUIKA322 2014/07/17 16:05
 オスプレイ原価5億円を,アメリカは15億円で買い,イスラエルは30億円で買った。それを日本は100億円で買うそうです!!17機で1700億円!!冗談じゃない・・・・。いますぐ増税しないと国家破綻すると言ってる国がよくもまぁ金あるな!?日本はアメリカの下ろし放題のATMだ。

 原価5億円のオスプレイを日本は100億円で購入するとか,これはいったいどういうことなのか,と唖然としてしまいます。これはどうみても政治的な取引であって,尋常の商行為ではありえません。このこと事態が異常というか,いやいやもはや狂気としかいいようがありません。こんなことが平然と行われようとしている,というのです。

 加えて,17機ものオスプレイを購入すれば,あちこちで飛行訓練をすることになるのは必定でしょう。当然のことながら,厚木や横田にも常時やってくるでしょう。すると,この辺りは多摩川があって,低空飛行訓練には最適です。そして,この川を遡っていけばすぐに奥多摩に至ります。多摩丘陵や丹沢山塊もすぐ近くに位置します。入り組んだ山岳地帯の飛行訓練にも適しています。困ったことに条件が整いすぎています。

 ですから,日毎に頻度が高くなってくる上空の騒音(轟音)が気がかりでなりません。この轟音が,いつの日にか,近い将来,オスプレイの轟音にとって代わるのでは・・・・と。

 もちろん,こんなことがあってはならないし,ならせてもいけない,と考えています。が,いまの政府の狂気は,こんなことはあって当たり前のようにして,ことを推し進めようとしています。なにせ,戦争がしたくて仕方のない政権のリーダーが,その気満々なのですから・・・。しかも,アメリカとの密約をとおして・・・。

 やはり,この政権は一刻も早く退陣してもらわなくてはなりません。そうなるべく,われわれみんなが力を合わせなくてはなりません。もっと町にでて,行動を起こしましょう。国会周辺にもでかけましょう。一人でもいい,二人でもいい,でかけましょう。毎日,なんらかの抗議集会が開かれています。集会がなかったら,大きな声で「アベシン,ヤメロッ!」と吼えてきましょう。あるいは,機動隊員はかならずいますので,その人たちに話しかけてみましょう。道でも聞くふりをして,「アンタタチハナニヲシテルノ?」と。応答してくれたら,そこから踏み込んだ話をしてみると,時折,「わたしも同感です」という隊員に出会うことがあります。

 最大の決め手は,何回も書いていますが,10月の福島県知事選挙,11月の沖縄県知事選挙になるでしょう。ここをなんとか闘い抜いて政権党の候補を敗北に追い込むこと,ここがポイントとなるでしょう。そのほかにも,公明党が集団的自衛権のおよぶ範囲の違いに目覚め,自民党との対決姿勢を強め,最終的には自民党からの離脱を決意するよう,われわれの方から働きかけることも重要だと思っています。いずれにしても,政権党を退陣に追い込む手立てをつぎつぎに考えていくことが必要でしょう。

 そんなことを,ちかごろの上空の轟音が響きわたるたびに考えさせられています。

2014年7月22日火曜日

いま,ガザで起きていることはイスラエルによる人殺しだ。日本もそれに加担している加害国だ。

 いま,パレスチナのガザ地区で起きていることは,イスラエルによる無差別殺人だ。空爆だけでは飽き足らなくなり,ついに地上軍を送り込んだ。そして,目の前に現れるパレスチナ人は,老人も子どもも女性も,一切の区別なしに皆殺しにしている。ジェノサイドそのものだ。死亡者の数も日毎に増えており,とどまるところを知らない。

 この事実を日本の主流メディアはほとんど報道しない。もし,取り上げたとしても,とってつけたようなほんのわずかな情報でしかない。だから,多くの日本人は「なにか,また,あの辺で揉めているらしい」くらいの認識しかない。この人道上,許せないイスラエルの行動を,もっと批判的に取り上げ,論評すべきなのに・・・・。なぜ,日本の主流メディアはこの問題を積極的に取り上げようとはしないのか。

 それはアメリカに対する「自発的隷従」か。いやいや,日本政府による強烈なプレッシャーがかかっているからだ,というべきだろう。

 なぜなら,アメリカがイスラエルを支援し,大量の武器も供与しているからだ。つまり,日本は,そのアメリカの属国に成り下がっているので(日米安保条約は名ばかりで,その実態は属国),アメリカのいうとおりに行動するしかないのだ。ということは,日本もまたパレスチナ人虐殺に加担しているということだ。

 日本のジャーナリズムがまともに機能すれば,この事実をとりあげ,論評しなくてはならなくなる。日本政府はそのことを熟知しているので,先手を打って,メディアにプレッシャーをかけつづけているのだ。NHKを筆頭に,政府による言論統制が日毎に強化されている。その事実は,NHKのニュース番組をみていれば明々白々だ。政府にとって都合のわるい情報はほとんど流さない。もし,流したとしてもほんのわずかだけ。あとは,別の情報でそれに蓋をしてしまう。いな,むしろ,政府の異常な行動を,さも正当な行動であるかのごとく擁護している。

 その典型的な事例のひとつが,集団的自衛権の行使・容認の話題だ。NHKが流す情報は,そのほとんどが安倍首相の発言だ。首相はこう言った,こう言っている,ということの繰り返しだ。そして,耳にタコができるほど聞く「国民の命と安全を守るために」を繰り返す。戦争ができる国にすることが,なぜ,「国民の命と安全を守る」ことになるのか。ますます,国民の命が犠牲にされ,安全を脅かされる国になるというのに。本気で「国民の命と安全を守る」のであれば,現行の個別的自衛権だけで充分だ。

 イスラエルが,パレスチナではなく,別の国と戦闘状態に入れば,日本は自衛隊という名の「軍隊」を送り込むことは必定だ。なぜなら,イスラエルが脅かされるということは日本もまた脅かされることになるからだ。そのときには,日米同盟が機能して,率先して日本軍はイスラエル支援に走ることになるだろう。

 なお,断っておけば,パレスチナには空軍も海軍も陸軍ももたない,非戦闘国家であるということだ。だから,ゲリラ的に抵抗の姿勢を示すしか方法はないのだ。言ってみれば,徒手空拳国家パレスチナを相手に,アメリカの武器供与を支えにイスラエルは一方的に,やりたい放題の「人殺し」を行っているのだ。

 かつて,ドイツ・ヒトラーに苦しめられたアウシュヴィッツなどの「暴力」以上の,とんでもない「暴力」が,いま,みずからの手で実行に移されているのだ。しかも,何年にもわたって。こんなことがいつまでも許されるはずはないのに。それを止めようとはしないアメリカという国が,なにを考えているかも,透けてみえてくる。つまり,アメリカは世界最大のテロリスト国家である,ということだ。アフガニスタン,イラク,などへの介入はそのなによりの証拠だ。そして,その介入の後始末もしないで,面倒になればその責任を放棄する。

 日本はそういう国家の手先の駒のひとつに,率先してなろうとしているのだ。それが集団的自衛権の行使・容認の裏事情なのだ。

 日本の主流メディアは蓋をしようとしている「ガザ」の問題は,日々,インターネット上に氾濫している。外国の主流メディアの情報も,インターネットをとおして確認することもできる。危ない情報もあるが,信頼に足る情報も慎重に探せば,いくらでも見つかる。また,日本のメディアが無視する日本を代表するような識者の見解も,インターネットをとおして読むことができる。

 そうした信頼に足る情報については,わたしのFBでも毎日シェアして公開しているので,参照していただきたい。ここでは語れなかった「生情報」が満載である。

 日本のメディアと世界のメディアの間にある,ジャーナリズムのもつ批評精神のこのあまりにも大きな格差を知るだけでも,大いに勉強になる。井の中の蛙にならないよう,視野を広くもつこと,これこそがいまの日本人には求められているのだ。

 つい興奮してしまって,話があちこちに飛んでしまったが,意とするところをおくみ取りいただければ幸いである。

 最後にひとこと。日本もまたパレスチナ人虐殺に加担している。だからといってなにもできない。が,少なくとも,パレスチナ人を悼むこころを。

国際シンポジウム「都市と建築の美学──新国立競技場問題を契機に」(主催・美学会)を傍聴してきました。

 表題のシンポジウムがあるということを20日の橋本一径さんのFBで知りました。新国立競技場問題を美学会がとりあげ,国際シンポジウムをやるということに,わたしはある種の衝撃を受けました。美学会が,どのようなアングルからこの問題をとりあげ,議論しようとしているのか,いまひとつピンとこなかっただけではなく,その美学会までもがこの問題をとりあげ,その問題の所在を明らかにしようとしているという事実に,少なからぬショックを受けました。

 なぜなら,わたしの所属しているスポーツ史学会の理事会が,この問題についてどのような関心を示しているか,そして,どのように対応しようとしているか,という議論がなされているのだろうか,と。少なくとも,現段階ではそのような議論があったとは聞いていないからです。もちろん,わたし自身もスポーツ史学会理事会に対してなんの働きかけもしてこなかったことに,いささか後ろめたさを感じないわけにはいきませんが・・・・。

 ならば,いまからでも遅くはないではないか,と。美学会がとりあげてくれているのに,スポーツ史学会がなにもしないでいていいのだろうか,と。

 そんなことを考えながら,会場の東京大学文学部法文二号館一番大教室に押っ取り刀で駆けつけました。目玉は槙文彦さんの基調講演「都市から建築を,建築から都市を考える」と司会の岡田温司さんの議論の裁き方,と狙いを定めていました。そして,美学という視点から新国立競技場問題がどのように分析されるのか,3人のシンポジストにも期待してでかけました。



 予想どおり,槙文彦さんのお話はみごとでした。建築家の立場から,きわめて冷静に,わかりやすく問題の所在を明らかにされ(これまでに書かれた論文で承知していましたが,それにもましてみごと),原案を一度,ご破算にして,仕切り直しをすべきだ,と提言されました。そして,最後に,この原案で建て替えがなされるとすれば,これは「日本の悲劇」である,と。そして,同時にこれは「外国の喜劇」である,と。

 槙文彦さんのお話の内容を,いま,ここで書くにはスペースが足りませんので,また,機会を改めて書くことにします。問題の根幹だけ書いておきますと,コンペの募集要項からしてまことに「雑」であったこと,加えて審議過程もいい加減,その意味では最優秀賞に選ばれたザハさんは被害者だ,ということ。そして,この責任をとる人を特定できない(みんな責任逃れをして,おれではない,と他者になすりつける体質・体制に大きな問題がある)こと。これはこんにち展開されている政治の手法とそっくり同じだ,とも。

 司会の岡田温司さんとは久しぶりの対面。数年前に神戸大学で開催された日本記号論学会でお会いして以来のことです。そのときの学会のテーマは「判定の記号論」。で,裁判,宗教,スポーツの三つのセクションのうちの,岡田さんは宗教のセクション(「最後の審判」)で,わたしはスポーツのセクション(「スポーツの判定」)で問題提起をし,議論をさせていただきました。そのときの岡田さんの機関銃を撃ちまくるような,猛烈なスピードでまくし立てる語りが強烈な印象として残っていました。そして,その後の数年の間に,どれだけの著作を世に問うたことか,その驚異的なご活躍に驚きもし,畏敬の念をいだきもし,別格の注目をしてきました。

 そんなご縁もあって,岡田さんの司会者としての裁きぶりを期待していました。記号論学会のときには,派手なシャツに真っ赤なパンツ,そして,しゃんとした姿勢と溌剌とした歩き方をなさっていました。が,この数年の間の時間が岡田さんに大きな変化をもたらしたようで,わたしにはまるで別人にみえました。個性的な頭髪とくりくりとした目は以前のままでしたが,髭をつけ(これがシルバー),黒ぶちの眼鏡をかけ,おしゃれなスーツ姿で身を固め,相変わらず格好よさが目立ちましたが,なんと背中が丸くなっていて,話し方も物静か,いささか意表を突かれた思いでした。つまり,ごくふつうの学者さんになりきっていらっしゃる,と。

 ですから,槙さんの素晴らしい基調講演につづいて登壇したシンポジストたちの,こんな言い方をするとまことに失礼ではありますが,あまりに凡庸な話の内容とそれにつけた司会者としてのコメントもありきたり。なかには,わたしとしては許しがたい発言をされたシンポジストもいらっしゃいました。もちろん,じっとがまんして耳を傾けましたが。結論だけ述べておけば,「美学」の視点がどこにも見当たらない,ひたすら,自分の専門領域の,狭い砦のなかに立て籠もった立ち位置からの発言ばかりでした。しかも,これらのシンポジストのなかには美学の専門家はひとりもいらっしゃらない,という不思議な構成になっていました。

 わたしは大いに失望。ただ,槙文彦さんのお話をうかがうことができたことだけが大いなる収穫でした。このお話だけを,別途,このブログで紹介したいと思います。とりあえず,今日のところは,ざっくばらんなわたしの傍聴印象記ということでお許しください。

2014年7月21日月曜日

J-P・デュピュイによるサッカーW杯ブラジル大会についてのコメント(森元庸介・談)。

 19日の「ISC・21」7月東京例会・第二部の最後のところで,ちょっと意表をつく面白い話題が展開しました。それはJ-P・デュピュイの人柄についての話題でした。そのきっかけをつくったのは,西谷さんと高校時代からの友人であるFさんでした。

 Fさんは,西谷さんのお話を聞いて,J-P・デュピュイについての疑問の多くは氷解したので,とてもありがたかった,と述べた上で,J-P・デュピュイとはどんなお人柄なのか,それを知りたいと注文を出しました。わたしとしては,あっ,そうか,と納得はしましたが,いささか意表を突かれた思いでした。つまり,とてもいい問いだ,という意味です。それを受けて西谷さんは,とてもフランクで,偉ぶるところがなく,気さくに話ができる人で,わたしとしては多くの点でシンパシイを感ずる,とてもいい人だと思っています,と応答。そして,フランスには大御所と呼ばれている著名な学者がたくさんいますが,そのほとんどの人たちがそれなりに偉ぶった態度をとっているが,J-P・デュピュイはそれらの人たちとはまったく違う種類の,ごく普通の人間です,と。しかも,ざっくばらんです。ですから,むかしからの顔なじみであるかのように,初対面から親しげに会話のできる人です,と。しかし,こと研究に関してはとても繊細な一種独特の感覚をもっていて,きわめて厳格な真理の探求者です,と応答。

 つづけて,訳者のお一人である渡名喜庸哲さんは,J-P・デュピュイさんが日本に来られたときに,行動を共にしたときのお話をしてくださいました。たとえば,大きなトランクを持ちましょうというと,いや,大丈夫だ,と言って自分で運んでいたこと,寿司が大好きで,それもスーパーで売っている寿司を「とても美味しい」と言って喜んで食べていたこと,というエピソードを語ってくださいました。

 最後に,同じ訳者のお一人である森元さんが,ちょっと話題からずれるかもしれませんが,と前置きして,つぎのような話題を提供してくださいました。それは,デュピュイがフランスの新聞「ル・モンド」に書いたサッカーW杯ブラジル大会に関する記事の話でした。デュピュイの奥さんはブラジルの人ですので,フランスとブラジルの間をしばしば往来していて,ブラジルのサッカーについても熟知しているのだそうです。ですから,フランスのメディアや知識人たちが,ブラジル人はW杯に金を使うよりも教育や医療に金をまわせ,という主張が根強くあると物知り顔でいうが,そんなプロパガンダに乗せられている愚かさを「ちゃんちゃら可笑しい」と痛烈に批判している,と。ブラジル人にとってのサッカーはフランス人のような趣味的な娯楽といったレベルの問題ではなく,サッカーは日々の生活を活性化させる生きがいなのだ,そのことが少しもわかっていない,と。さらに,ブラジルは治安が悪く,殺人事件も多い,とメディアが報じているが,これも大きな間違いだ,という。そして,殺人事件のほとんどは名誉や愛情のもつれから起きているのであって,それはむしろ称賛すべきことだ,と書いている,とのことです。しかも,こんな悪しきプロパガンダがさも当然であるかのごとく出回っていること自体が問題だ,とも。こんなところにも,デュピュイの面目躍如たるものがみてとれる,と森元さんは仰る。

 そういえば,日本のメディアも識者も同じようなプロパガンダを垂れ流しています。ですから,わたしも恥ずかしながら,ブラジルは治安が悪く,W杯開催よりも教育・医療に金を使うべきだ,という情報を信じていました。ですから,森元さんのお話をうかがって,びっくりでした。これからはもっと慎重であらねば・・・と深く反省させられました。

 これらのお話は,デュピュイ理解のためには,とても重要なお話だと思いました。これで,デュピュイという人物がテクストから受ける謹厳実直な学者さんという印象と同時に,日常生活のレベルではとても身近に感じられる,親しささえが感じられるようになりました。その意味で,Fさんの問いはクリーン・ヒットだった,と感謝しています。

 こんなことを知った上で,もう一度,テクストを読んでみたら,また,違った発見があるのではないかと楽しみになってきました。

 以上,もうひとつのJ-P・デュピュイの顔についてのご報告まで。

2014年7月20日日曜日

「人間は生殖によって継起する生き物だ」「西洋形而上学はその観点を排除している」。西谷修講演に感動の涙。

 昨日(19日),かねてから準備を進めてきました「ISC・21」7月東京例会を予定どおり開催。感動のうちに無事,終了しました。とりわけ,第二部に用意しましたプログラム「J-P・デュピュイ『聖なるものの刻印』をどう読むか」(西谷修)は予想をはるかに超える感動的な内容でした。わたしは思わず涙が出そうになってしまいました。

 それは長い間,わたしのなかにふつふつと沸き上がっていた大きな疑問が一気に解消されたからです。それは,なぜ,西洋の哲学は,人間存在の様態について半分しか思考の対象にしてこなかったのか,という疑問です。つまり,ヘーゲルに代表されるように人間の「精神現象」にのみ光を当てることに熱心で,なぜ,その光の影の部分に相当する人間の「動物性(=生殖を営む生き物)」をめぐる問題系を排除してきたのか,という疑問です。

 もう少しだけ踏み込んでおきますと,わたし自身の思想遍歴がその背景にはあります。わたしを思想・哲学の領域に導いてくださったのは西谷修さんでした。西谷さんが若いころから取り組んでこられたフランス現代思想の翻訳(レヴィナス,バタイユ,ナンシー,など)や著作(たとえば『不死のワンダーランド』など)にぐいぐいと引きつけられ,夢中になって読み耽りました。とりわけ,西谷さんの多くのお仕事のなかでは,バタイユの思想・哲学がわたしにはもっとも親近感を覚えるものでした。

 そして,ひととおりバタイユの著作に没頭して読みふけった時代がありました。なかでも,もっとも衝撃的だったのは小説『眼球たん』でした。そこには理性によるコントロールから解き放たれた人間の自由奔放な「生」(「性」も)が剥き出しに描き出されていたからです。そして,なぜ,バタイユはこのような小説を,まだ若いときに書いたのだろうか,と考えました。

 そして,当然のごとく『エロチシズム』や『エロチシズムの歴史』といった著作を,丹念に読むことになりました。そうして徐々に,なぜ,バタイユが『眼球たん』を書いたのか,その理由がみえてきました。そして,さらには,『有用性の限界 呪われた部分』で,その根拠となる思想的背景がみえてきました。最終的に,わたしなりに納得したのは『宗教の理論』でした。つまり,動物性の世界から人間性の世界へと<横滑り>して,徐々に,人間としての生き方を模索していく,その過程で人間は「宗教的なるもの」を思い描き,みずからを納得させる文化装置を考案していきます。そして,その過程で,動物性は徐々に封じこめられ,エロスの世界は次第に秘め事へと移行していきます。この流れがそのまま哲学にも引き継がれ,西洋形而上学となってこんにちに至る,というのがわたしの理解であったわけです。

 ですから,これでは片手落ちではないか,と。人間の存在様態について,存在論も認識論も,その半分しか思考の対象にしてこなかったのはなぜなのか,と。

 このわたしの長年の疑問に,西谷さんはデュピュイ読解をとおして,もののみごとに応答してくださいました。それも,この講演の最後のクライマックスをなす,もっとも重要な結論として,西谷さんは声高らかに宣言されたのです。それがこのブログの見出しに書いたことがらです。もう一度,繰り返します。すなわち,「人間は生殖によって継起する生き物だ」「西洋形而上学はその観点を排除している」,と。そして,その理由について,西洋形而上学を俎上に乗せ,わかりやすく丁寧に説明をしてくださいました。

 その典型が,ヘーゲルの哲学である,と。ヘーゲルの哲学は合理性の哲学(内在の哲学)であり,それ以外のものはすべて闇のなかに封じ込めてしまったのだ,と。このヘーゲル哲学が近代合理主義を正当化し,のみならず科学的合理性こそが唯一絶対に正しいのだとする神話を生みだしたのだ,と。したがって,「人間は生殖によって継起する生き物だ」という認識が,科学的合理性からはすっぽりと抜け落ちてしまい,盲目のまま暴走している,この盲目的暴走がこんにちの悲劇や破局を生みだしているのだ,と。

 こうして,西谷さんのお話が,最後の佳境に入ったとき,わたしはバタイユのことを思い浮かべ,涙があふれそうになったという次第です。その理由は,ヘーゲル哲学の限界をいちはやく予見したバタイユは,徹底的にヘーゲル哲学を研究し,分析し,その限界を見極めた上で,ヘーゲル的「知」(絶対知)に対して,その対極に位置する「非-知」という概念を立ち上げ,そこからすべての議論を開始します。かくしてバタイユの一連の著作集(無神学大全・未完)が誕生するというわけです。『宗教の理論』はその集大成ともいうべき作品だと,わたしは考えています。

 そうか,バタイユの思想・哲学のほんとうの評価は,まだまだこれからさきのことだ,と直感したこと,そして,これまで苦労してバタイユと格闘してきたことが無意味ではなかった,と知った瞬間です。わたしが涙しそうになったのは。

 7月19日は,わたしの生涯にとって,大事なメモリアル・デーとなりました。
 その意味で,西谷さんには感謝の気持でいっぱいです。ありがとうございました。

 これで,もやもやが吹っ切れて,いよいよ「スポーツ批評」の世界に一歩踏み出すことができる,と確信しました。あとは実行あるのみです。

 西谷さんはこの講演のなかで,生涯現役を宣言されました。その西谷さんは,わたしに対してはそろそろ「幕引き」のことを考えなくてはいけない,と迫っています。いえいえ,わたしもまた生涯現役を貫きたいと念じている者の一人です。もうしばらくの間,見守っていてくださるようお願いします。ということも含めて,いやはや大変な一日となりました。ありがたいことです。これでまた一皮剥けて,別人に生まれ変わったような気分です。

 これでますます元気になっていくぞ,と気分をよくしています。そうなることを願いつつ・・・,今日のブログを閉じたいと思います。

2014年7月17日木曜日

「遊びごころ」をもちなさい。李自力語録・その48。

 このところ,毎回のように,李老師から,「肩の力を抜きなさい」「重心は高くてもいい」「安定させなさい」「顔に笑みを浮かべなさい」「気持を楽にしなさい」「ゆったりと動きなさい」と指摘されています。今日は,これらに加えて「遊びごころを持ちなさい」と言われました。

 これらはみんなわたしのからだのことを気遣ってのことであると承知してきましたが,どうもそれだけではなさそうだ,ということが今日の稽古でわかってきました。李老師はどうやらわたしたちの技量をもうワンランク上のレベルに引き上げようとされているのでは・・・・と感じられたからです。なぜなら,「遊びごころ」を持つということは,基本をしっかりと身につけた上で,相当に動作が仕上がってこなくてはできない芸当だからです。

 以前にも書きましたが,わたしは若いころに体操競技をやっていましたので,いまもその時の身体感覚が残っています。しかし,この身体感覚は,太極拳をするときの身体感覚とはまったく正反対のものです。つまり,片時も力を抜くことなく,つねに,からだのすみずみにまで神経をゆきわたらせ,美しい身体の「線」を描き出すことに専念します。ところが,太極拳では必要最小限の力だけを残して,あとは可能なかぎり力を抜きなさい,と毎回,繰り返し教えられています。

 にもかかわらず,いまだにそれがうまくできません。自分では力を抜いているつもりなのですが,どうも,そうではないようです。まだまだ足りないということのようです。もっと抜け,と李老師は仰る。そして,とうとう「遊びごころ」をもちなさい,と指示されることになってしまいました。このことの意味は,意識を別のところに向けることによって,結果的に本来の目的を達成する,ということにあります。つまり,運動課題(Bewegungsaufgabe)の提示です。

 運動課題の提示は,どうしてもからだの力みが抜けないと指導者が見極めたときに,それとはまったく関係がないと思われるような課題,すなわち「遊びごころ」という課題を提示することです。たとえば,音楽に合わせて鼻唄でも歌いながら,太極拳の動作をしなさい,と。すると,意識が音楽の流れに乗るだけではなく,気持も楽になってきます。その楽になった気分に合わせて気の向くままに鼻唄でも歌いなさい,というわけです。すると,気づけばからだの力が抜けている,ということを最終目的とするものです。

 まあ,一種のフェイントのようなものでもあります。自分自身を暗示にかけているようなものでもあります。しかし,これは意外に効果があるということは,体操競技でも体験していますので,よくわかります。残るわたしの課題は,太極拳の稽古にそれをアレンジすることです。

 こうなったら,しばらくの間は,「遊びごころ」「遊びごころ」と念仏のように唱えながら,意識をそちらに向けて稽古に励んでみたいと思います。さてはて,このさきにどのような太極拳の境地が待ち受けているのでしょうか。李老師のあのゆったりとした悠然たる動作に,少しでも近づくことができることを信じて,稽古に励みたいと思います。目標がひとつ,はっきりとしてきました。

2014年7月15日火曜日

抗ガン剤治療のセカンド・クール(2週間)が昨日(14日)で終わりました。さてはて・・・・。

 抗ガン剤治療のセカンド・クール(2週間)が昨日(14日)で終わりました。このあとは月末まで休息期間となり,8月1日からサード・クール(2週間)がはじまることになっています。

 今回は錠剤(TS-1)を朝晩2回,食後に2錠ずつ飲む,それを2週間というメニューでした。第一回めのときの3週間の錠剤+第2週目の入院・抗ガン剤の点滴注入というメニューにくらべれば,かなり楽にやりすごすことができました。それでも第2週目に入ると,さまざまな副作用が表れました。

 わたしの場合には,外胚葉系にダメージがでているように思います。もっとも,これは素人の自己判断でしかありませんが・・・。一つは,消化器系のはたらきが低下すること。二つには,顔がまだらに黒っぽくなること。三つには,手のひら,手の甲から異様な匂いを発すること,四つには,錠剤を飲んで30分後くらいから眠くなること,五つには,味覚がマヒしてきて食欲がなくなること,など。つまり,粘膜や皮膚に集中してダメージがきているように思います。

 まあ,この程度の副作用で済んでいるのはラッキーな方ではないか,と自分に言い聞かせています。そして,とにかく眠くなってきたら素直に横になる,を心がけています。それでも第2週目に入ると相当にからだに負担がかかっているのか,体重はみごとに落ちていきます。といっても,1㎏程度の減少ですから休息期間に入れば,また,徐々に増えていくものと楽しみにしています。新しく,100g単位で計測のできる体重計を購入して,毎日の微妙な体重の変化をチェックしながら一喜一憂しています。

 太極拳の稽古をした日(週に1回)は,からだの調子がとてもいいので,このメニューを加えてみようと考えてはいるのですが,やはり,ひとり稽古というのは甘えがでてしまってつづきません。が,まあ,軽いメニューでいいから,と自分に言い聞かせ,適当に気の抜けたような稽古を思い立ったときにやることにしています。それでも,なんとなくからだの調子はよくなるような気がします。太極拳はやり方次第で,こころとからだのバランスをとりもどし,ことばにならない不思議な「力」が蘇ってくるように思います。あとは,わたしの心がけ次第。

 セカンド・クールで一番のダメージは味覚のマヒだったように思います。徐々に味覚が鈍麻し,昨日あたりはなにを食べても「おいしい」とは感じません。ただ,義務感で食べているだけ。味がしないものを食べることのむなしさ・・・これは意外にきびしいものがあります。これさえなかったら,つまり,以前のようになにを食べても「おいしい」と感じられたら,このレベルの抗ガン剤治療は乗り切れると思っています。そして,無理して食べると(食欲もなくなっていますので,どれだけ食べても満腹感をそれほどに感じない),ついつい食べ過ぎになり,一過性の下痢を誘発してしまいます。

 なんとか休息期間中に味覚が回復して,おいしく食事ができるようになることを祈るばかりです。ちなみに,今朝の体重は52.4㎏でした。これを53.5㎏以上まで,月末までにとりもどして,8月からのサード・クールに臨みたいと考えています。

 今日から錠剤から解放され,気分も晴れやかです。これから週末に予定されています研究会の準備に専念したいと思います。昨日までにたまっていた原稿(短いものばかりですが)もなんとか書き上げて送信しましたので,しばらくは解放されて,ジャン=ピエール・デュピュイの著作に専念したいと思います。

 以上,セカンド・クール完了のご報告まで。

2014年7月14日月曜日

自公の暴走路線に歯止め。滋賀県民のみなさんの良識にこころからの敬意とエールを。

 憲法を無視して閣議決定でことを運ぼうとする,こんな目茶苦茶な政権をいつまでも放置しておくわけにはいきません。しかも,戦争ごっこがしたくてたまらない坊っちゃまが宰相ですから困ったものです。アメリカ国内では飛行することすら禁止されているオスプレイを大量に購入するというのですから,もはや,御名御璽です。ここはわれわれの「民意」を行動で示すしかありません。その行動のうち,もっとも効果的なのは選挙行動であることは衆知のとおりです。

 その選挙行動で,朗報が飛び込んできました。滋賀県知事選挙。自公推薦候補が敗退。卒原発をかかげた嘉田由紀子前知事の指名を受けて,民主党を離脱し無所属で立候補した三日月大造氏がみごと当選をはたしました。この三日月氏を選んだ滋賀県民のみなさんの賢明な選択にこころからの敬意とエールをおくりたいと思います。そして,ありがとう!と。

 このあとには,10月の福島県知事選挙と11月の沖縄県知事選挙が待ち受けています。まさに,天下分け目の「決戦」です。この二つの選挙結果いかんによっては,日本のこんごの命運が決まってしまいます。そして,来年の国政選挙へと,重大な影響を及ぼすことになっていくでしょう。その先鞭をつけたのが,この滋賀県知事選挙でした。

 こまかなことはさておいて,自公路線の「盲目」としかいいようのない「暴走」にだれが歯止めをかけるか,手の打ちようもなく途方に暮れながらも,機会をみつけては国会前や首相官邸前のデモに参加してきましたが,その無力感は覆いようもありませんでした。どんなに多くの国民が国会周辺だけではなく,全国各地で安倍政権への異を唱える集会を開催していても,マスメディアのほとんどが無視してしまいます。ですから,ふつうに暮らしている日本国民の多くはその事実を知ることすらできません。そうして政権の暴走はとどまるどころか加速さえしています。

 そこへ,この滋賀県知事選挙の結果が大きく報じられることになりました。この報道のもつ意味は計り知れないものがあります。これまで,なんとなく変だなぁと思っていた国民の多くが(いわゆる浮動票層),やはりそうか,と気づいてくれることが期待されるからです。その意味でも,このたびの滋賀県民の良識あるみなさんの賢明な選択が,どれほど価値のあるものであったか,わたしはひとり感涙にむせんでいます。そして,繰り返しますが,こころからの敬意とエールを送ります。

 さて,つぎは10月の福島県知事選挙です。一部の噂では,小泉進一郎氏が自民党を離脱して,脱原発をかかげて立候補するのでは・・・という声があるようです。いろいろ問題はありますが,なにはともあれ,脱原発を貫き,現政権の「違憲」行為に一矢報いる決意があるのであれば,これはこれでまた面白いとわたしは考えています。まあ,この話はもう少し,慎重にことの推移を見届けてからということにしましょう。そして,ここでも滋賀県知事選挙につづいて,福島県民のみなさんの良識に期待したいと思います。

 そのあとにつづく11月の沖縄県知事選挙。こちらもすでに,自民党沖縄県連が二つに割れて,それぞれに候補を立てることになりそうだ,という情報が流れています。自民党本部もまた仲井真氏の再選・立候補に難色を示しているといいます。さらには,沖縄にはいま,これまでとは違った新たな主張をかかげる「オール沖縄」のような潮流が起きていると聞きます。この人たちの動向もまた,きわめて重要だと受け止めています。8月には沖縄にでかける用事もありますので,少し,現地の情報も集めてきたいと思っています。

 さて,いずれにしましても,このたびの滋賀県知事選挙の結果が,お先真っ暗だった日本の未来にいくばくかの希望の灯をともしてくれました。この灯を大切に引き継いで,しっかりとした選挙行動で「民意」を明らかにし,お坊っちゃまの「腹痛」再発の早やからんことを祈るばかりです。

 最後にもう一度,滋賀県民のみなさんの良識にこころからの敬意とエールを送ります。そして,ありがとう,と。

2014年7月13日日曜日

『生きるためのサッカー』(ネルソン松原著,サウダージ・ブックス,2014年6月刊)を読む。

 『生きるためのサッカー』──ブラジル,札幌,神戸,転がるボールを追いかけて,というタイトルからも明らかなように,著者・ネルソン松原さんの自伝です。サウダージ・ブックスの浅野卓夫さんから送っていただきました。ありがたい限りです。

 表紙の帯には,「この自伝には心(コラサォン)がある。ブラジルの,ボールの,流転の心が。」──今福龍太(批評家・人類学者)というキャッチ・コピーがあって,これは読まなくては・・・とその気にさせてくれます。この本もまた,ほかの仕事をほったらかしにして読みはじめたら止まりませんでした。一気に最後まで「読まされて」しまいました。

 一人語りの文体が読みやすさを引き出しているようです。奥付をみますと,取材・構成:松本創(ノンフィクションライター),取材・解説:小笠原博毅(スポーツ文化研究者)となっているところをみると,ネルソン松原さんの語りを松本創さんが編集して文章化し,ネルソン松原さんの語りだけでは足りなかった部分を,小笠原博毅さんが解説として加えたように見受けられます。いずれにしても,とても読みやすい自伝になっています。


 とりわけ,ブラジル・サッカーの体現者の語ることばは,わたしにとってはとても新鮮でした。いわゆるサッカー評論家といわれる人たちの語る「ブラジルのサッカー」とは一味も二味も違う,奥行きの深さといいますか,懐の深さというようなものを感じ取ることができました。それはたぶん,ブラジル人日系二世というネルソン松原さんが,日本からブラジルへという父祖のたどった道のりを逆行して,ブラジルから日本へというサッカー「ボール」が仲立ちした旅程にあるのだと思います。なぜなら,国籍はブラジルでありながらも,血筋としては日本人。でも,話すことばはポルトガル語,文化はブラジル,アイデンティティもブラジル人,そして,なによりブラジルのサッカー文化のなかにどっぷりと浸りながら成人。「牛が草を食むように,サッカーは人生そのものだ」と確信してからの,日本への渡航です。

 最初の日本への渡航は,札幌大学の招きによるサッカー留学。それも,ブラジル・サッカーを札幌大学のサッカー部に浸透させるためのサッカー選手として。その間にプレーはもとより,フットサルの指導書の翻訳・紹介もこなし,2年間の契約をまっとうして帰国。それから13年後,ふたたび札幌に。こんどはサッカーの指導者として。日系二世として,ブラジルと日本との文化の違い,生活習慣の違い,ものの見方考え方の違い,人間関係の構築の仕方の違い(人と人との距離感の違い),つかみどころのない意志表示,などなどの壁にぶち当たりながらのブラジル・サッカーの指導。その経験のすべてをとおして,透けてみえてくるブラジル・サッカーの真の姿。

 なるほど,サッカーは社会の映し鏡。ブラジルのサッカーはブラジルという社会が生みだした独特の文化なのだ,と。したがって,日本のサッカーは日本の社会をそのまま反映しているのだ,と。その実態が,ネルソン松原さんの苦労談をとおして,ブラジルはブラジルの,そして日本は日本のサッカーの特質が徐々に浮かび上がってきます。そのプロセスが,わたしにはとてもいい勉強になりました。

 巷間に広がっている,プロパガンダ的なブラジル・サッカーのイメージがいかに薄っぺらなものであり,信実とはほど遠いものだということがよくわかってきます。その意味では,今福龍太さんの名著『ブラジルのホモルーデンス』──サッカー批評原論をよりよく理解するための導入書として,このネルソン松原さんの『生きるためのサッカー』はとても役立つのではないかと思いました。

 ネルソン松原さんが,最初から最後まで一貫して主張していることは,サッカーとは人生そのものなのだ,というものです。つまり,サッカーを単なるスポーツだとは考えていない,ということです。サッカーこそ人間が生きるということの映し鏡である,と。だから,ブラジルのサッカーには科学的合理性を踏まえつつも,それだけでは済まされない「人が生きる」ということはどういうことなのか,という深い問いかけがある,というわけです。したがって,ブラジルのサッカーには勝利至上主義だけでは済まされない,一種独特の美意識がつねにはたらいている,というわけです。

 ブラジルのサッカーに独特の,美しいパスまわしや,超越技法ともいうべきボールコントロールの足技,そして,チャンスとみるや一気呵成にゴールに向かって突進していく「野性」の叫び,これらはサッカーの神さまをピッチに降臨させるための前技にも等しい,全身全霊を籠めた,まさに祈りの儀礼だと言っても過言ではないでしょう。

 断っておきますが,ネルソン松原さんは,こんな理屈はひとことも発していません。しかし,みずから身をもってやってみせる,それを指導を受ける選手たちがどのように受け止めるか,それは選手自身の問題だ,と考えています。その「やってみせる」こと,ことばでは伝えられないものを伝えること,これが指導者の役目である,と。したがって,サッカーは,生活の全て,人間として身につけた能力のトータルの結果だ,とも。

 一見したところ平易な,だれにでも語ることのできそうな,ごくふつうの話が展開しているような錯覚を起こしますが,その端々に含蓄のあることばが散りばめられています。それは,読み手の感受性次第,というわけですが・・・・。

 W杯のセミファイナルで,ブラジルが,ドイツに7-0で大敗したことの意味については,一度,しっかりと考えた上で,このブログに書いてみたいと思っています。そこには,驚くべき思考の地平が待ち構えていることだけは予告しておきたい,と思います。

 とりあえず,ネルソン松原さんのご著書の,わたし流の読解と感想まで。

2014年7月12日土曜日

『猫の音楽』──半音階的幻想曲(ジャン=クロード・レーベンシュテイン著,森元庸介訳,勁草書房,2014年6月刊)を読む。

 さきに片づけなくてはならない仕事が山ほどあるのに,この本の存在が気になり,ちょっとだけ,とついつい手を伸ばしてしまいました。それが間違いでした。読みはじめたら止められません。一気に最後まで読んでしまいました。

 その理由は,もちろん内容の面白さなのですが,それに加えてじつによくこなれた翻訳文のうまさにありました。訳者の森元さんも訳者あとがきで書いていらっしゃいますように,「一方通行的に敬愛してきた著者の文章を日本語に移す機会を長く夢見た」ほどに,著者のフランス語の文章に惚れ込み,それを日本語に写しとりたいという衝動に駆り立てられてのお仕事だったと知り,なるほどと納得。ですから,つぎからつぎへと休む暇も与えず,どんどん読まされてしまいました。こんな経験も久しぶりでした。

 ちらりと思い浮かぶのは,渡辺一夫さんの名訳として知られる『ガルガンチュア物語』の一連の訳業です。わざわざ時代を合わせるために,江戸時代の日本人の語りことばを徹底的に研究してから訳業にとりかかったという,その世界では伝説的な逸話です。フランス語の美しさに反応して,それに劣らぬ日本語の美しさを引き出そうという心意気が,森元さんの訳業をとおして心地よく伝わってきます。

 いやー,いい本を読ませてもらいました。その爽やかな印象と同時に,はたと考えさせられるところが随所に織り込まれていて,感動すら覚えました。こんな身近なところにある「猫」という主題をとおして(もっとも,恐るべき博覧強記に支えられてのことではありますが),なんのことはない「人間」とはなにかを考えさせられ,人間にとって「猫」とはなにか,と深い問いを投げかけてきます。


 訳者あとがきのなかから(このあとがきがまた驚くべき名文),印象に残る文章の一端を引いておきたいと思います。

 頑なに猫の音楽を斥けようとするのは,そのうちで仄かに響くわたしたち自身の獣性の唸りを否み,しかし否みきれぬことの徴である。猫は遠ざけられたその果てでわたしたちの内奥を照らす。猫と人間はそうやって反対物の一致を示すのかもしれないが,それこそは,ピュタゴラス派からこのかた西洋の思考に留まりつづけた世界理解の原理,すなわち「協和しない協和」(cocordia  discors)」の表現にほかならず,西洋の音楽もまた,単声から多声へ,そして和声からその先へと自身の拠るパラダイムを移ろわせながら,この原理をさまざまに変奏してきたのだった。とすれば,音楽の正典(カノン)の余白でまさしく調子外れの音符を撒き散らすかに思われた猫たちは,ことのはじまりから,対立なしにありえぬ調和という音楽=世界の核心に〇(立心偏に舌)として据わっていたことにもなるのだろう。(以上,引用,P.111~112.)

 わたしたちが学校教育をとおして学ぶ「音符」(西洋由来の)の連なりが,きわめて機械的に分割された音階にすぎないにもかかわらず,それが唯一,正統派の音楽であるかのように教えられたことの,つまりは西洋流の近代的合理性の「暴力」(明治時代の音楽教育が採用)にさらされたことの理不尽に,いまごろになって気づかされて呆然としてしまいました。一つの音階からつぎの音階の間に存在する「無限に」分割可能な音階があることを,「猫の音楽」が教えてくれるということの,この逆説に震撼させられました。音痴も立派な音楽家なのだ,と。歌唱力を「点数化」すること自体が,近代の科学的合理性のふくみもつ「盲目」性と,まさしく同根なのだ,と。

 最後にもう一度,訳者あとがきから引いておきたいと思います。

 動物と人間のあいだに,ということはまた人間と人間のあいだに本当のところ理解なんてあるだろうか。醒めて,とりわけいまわたしたちの胸に冷たく触れる問いである。(P.110.)

 濃いピンクのカバーに覆われた,一見したところマニアックな本にしか見えないこの『猫の音楽』──半音階的幻想曲という本が,わたしにとってはこれまでに経験したことのない,思いがけない視座からの,まったく新しい知の地平の可能性を開いてくれることになりました。

 訳者の森元庸介さんにこころから感謝したいと思います。
 森元さん,ありがとうございました。

2014年7月11日金曜日

JSCは新国立競技場について充分な検討をしていないと突っ込まれた動画(IWJ作成)が一夜にしてネットから消えた。

 昨日(7月10日), YOUTUBEで偶然見かけた動画を,もう一度,確認しておこうと思って今日(11日)探してみたらどこにも見当たりません。よくあることではありますが,権力側にとって都合の悪い動画はどんどん消されているようです。その頻度もさいきんになってとても高くなっているように思います。噂によれば,政府が業者に委託して,徹底的に削除作業を展開しているとのことです。こんなことがまかり通っているのですから,困った時代になってきました。

 さて,問題の動画。いま記憶しているかぎりでの内容は以下のとおりです。

 IWJ(代表者・岩上安身)が二人の代表質問者を立てて,JSC(日本スポーツ振興センター)の応答者二人に向かって質疑応答を展開した映像です。最初から,IWJからの鋭い質問に対してJSC側はしばしば絶句,それでもなんとか応答しようと必死になっていました。が,最後のとどめはIWJ側からの指摘「8万人収容と8レーンを9レーンにしなければならないという条件も,建築家の伊東豊雄さんが現国立競技場改修によって可能であるという代案を提示し,費用もほぼ半分でできると言っているが,この代案を検討したのか」と突っ込まれたところで,完全に絶句。そこで,IWJ側のもうひとりの質問者が「要するに,初めから当選作のザハ・ハディド案ありき,ですべてのことが運ばれたということですよね」と念を押されて,あわててJSC側の一人が必死になって応答するも,「それはなんの答えにもなっていませんよ。わかっていますか」とやられ,これまた絶句。

 考えてみれば,高さ制限も,ザハ・ハディド案が決まってからあわてて条例改正をした経緯もあります。この段階で,後出しジャンケンのような,わけのわからない選考が行われたな,とわたしは直感していました。コンペのやり方も奇怪しいし,当選した作品の詳しい内容を公開しないのも奇怪しい,本来ならば,当選した作品をあらゆる角度・視点から検討した上で,みんなで意見を出し合い(市民も含めて),修正を加えながら,合意に達したところで成案とするのは,建築界の常識だ,とこのコンペに応募し,みごとに落選したわたしだから言えることだ,とシンポジウムの席で伊東豊雄さんが,やんわりと指摘しています。こちらの動画はいまも流れていますので,ご確認ください。

 まあ,朧げな記憶で書いていますので,記憶違いがあるかもしれません。が,大きな流れはこうであったと思います。

 いずれにしても,JSCがザハ・ハディド案の問題点などについて,しっかりとした検討をした痕跡はどこにもなさそうです。この案をどうやって実行に移すかということにだけ走ってしまい,世間の批判を受けて立つなどという姿勢は最初からなかったかのようです。ですから,いまごろになってあたふたしはじめた,というのが実態のようです。

 7月7日のJSCが初めて開催した説明会を非公開にしたのは,「どんな質問がでてくるか予測がつかないので,非公開にしたと事務サイドで判断したようです」とJSCの理事長・河野一郎氏が,説明会が終わった直後のインタヴューで答えています。つまり,公開の場で,弱点をつかれたら困る,と最初からわかっていたというわけです。その位,いい加減なことしかやってこなかった,ということのなによりの証拠です。

 景観問題などについては,ほとんどなにも検討してこなかったのでしょう,きっと。ですから,森まゆみさんらの市民運動団体には説明会すらしようともしません。これが,日本の民主主義の実態です。その姿は,まるで閣議決定と同じです。

 巨大な競技施設をつくって,世界をあっと言わせたい(安藤忠雄),大きいことはいいことだ,一度に多くの人を喜ばせる施設はいいものだ,あとの維持管理費はなにも考えないで・・・,この発想の仕方はもはや時代遅れだ,と伊東豊雄さん。いまは,建築の世界もつぎの時代に突入しているというのに・・・と伊東さんは嘆いています。

 なにか,こんな経緯を考えていますと,ひとむかし前の,原発を推進していくときの,あとのことはなにも考えないで,それいけワッショイで,巨大な電力を確保できるということだけに目がくらんでしまい,その他のことにはまったくの盲目であった,そのときの論理とまったく同じものがいまも生きている,というそんな気がしてきました。

 いまこそ,「3・11」をしっかりと視野に入れて,その後を生きる人間にとっての国立競技場のあるべき姿を,国民がみんなで智恵を出し合って,合意をえられるところまで議論を積み上げるべきではないでしょうか。それが,間に合わないというのであれば,とりあえずは「改修案」でここは収めるべきではないでしょうか。

 JSCが,ほとんどなにも検討もしないで,こんな大きな事業をやろうとしていることが明らかになった以上,もはや,この計画はストップさせるべきではないでしょうか。わたしは伊東豊雄さんの「改修案」の詳細を知って,この案に賛成です。それで,すべての問題が解決し,しかも費用は半分程度で済まされるというのですから。

2014年7月10日木曜日

新国立競技場問題はいまも「藪の中」。でも,少しずつボロが露呈。東京五輪はだれのためのものか。

 昨日(7月9日)の東京新聞一面トップの記事で,新国立競技場のデザインコンペの審査経過を大きく取り上げていました。そこに躍っていた見出しを拾ってみますと,以下のとおりです。

 3作同点から委員長一任
 「新国立」選考の経緯判明
 安藤忠雄氏 1点を除外
 一部懸念の当選作 即決

 結論から,わたしの感想を言っておきますと,推測どおり委員長の安藤忠雄氏の独壇場。最初から結論ありき,の審査の経緯が浮かび上がっています。審議経過のなかで,当選作(いま,問題になっているザハ・ハディドさんの作品)については一部の委員から懸念の声もあったにもかかわらず,委員長一任を受けて,安藤忠雄氏はその場で「即決」した,と新聞は報じています。



 この記事のリードの文章を引いておきましょう。

 新国立競技場のデザインを決めた2012年の国際コンペの最終選考で,三作品の評価が同点だったにもかかわらず,委員長だった建築家の安藤忠雄さんが一作品を外し,二作品に絞ったことが分かった。本紙が日本スポーツ振興センター(JSC)への情報公開請求で入手した審査委の議事録で判明した。審査委で最終的な判断を一任された安藤さんは,英国在住の建築家ザハ・ハディドさんの作品を選んだ。

 記事をよく読んでみますと,このデザインコンペの委員は建築の専門家10人で構成。しかし,英国の著名建築家リチャード・ロジャースさん,ノーマン・フォスターさんの2人は会議には出席せず,事前説明を受け,2次審査の投票結果だけ提出した,とあります。つまり,最終審査にはこの著名な建築家が欠席したまま,残りの8人(委員長も含めて)で決めたということです。なぜ,この二人の委員が欠席したのか,それは「藪の中」。でも,このことに関して,わたしの中に沸き起こってくる疑念を抑えることはできません。そこには,やはり,なにか特別の「作為」があったのではないか,と。

 しかしまあ,下手な邪推をしてみたところではじまりません。問題は,なぜ,国際コンペの審査過程を約2年間もの長きにわたって,非公開(内緒)にしなければならなかったのか,という一点につきます。これまで,各方面から,審査過程を明らかにしろ,という要望書が提出されてきたにもかかわらず,です。しかも,槙文彦さんをはじめとする建築家集団が,何回も,この当選作の是非についてまじめに議論するためのシンポジウムを開催しています。そして,そこに安藤忠雄氏の出席を求めています。しかし,安藤氏はすべて拒否。公の場には登場せず,この件に関しては一切,発言していません。このかたくなな姿勢も,わたしからすれば不思議で仕方がありません。やはり,後ろめたい気持がはたらいているのでは・・・・・と。

 7月7日に主たる建築家を招集して開催されたJSCによる初めての「説明会」も,なんと「非公開」でした。しかも,招集されたのは建築家のみです。槙文彦さんほか何人かの建築家たちは「非公開」ではなんの意味もない,として欠席しています。

 景観問題を重視する作家の森まゆみさんたち市民団体の要望は,いまも「無視」です。

 ということは,公開で説明できるだけの「根拠」をもって「決定」したのではない,その場の勢いで,ある声の大きい人の意志にしたがった,とよくあるお役所仕事の裏事情が透けてみえてきます。わたしも,かつて,文部科学省や県の教育委員会の小さな会議に駆り出されたことがありますので,その実態は周知しています。たぶん,そのままの体質がいまも継承されているのでしょう。

 しかし,そこで問われることは,東京五輪はだれのためのものなのか,ということです。とりわけ,なんらかの問題が生じた場合には,多くの関係者を集め,徹底した「公開」の討論を積み上げ,国民の多くを納得させることが第一です。なにせ,国民の税金を主たる原資として行われる国民的事業なのですから。

 JSCは,基本方針は変えない,と豪語しています。が,どこかで疚しさを感じている様子。あと一息です。世論の強い反発にあえいでいる,とわたしには見えてきます。まもなく,現国立競技場の解体工事がはじまることになっています。が,それまでにクリアしなくてはならない問題が,JSCには山積みです。解体業者の選定(すでに,一回,失敗しています),組織委員会と東京都との確執も露呈しつつあります。そして,なによりも資材不足,労働力不足,そして急騰する費用の問題が待ち構えています。

 いまや,東京五輪招致運動に浮かれていた時代とは,まったく異なる厳しい情況が(フクイチを筆頭に),日に日に増大しています。いまからでも遅くはありません。東京五輪のための新規競技場施設の規模縮小を視野に入れて,もう一度,原点に立ち返る「勇気」が,いま,なによりも求められているのではないでしょうか。

2014年7月8日火曜日

いただいた「蹴鞠」の手拭いを事務所に飾りました。ちょっといい感じ。

 しばらく前にいただいた「蹴鞠」の手拭いを,事務所の一角に飾ってみました。隣の能面「延命冠者」さんとさりげなくいい具合にシンクロ。とても気に入ってます。


 これまで長い間,柿の実の熟した手拭いを上野の国立博物館のミュージアム・ショップでみつけ,飾ってありました。これも奈良の法隆寺の「柿食えば・・・・」を思い出させる雰囲気があって,とても気に入っていました。ですが,やはり長い間,同じものを眺めていますと,少しずつ平凡な感じになっていました。



 面白いもので,たった一点,壁面を飾る手拭いひとつで,事務所の雰囲気が「パッ」と一変してしまいました。これぞアートの力とでもいうのでしょうか。

 この二つのアート作品を眺めていましたら,妄想が妄想を生んで,とてつもなく面白い空想の世界を遊ぶことができるようになってきました。一つは蹴鞠にまつわる逸話。もう一つは能の世界のいまとむかし。あるいは,能楽が足利義満に見出される「前」と「後」の「投企の時間」(J=P.デュピュイ)。

 最初に蹴鞠にまつわる逸話。よく知られるように「大化の改新」は中大兄皇子と中臣鎌足とが,談山神社で蹴鞠をしながら談合し,そこからはじまったという逸話。その談合の内実は,蘇我入鹿をだまし討ちにすること,そこからはじまってつぎは・・・,という具合に連鎖していきます。が,この話はここでは割愛。そして,その後がこれまた大問題。

 中大兄皇子はのちの天智天皇。そして,天智は自分の子を宿した女性を中臣鎌足に下賜し,生まれた子どもが藤原不比等。天智と鎌足は蘇我一族を全滅させ,大化の改新から律令国家へと大きく舵を切った,時の中心人物。そして,天武の時代になって,不比等はそれ以前の歴史の改竄に着手(記紀の編纂・異説あり)。それが「正史」としてみなされ,持統へとバトンタッチされて,日本の国家としての屋台骨を築き,以後の日本の歴史に大きな影響を与えることになります。こうした大和朝廷と藤原一族の結託の話。

 こんなことを考えながら,この蹴鞠の手拭いを眺めて,妄想の世界を楽しんでいます。

 もう一つは能面の延命冠者。つまり,能楽の世界。足利義満によって観阿弥・世阿弥親子が見出され,中央権力の注目を集めるまでの能楽は,猿楽,散楽と呼ばれ地方の神社の祭礼を巡りながら曲芸にも似た演芸をみせて小銭を稼ぐどさ回り芸でした。しかも,名前からも明らかなように,いわゆる世にいう阿弥衆でした。それ以前はもっと身分の低い芸能集団の繰り出す芸にすぎませんでした。

 つまり,義満の「前」と「後」とでは月とスッポンほどの違いがありました。その流れがいまの能楽界を形成しています。その気位の高さは恐るべきものがあります。しかし,その気位の高さばかりを鼻にかけ,芸の研鑽がおろそかにするあまり,一部の名手を除けば芸が荒れてしまい,どこかに破局の音がするとまで噂されています。

 この「前」と「後」の間のあまりの溝の深さが意味するもの・・・・,別の言い方をすれば,破局の「前」と「後」の間の時間,これはJ=P,デュピュイのいうところの「投企の時間」とどのようにかかわってくるのだろうか,などという具合に想像力をたくましくしているところです。

 これからしばらくの間は,楽しみがつきることはなさそうです。
 ときには,こんな話も骨休めに・・・・。これもまた「投企の時間」?

2014年7月7日月曜日

頑張れ! 日弁連! 集団的自衛権の閣議決定が違法行為であることを,もっともっと主張してほしい。

 去る7月4日に立憲デモクラシーの会が主催した講演会「集団的自衛権を問う──立憲主義と安全保障の観点から,の折に受け付けで写真のようなリーフレットをいただきました。横長の上質紙を四つ折りにしてA5サイズになるおしゃれなリーフレットです。裏表にびっしり,似顔絵入りでそれぞれの論者の主張が簡潔に,わかりやすく紹介されています。

作成したのは日本弁護士連合会。







 左側の写真の似顔絵の論者は,右上から時計回りで順に,谷口真由美さん(大阪国際大学准教授・国際人権法・全日本おばちゃん党代表代行),半田滋さん(東京新聞論説兼編集委員・防衛省担当),谷山博史さん(日本国際ボランティアセンターJVC代表理事),阪田雅裕さん(元内閣法制局長官・弁護士),丹羽宇一郎さん(前中国大使・早稲田大学特命教授),浜矩子さん(同志社大学大学院教授・経済学),青井未帆さん(学習院大学教授・憲法),そして,中央が柳澤協二さん(前内閣官房副長官補・安全保障担当)。

 右側の写真は,日本弁護士連合会会長・村越進さんの挨拶文です。下段の文字が小さいので,もう一度,ここに転載しておきましょう。とても大事な指摘をしていますので。

憲法前文と第9条を規定している
平和的生存権の保障と恒久平和主義は,憲法の基本原理です。
これまで,政府はこうした基本原理に基づき,
憲法は集団的自衛権の行使を禁止していると表明してきました。
これは,国会における長年の審議の中で積み重ねられ,
歴代内閣で確立されてきた政府見解です。
時の政府が,閣議決定でこの見解を変更(解釈改憲)し,
集団的自衛権の行使を容認することは,
政府を憲法による制約の下に置くとする立憲主義に違反し,
許されるものではありません。
私たちは,政府が閣議決定でその見解を変更することによって,
集団的自衛権の行使を容認することに強く反対します。

 以上です。

 これを読めば明らかなように,「憲法は集団的自衛権の行使を禁止している」と歴代内閣が踏襲してきた見解を,根底からくつがえす決定が安倍政権の閣議決定です。つまり,憲法を放り投げて(立憲主義を無視して),時の政権の閣議決定で,なんでも決めることができる,という前例をつくることになります。この暴挙は,いわば,国家としての骨格をないがしろにする180度の方向転換である,としかいいようがありません。言ってみれば,日本の歴史に残る大汚点を,いま残そうとしているのです。

 わたしとしては,戦争の危機だとか,限定的容認だとか,そんな議論にうつつをぬかしているときではない,大事なのは,憲法を守るのか,この平和憲法を無視する政権を容認するのか,という議論だ,とこころの底から考えています。

 その意味で,法の見張り番であり,国民の権利の弁護者・擁護者たる日本弁護士連合会が,もっともっと前面にでて,このリーフレットに書かれていることを広く国民に周知徹底させるべく,より一層の奮闘を願っている次第です。

 ですから,このリーフレットが作成され,配布されていることを知り,少しだけホッとしました。そして,もっともっと前にでてきてほしい,と願っています。

 真の「立憲デモクラシー」の精神が,この日本で育ち,確立される日がくるまで,わたしたちも頑張らなくてはなりません。そのスタート地点が,いま,です。これから秋の立法化までの間に,それを阻止する運動を展開する以外にないのですから。一人ひとりの力は微力ではあっても,それが一つにまとまれば大きな力を発揮します。蟻の一穴,というように。最後まで諦めないで,この主張をしていきたいと思っています。

 どうぞ,よろしく。

2014年7月6日日曜日

第31回・全日本武術太極拳選手権大会,第3日目の競技をみてきました。感動。そして課題も。

 第一日目と第二日目は先約があって残念ながら見送り。第三日目の今日(6日),朝一のプログラムから最終の第一コートの自選難度競技まで,たっぷりと太極拳を堪能させていただきました。しかも,午前中はスタンドから,午後は本部席からの見学でした。なんと贅沢なことと,申し訳なく思っています。もちろん,村岡会長先生や石原先生にもご挨拶をして。

 驚いたことに,村岡会長先生がわたしの病気のことをご存じで,「その後,いかがですか」と声をかけられ,いささか慌ててしまいました。が,事実をありのままにお話させていただきましたら,「じつは,わたしも・・・」ということで,これまた二度目のびっくり。同病相憐れむではありませんが「お互いに気をつけて養生につとめましょう」と励まし合った次第です。

 いま,書いてしまってから,個人情報にかかわることなのでちょっとまずいかなぁ,と反省。でも,それ以上にこんな会話が村岡会長先生とできたという自慢話をしたくて仕方のないわたしの欲望抑えがたく・・・・。お許しください。

 さて,本題へ。
 ことしは,4月に行われた全日本武術太極拳競技大会(本部研修センター)も見学させていただきましたので,比較的短いインターバルで,自選難度競技のトップ・レベルの選手たちの表演を見させていただきました。こんなわずかな期間なのに,選手たちの好不調というものはきちんと結果となって現れるものだということがよくわかりました。きちんと調整をしてきた選手はそれなりの結果がでてくるものだ,と。

 ここに改めて実名を挙げて語るまでもないかと思いますが,同行した太極拳の兄弟弟子のNさんと面白い会話をしましたので,ご紹介させていただこうと思います。それは,自選難度競技部門の太極拳女子の内田愛選手(旧姓・宮岡)と佐藤直子選手の,毎年,繰り返される息詰まるほどの僅差の競り合いです。それはほんとうにレベルの高い競り合いで,毎回,楽しみにしている次第です。

 今回は,お二人ともみごとな表演で,ほとんど「ノーミス」でした。これは甲乙つけがたし,とわたしはみていました。が,結果は,0.07の差で佐藤直子選手が制しました。勝負の世界はきびしいとはいえ,この差はいったいなにを意味しているのだろうか,と考えてしまいました。そうしたら,隣に座っていたNさんが,ぽつりと「可哀相に。両方,優勝にしたらいいのに」と。そして,「無理に分ける必要なんてないのに」と。ああ,わたしと同じことをNさんは考えていたんだ,とある意味で感動してしまいました。

 なぜか,といいますと以下のとおりです。
 この「0.07」の差の意味を明確に説明できる根拠はどこにもない,ということです。つまり,採点競技の宿命ともいうべき数字のマジックでしかない,ということです。

 それは,ちょうど,スピード・スケート競技での計測と同じです。ここでは「1000分の1秒」まで計測し,優劣の判定をしておいて,その結果を「100分の1秒」の単位で発表します。場合によっては,発表されたタイムは同タイムなのに一位と二位が区別されるということが起こります。が,その区別の根拠は1000分の1秒単位で裏付けることができます。つまり,科学的合理性の力です。しかし,この「差」も,はたして意味があるのか,という問題がでてきます。なぜなら,人間の目にはその違いはまったく見えない世界の話だから,ということです。

 太極拳の表演での「0.07」の差は,目でみたかぎりでは確認のしようがないはずです。つまり,どちらが上手だったか,という根拠にはなりえない,ということです。ただ,「新国際競技ルール」にもとづく採点の集計の結果が「0.07」という数字となって表れただけの話です。

 もう少しだけ踏み込んでおきますと,A組審判に5点,B組審判に3点,C組審判に2点が配分され,それぞれの審判がその配点の範囲内で,各3人の審判が採点し,それを集計して3等分したものが各組の点数となり,それを集計したものが選手の点数となります(精確にはもっと複雑な構造になっています)。

 ということは,各組の優劣は判定できても,全体を見渡しての優劣の判定はできない,ということになります。つまり,自選難度競技以外の採点方法では可能な,全体のできばえの優劣を見極めた上での点数の割り出し方ができない,ということです。となると,極端な場合には,全体のできばえは明らかに違うのに,A組,B組,C組から割り出された点数を集計したら逆の結果がでてくる,ということもありえます。

 もちろん,その逆に,主観を排除して,徹底的に客観性を追求した「新国際競技ルール」のメリットもあります。しかし,このルールでは,武術としての完成度,つまり,到達している精神性のレベルを客観的に数量化することは不可能です。ここに,ヨーロッパ的合理性を追求するあまりに,武術が形骸化していく,という避けて通ることのできない隘路が待ち受けています。これは,太極拳にかぎらず,柔道も含めて,国際化にともなう,一種の必然といっていいだろうと思います。

 合理性,とりわけ,科学的合理性は一見したところきわめて説得力に富んでいます。しかし,そこには秘められた落とし穴がある,ということも忘れてはなりません。武術のできばえを科学的合理性だけで優劣を判定することの,とんでもない勘違いが大通りを闊歩しているのではないか,とこれはまあ,わたしのきわめて個人的な感想です。

 しかし,同行のNさんも同じようなことを感じ,考えている,しかも,わたしよりももっと深いところにまでその思考の触手は伸びているだろうことは間違いありません。この問題は,すぐれて今日的な「普遍」の問題に通ずる大問題でもあります。そして,そういう大問題が太極拳の「新国際競技ルール」の世界にもみごとに浸透している,ということです。いつか,Nさんとこの問題について考える機会が得られれば,と思っています。

 この内田愛選手と佐藤直子選手の表演は,NHKのBS1で,7月13日(日)12:00~12:50に放映されることになるだろう,と思っています。もう一度,録画でもして,しっかりといろいろの観点から分析しながら,問題の所在を見極めてみたいと思っています。

2014年7月5日土曜日

立憲デモクラシーの会主催の講演会,充実した内容で感動しました。

 昨日(7月4日),学習院大学で開催された「立憲デモクラシーの会」主催の講演会に行ってきました。開催案内には「集団的自衛権を問う──立憲主義と安全保障の観点から」とありましたので,相当に厳しい糾弾がおこなわれるのではないか,と予想してでかけました。ところが,なんとも冷静な,そして深い洞察にもとづく,根源的な「問い」を突きつけられ,「想定外」の感動をおぼえました。参加してよかった,としみじみ思いました。

 プログラムを挙げておきましょう。

 「集団的自衛権を問う──立憲主義と安全保障の観点から」
 第1部
 
  基調講演:三谷太一郎(日本学士院会員・東京大学名誉教授・政治史)
         なぜ日本に立憲主義が導入されたのか・その歴史的起源についての考察
  コメント:加藤陽子(東京大学教授・歴史学)
  司会:山口二郎(法政大学・政治学)
 第2部
  講演:前田哲男(軍事評論家)
     <万物流転>にねじ伏せられた<万古不易>
  コメント:木村草太(首都大学東京准教授・憲法学)
  司会:中野光一(上智大学・政治学)

 冒頭で,この会の代表のひとり山口二郎さんが「安倍内閣の解釈改憲への抗議声明」を読み上げました。これも,大きな声を張るわけでもなく,むしろ,小さな声で控えめに読み上げられました。その内容は三つの柱でまとめられていました。
 A 暴走する政府は民主政治を破壊する
 B 集団的自衛権行使は違憲であり,安全保障にも寄与しない
 C 政府解釈による自衛権の拡大は立憲主義を破壊する
 ここに全文を写し取りたいところですが,割愛させていただきます。たぶん,立憲デモクラシーのホームページにアップされていると思いますので,チェックしてみてください。

 つづいて第1部に入りました。この三谷太一郎先生の基調講演が素晴らしいものでした。まるで,大学の講義を聴いているような,一つひとつ懇切丁寧な解説があって,とても説得力のある内容でした。配布されたレジュメの「はじめに」のところだけ,引用しておきましょう。

 はじめに
 日本における「立憲主義」を二つの側面から考える
  1)権力分立制
  2)議会制
 したがって問題は第一に日本になぜ権力分立制が導入されたのか,第二に日本になぜ議会制が成立したのか,日本における「立憲主義」は何を歴史的母胎として生まれたのか。第三に権力分立制および議会制の下でなぜ複数政党制が成立したのか。要するに日本においては「立憲主義」および複数政党制がなぜ必要であったのか。

 こういうお話は学生時代に聴いておきたかった,と悔やまれるほどの素晴らしいものでした。ひとことだけ,わたしの理解を書いておけば,権力分立制も議会制もその萌芽は徳川幕府に求めることができる,その伝統を明治政府が引き継ぎ,紆余曲折をへながらも,かろうじて立憲デモクラシーの考え方や制度を練り上げてきた,したがって,立憲デモクラシーの理念はいわば国民的財産なのだ,ということです。

 この基調講演に対して,加藤陽子さんがつけたコメントがまた抜群でした。時間があればもっと詳細な展開があったのでしょうが,残念。

 つづけて第2部に。
 軍事評論家の前田哲男さんのお話も,とても魅力的な内容でした。とくに,わたしには軍事評論という世界のことは無知に等しかったので,その内容がとても新鮮に感じられました。しかし,残念なことに時間が押していて,後半は一気に概説をして終わってしまいました。

 この講演に,若き憲法学者の木村草太さんがコメント。こちらも時間があればもっと面白い話の展開になったろうに・・・と惜しまれました。

 まあ,いずれにしても,これだけのプログラムに対して,たった2時間はあまりにも短すぎ。それでも,終了したのは午後8時30分をまわっていました。もっとも,時間が足りなかったなぁ,と惜しまれるくらいがちょうどいいのかも知れません。夕食前でしたが,空腹どころか満腹感(頭の中)でいっぱいでした。

 いま,振り返ってみますと,とりわけ,三谷太一郎先生のお話はわたしにとっては強烈なインパクトを与えました。いつか,時間をみつけて三谷先生のご著書を読ませていただこうと思いました。徳川時代があんなに長くつづいた背景には,ご公儀の権力の分立と合議制が大きな意味をもっていたのか,と気づかされたからです。

 いまもその余韻に酔い痴れています。
 たぶん,IWJで映像が流されると思いますので,もう一度,聴いてみたいと楽しみにしています。

 以上,つたないわたしの感想とご報告まで。

2014年7月4日金曜日

新国立競技場説明会,「非公開」に建築家反発。安藤忠雄さん,どうしちゃったの?

 今朝(7月4日)の東京新聞一面トップに大きな見出しが躍っていました。

 新国立声明会 非公開に
 建築家ら「密室」辞退相次ぐ

 リードの文章を引いておきましょう。

 2020年東京五輪の主会場となる国立競技場の建て替え問題で,事業主体の日本スポーツ振興センター(JSC)が「批判に対応する」として開く説明会の対象を建築団体などに限定し,非公開にする方針であることが分かった。開催は7日の予定だが,参加要請を受けた建築家から「密室での議論は受け入れられない」と反発する声が上がっている。

 お役所仕事はよほど「密室」がお好きなようです。いやいや,すべてを「密室」で済ませたいようです。しかし,今回は多くの建築家や建築団体をはじめ,市民や市民団体が声を挙げ,何回ものシンポジュウムを「公開」で重ねてきました。その圧力に屈したかたちで,ようやく「説明会」なるものを開催する運びとなりました。が,それも特定の建築家と建築関係5団体に限定して「説明会」を行う,しかも,「非公開」というわけです。

 しかも,この問題に大きな関心を寄せている市民や市民団体はオフリミットです。しかも,マスコミの取材もオフリミットです。ですから,当然のことながら,わたしのような人間も完全に排除されているということです。このことはなにを意味しているのか。民主主義の否定です。

 第一に,事業主体であるJSCという組織そのものが文部科学省の下部組織です。つまり,JSCの人間は,すべて文部科学省のお気に入りの人間だけで構成されています。もっと言っておけば,文部科学省の天下り団体でもあります。ですから,文部科学省の意向がそのまま反映される,そういう団体です。文部官僚の体質がそのまま引き継がれているといっていいでしょう。ですから,かれらの感覚からすれば「密室」なのは当たり前のことです。

 しかし,ことは,まったく別次元の話です。

 新国立競技場という,2020年の東京五輪の中心となる会場が,どのようにして設計・デザインのコンペが行われ,どのような経緯で選定されたのか,建築経費や維持費はどうなのか,それになにより「景観」問題をどのように考えてきたのか,という問題はすべからく国民のすべてに向けて「公開」で説明すべき問題です。それを拒否し,「きたんのない意見交換のために非公開で行うことにした」(JSC新国立競技場設置本部の高崎義孝運営調整課長)とのことです。

 「きたんのない意見交換」こそ,公開ですべきことではないでしょうか。国民の財産の問題です。それを国民が知りたくても知ることのできない「密室」で決めてしまおうという算段です。

 もっと,はっきり書いておきましょう。今回の「主犯」は安藤忠雄さん,あなたです。あなたは建築家相手ならなんとかなる,しかも「密室」なら(つまり,脅しもかけられるという意味も含めて),とお考えのようですが,そんな甘いものではありません。おそらくは「時間切れ」で押し切るつもりなのでしょうが,そうはいきません。

 現国立競技場の改修で切り抜けるという選択肢も残されているのです。

 問題は,国民の財産を決めるにあたって,なぜ,国民の意見を集約して,あるいは,国民を説得して,国民の納得のいく方法をとらないのか,そこにあります。民主主義とはそういうものではないですか。それを,なぜ,忌避するのでしょうか。

 ここまでくると,だれかが得をする仕組みがどこかに隠されているのでは・・・・と勘繰りたくなってきます。

 なにか雲行きが怪しくなってきた・・・・というのがわたしの直感です。いまからでも遅くはありません。多くの国民が納得のいく手続を経て,つぎの「国立競技場」のあるべき姿を模索してもらいたいものだと思います。

 とりあえず,今日のところはここまで。

 

2014年7月3日木曜日

集団的自衛権の閣議決定。憲法を無視したアベ政権の暴挙。この違法行為をこそ糾弾すべし。

 7月1日(火)の閣議決定を受けて,2日(水),3日(木)と連日,新聞・テレビが「集団的自衛権」の行使・容認をめぐる報道を大々的に展開しています。しかし,その展開のさせ方に一つだけ気がかりなことがあります。それは,いずれも集団的自衛権と「戦争」との関係に議論が偏っている,ということです。国民の意識を引きつけるには,東アジアの危機的情況に訴えて,集団的自衛権の是非を問うという手法がもっとも手っとり早いと考えてのことなのでしょう。しかし,これは逆に言えば,みごとなまでの世論誘導・操作装置にもなっている,ということです。つまり,やっぱり集団的自衛権の行使を容認しておかないと,戦争に備えられないよなぁ,という方向への無意識に訴える誘導装置として機能する,ということです。

 これは完全なる問題のすり替えではないか。

 集団的自衛権行使・容認の閣議決定がもつもっとも重要な問題は,ときの政権の一存で,憲法を無視した違法行為,この一点にある,とわたしは考えています。憲法を無視して,閣議決定をし,法案にして議会に提出し,多数決で押し切る,というこの手法こそが大問題なのだ,と。こんなことがまかり通るとなれば,もはや,日本国は国家としての体裁を失い,国際社会からも「孤立」してしまいます。憲法を無視する国家など,だれが信用しますか。

 長年にわたってこつこつと積み重ねてきた平和国家日本としての大きな「財産」を一気に失うことになります。

 日本は,ポツダム宣言受諾(無条件降伏をしたという事実をもっと重く受け止めるべきです)後のアメリカによる統治のもとで,二度と戦争をしない国家として憲法第9条を旗印に,戦争を放棄することを世界に向けて宣言した国家です。そして,世界が日本のこの決断を熱烈歓迎しました。なぜなら,日本がふたたび軍備をして戦争をする国家になることを,世界中の国家が恐れていたからです。なにせ,ハラキリ,トッコウタイといった命をなげうって突撃してくる軍隊など,ヨーロッパ先進国では考えられないことだったのですから。

 その「野蛮な」国家が,戦争放棄を謳った憲法を旗印にして,こんどは「平和国家」の樹立をめざして,大戦後の復興に立ち上がったのです。しかも,世界が驚くほどの成果を挙げました。このことに世界はふたたび驚きました。そして,日本はあくまでも「平和国家」を標榜し,専守防衛を貫くことを世界に向けて示しつづけてきました。この国家としての姿勢が,国際社会では高く評価され,大きな信頼をえることに成功しました。

 にもかかわらず,アベ政権は,中東戦争のときに日本は「カネだけ出して,人を出さない」と国際社会からきびしく批判された,この批判を回避するためには「人もだせる」集団的自衛権の行使容認が必要だ,というわけです。しかし,なぜ,こんな根拠のない誹謗中傷に怯えなくてはならないのか,わたしには理解できません。逆に「人をだせない」国家にしたのは,あなたがたではないか。それを熱烈に歓迎したのもあなたがたではないか。しかも,現行の平和憲法をわたしたちは誇りに思っています。だから,平和国家を目指すわが国としては,この憲法を遵守し,「人は出しません」と,堂々と論陣を張ればいいだけの話です。

 しかも,こんな批判を,もはや,いまのアメリカは日本に対してする根拠はどこにもないでしょう。アメリカは日本の集団的自衛権を歓迎しているとメディアは伝えていますが,どのレベルのニュース・ソースに基づいているのか聞いてみたいところです。現に,アメリカと中国はみごとなまでの信頼関係を構築しています。いまも,太平洋ではアメリカ軍と中国軍と日本の自衛隊が共同で演習訓練をやっています。この事実を「ひた隠し」にして,中国が攻めてくる,と恐怖心を煽ることに政府もメディアも熱心です。そして,多くの国民はまたまた騙されてしまいそうになっています。なにせ,嘘を公然と言ってのけることになんの罪悪感ももたない首相のやることですから。

 中国が尖閣諸島の領海侵犯を繰り返していて,一触即発の危機的状態がつづいている,という報道もわたしからみれば立派な「嘘」です。なぜなら,中国は,尖閣諸島の問題は,しばらくの間「棚上げ」にして日本の「実効支配」は認めましょう,という約束を日本とした上で,いつか,この問題について話し合うことのできる時を待ちましょう,というところで納得していたのです。ですから,尖閣諸島を日中で共同開発をしよう,という話まで持ち上がっていました。が,それらの約束を破って,一方的に「わが国固有の領土である」と宣言したのは日本なのです。中国が怒るのは当たり前でしょう。立場を逆にして考えてみれば,よくわかります。ですから,中国は「歴史認識」の問題だと主張し,それを根拠に,ぎりぎりいっぱいのところでの示威行動をつづけている,ただ,それだけの話です。日本が,もう一度,尖閣諸島を「棚上げ」に戻せば,一気に問題は解消します。こういう「事実」も「ひた隠し」にしています。メディアまで一緒になって。

 とにかく,なにがなんでも集団的自衛権行使容認に向けてまっしぐら。それが,とんでもない違法行為であることも無視して。こうした行為に歯止めをかけるはずの内閣法制局のトップまでアベ人事で都合のいい人間にすげ替えてしまっています。ですから,いまや,内閣法制局はあってなきがごときものになってしまっています。

 戦争はいつでも想定外のところからはじまります。ですから,専守防衛だけで充分です。すなわち,現行の単独的自衛権だけで充分です。

 ですから,今回の大問題は,憲法を無視したアベ政権の暴挙にあります。この違法行為をこそ,徹底的に問うべきではないでしょうか。

 明日(4日)の夕刻(午後6時)から,「立憲デモクラシーの会」が今回の集団的自衛権をめぐる問題をとりあげ,学習院大学でシンポジウムを開催します。わたしも出かけて行って,勉強してこようと思っています。詳しくは「立憲デモクラシーの会」で検索してみてください。

 これからがいよいよ正念場です。できる努力はしていきたい。そのためには,しっかりと熟慮を重ねつつ,できるところから行動に移していきたいと思っています。

 以上,現時点での所感まで。

2014年7月2日水曜日

Facebookは活用の仕方次第。素晴らしいニュース・ソースがいっぱい。みずからがメディアになれる世界。

 ずいぶん前にFacebookを開設したものの,その活用の仕方をよく理解しないまま放置していました。そして,時折,どんな記事が載っているのだろうかと覗いてみると,まあ,とてものどかな趣味の世界の話題ばかりが並んでいます。ああ,Facebookとはこういう世界なのか,といささか意気阻喪。これだったら,ブログで頑張ってみずからの思考を深めながら,文章を書いている方が,日々新たな自己と向き合うことができると思い,ブログに専念していました。

 ところが,です。あることがきっかけで,西谷修さんのFacebookを覗いてみました。すると,ここにはわたしの想像していたFacebookとはまるで異なる情報が,いわゆる「シェア」されて紹介されています。さらに開いて内容をしっかり読んでみますと,そこには驚くべき世界が広がっていました。なぜなら,日本の新聞やテレビがけして報道しない(しようとしない/できない?)情報が満載でした。これはいけない,と身を引き締めました。

 たとえば,こうです。この間の新宿での焼身自殺未遂事件について,日本のメディアの大半はスルーしてしまいました。つまり,なかったことにしてしまいました。ですから,この事件の内容をわたしたちはほとんど知ることはできませんでした。しかし,Facebookの世界は違っていました。もちろん,Facebookの世界でもいい加減な情報も流れていました。

 が,少し丁寧にレベルの高いソースをたどっていきますと,そこには驚くべき事実が伝えられていました。たとえば,この事件が海外ではどのように扱われているのかという生の証拠を提示する情報が,つぎつぎに現れました。まず,驚いたのは,焼身自殺未遂の現場の映像がそのまま流れていたことです。つまり,ハンドマイクを片手に集団的自衛権の行使容認に反対する演説をし(この音声はこの映像からは聞き取れませんでしたが),そのあとガソリンを頭からかぶり,ライターを取り出して火を点ける一部始終が映像となって流れています。そして,それを直にみていた周囲からは女性の悲鳴があがっている声も聞き取れます。それから,消防隊が駆けつけ放水をはじめ,消火し,自殺未遂者を担架で運び出すまで,すべて映像としてリアルに流されていました。

 この衝撃的な映像が海外のメディアが重視し,そのまま放映し,この映像をてがかりにして,この焼身自殺未遂がなにを意味しているのかを,詳細に論じ,多くの論議を生んでいるというのです。そして,その背景にあるものが何かを分析して,日本という国家がかかえている深刻な問題を抉りだしている,というのです。

 その実例の一つとして,ドイツの新聞記事が取り上げられていました。そこには,ドイツ語の記事の一部がそのまま転載され,しかも,その日本語訳まで投稿者の好意で付されていました。そして,投稿者は,こういう現実をしっかりと見極めて,日本のメディアがいかにいい加減(いや,意図的・計画的に,政府にとってマイナスとなる情報に蓋をしてしまっている,しかも,そのことに一致団結しているかにみえる)であるか,そして,いかに危険な国家となりはててしまっているのか,という警鐘を鳴らしています。

 つまり,海外のメディアには,立派にジャーナリズムの批評精神が生きています。つまり,精確な情報をありのまま流し,それに対する議論を展開し,みんなでその本質を考えようという姿勢が貫かれています。こういう世界であってはじめて民主主義が意味をもち,国家や政治の姿勢が糺され,浄化されていく,というわけです。ここで重要なことは「自浄能力」です。しかし,いまの日本には,民主主義も,ジャーナリズムの批評精神も,なにもありません。それどころか,政府が先陣を切って,国家の最高法規である憲法をないがしろにしようとしているのですから。少なくとも政府は,日本国憲法の精神を遵守するという枠組みのもとで権力を委託されているのであって,その政府が憲法を「遵守」するどころか,その上に立って解釈改憲(壊憲)を行おうとしているのですから,これは明らかに違法行為です。そのことに政府自民党の圧倒的多数の議員(そこに公明党の議員も加わっている)は,まったく無自覚のまま(あるいは知らぬふりをして)暴走しています。もはや,開いた口がふさがりません。

 というような具合に,Facebookは活用の仕方いかんによっては,日本の政府やNHKがひた隠しにしている「生の情報」を,そっくり手に入れることができます。そして,日々,新たになっていくみずからの思考や,生きる姿勢と向き合い,まことに充実した時間を確保することができます。わたしにとっては,あの青春時代の日々の,驚きの発見の連続であった,はらはらどきどきの日常がふたたび戻ってきたように思います。

 いかに,政・官・財・学・報が五位一体となって,情報をコントロールしようとも,国民がそのままメディアの主体となって情報を発信するインターネットの世界を統御することはできません。いや,すでに,インターネット上を流れている情報も,じつは,権力によって委託業者がつぎつぎに消しにかかっていることは承知しています。現に,数分前まで見ることのできた情報があっという間に消えていることは,よくあることです。でも,それに負けないように,これは,と思われる情報はわたしたちの手でつぎつぎに「シェア」して,思いっきり「拡散」させることです。

 その意味で,Facebookのもつ可能性に,わたしは賭けてみたいと,つい最近になって気づいたという次第です。恥ずかしながら,気づいたときが吉日と考え,あえて告白させていただきました。「知るは一時の恥,知らぬは一生の恥」ともいいますので・・・・。

2014年7月1日火曜日

集団的自衛権閣議決定に反対する首相官邸前抗議集会に行ってきました。

 6月30日(月)18時30分からの,「TOKYO DEMOCRACY CREW-集団的自衛権閣議決定断固反対-超緊急首相官邸前抗議」の呼びかけに応答して,その集会に参加してきました。が,その団体がどこにいるのかさえわからないほどの多くの団体が早くから押しかけていて,それぞれにショート・スピーチを行い,シュプレヒコールを繰り返していました。ので,わたしは道路の反対側の歩道に立って,こちら側からシュプレヒコールをしてきました。

 たぶん,いろいろの団体が集まってくるだろうと予測して,わたしは少し早めの17時には首相官邸前に到着していました。首相官邸側の歩道はすでに人でいっぱいでした。しかも,長蛇の列になっていて,盛んにシュプレヒコールが繰り返されていました。

 まだ時間があるので,別のどこかでなにかやっているのではないかと考え,国会議事堂を一周してみました。すると,生活者ネットワークという団体が,首相官邸から少し離れたところで集会をやっていました。こちらの人数はそれほどでもありませんでしたが,それを取り巻く機動隊の数には驚かされました。びっくり仰天です。下の写真の左側に,驚くほどの機動隊の集団が待機していました。横断歩道をわたる人もふり返るほどです。


 国会議事堂を一周してもどってきましたら,首相官邸前はさらに多くの参加者であふれ返っていました。もはや立錐の余地もないほどでした。反対側の歩道には,いわゆる「無所属」の集団が立っていました。そこにはいくらか余裕がありましたので,そこに入り込んでシュプレヒコールをしていました。が,気がつくと,いつのまにかわたしの後ろにはいろいろの団体の旗がひらめいていました。すぐ近くにあったのは「湘北教組」「浜教組」の二つの旗でした。

 しばらくすると,公明党が執行部一任を決めたというアナウンスがありました。集会は一気に熱気を帯び始め,ショート・スピーチをする人も,ことごとく公明党を「裏切り者」「平和の党の看板が泣く」「腹黒い政党」「計算・打算の党」「権力の甘い汁をすって豹変」というような揶揄で,猛烈な攻撃ぶりでした。これで,7月1日に予定されている閣議決定はほぼ間違いなし,という情況になってしまいました。シュプレヒコールの声もいちだんと大きくなってきました。

 



 しばらくすると,こんな街宣車が登場し,唖然としてしまいました。豊かな資金に支えられた(どこからでているかはお察しのとおり),なんともはや困った人びとです。それにしても,こんな巨大な街宣車をみるのは初めてです。威勢のいい音楽もアジ演説もなく,静かに通りすぎるだけでした。が,2台も同じ巨大な街宣車が並んでとおりすぎていくと,やはり,どこか不気味で,異様な雰囲気にはなりました。



 今回の集会では,ひとりぼっちでしたので,近くに立っている人たちといくらか会話をしてみました。やはり,思いはみんな同じで,戦争に参加することだけはなんとしても回避しなければならないこと,憲法9条を死守すべきこと,解釈改憲を閣議で決めるのは違法行為だということ,立憲デモクラシーを踏みにじる政府のやり方は許せないこと,国家の骨格が根本から崩れてしまうこと,などなど。いずれも即答でかえってきました。


 わたしの立っていたポジションが上のこの写真です。向こう側の右端でスピーチが行われていました。写真はかなり明るく写っていますが,すでに黄昏時でした。


 自転車でアピールする人もかなり多く,車道をゆっくり走りながら,何回も周回していました。いろいろのアイディアが満載で,つい失笑をかうようなのもあり,これはこれで一つの方法なのだなぁ,と感心してしまいました。

 今回の集会で気づいたのは,若者の参加がいつもと違って多かった,ということでした。やはり,わが身にふりかかる戦争が意識されているのだろうと思いました。それも女性の若い人が意外に多かったのが目につきました。なかには親子づれで参加している人もいました。驚いたのは,子どもを3人(小学生と思われる)も引き連れて歩いている家族もありました。沖縄では珍しくない光景ですが,国会前や首相官邸前では珍しい光景でした。こういう家族がこれからは増えてきてくれるのでは・・・と密かに期待をいだきました。

 17時から20時をまわったところで3時間が経過,体調のことも考え,引き上げてきました。いつ終わるとも知れない熱気がいっぱいで後ろ髪を引かれる思いでした。万全の体調なら,集会が終わるのを見届けて・・・というところですが,いまは無理をしてはいけないとみずからに言い聞かせて帰路につきました。

 帰宅して,遅い夕食をしながらNHKのニュースをチェックしていましたが,なんと長崎で集団的自衛権行使容認に反対するデモに200人ほどが集まった,と報じただけであとはなにもなし。全国各地でこのような集会をやっていることはネットをみればわかります。そして,この首相官邸前に集まってきた人の数は,わたしなどには想像もつきませんが,おそらくは述べ人数では何万人に達すると思います。これほどの大きな国民の集会を,しかも首相官邸前の集会をNHKは無視です。もっとも,首相官邸前は毎週金曜日の集会以外にも,このところは連日のように集会がもたれていることはネットで知ることができます。

 とにかく,このところのNHKは完全に政府御用達の放送局になりさがってしまいました。なにが公共放送か。もはや,受信料は払う必要はどこにも見当たりません。恐ろしい時代になったものだ,と身の毛がよだちます。

 こんごも,この集団的自衛権の行使容認の閣議決定というやり方については,さまざまな形態の批判イベントが予定されています。しかし,ほとんどのマスメディアは無視です。が,ネットではだれでも情報を流すことができますので,そこからいろいろの情報をえることができます。アンテナを高く張って,みずからの行動を決めていこうと思います。

 これからますます大きな国民的な運動になっていくと思いますし,また,そうならなければならないとわたしは考えています。もし,そうならなかったら,それこそ日本国の「破局」(カタストロフィ)です。憲法も国会もなにもかも意味をなさなくなってしまいます。すべてはときの政府の閣議決定で終わり。あとは,形骸化した多数決・民主主義によりかかり,すべてを合法化するだけ。

 ここは,なにがなんでも国民であるわれわれがひとふんばりして,「NO!」をつきつけなくてはなりません。そのための正念場がこれからはじまろうとしています。一人ひとり国民みんなが胸に手を当てて熟考し,行動を起こすときだ,とみずからに言い聞かせています。

 長くなってしまいました。が,とりあえず,首相官邸前の集会に参加したご報告まで。