2013年4月2日火曜日

『哲学のヒント』(藤田正勝著,岩波新書)を読む。「生きた哲学」への誘い。

 「生きた哲学は現実を理解し得るものでなくてはならぬ」(九鬼周造)。なぜ今日の空は美しいのか,親しい人を喪うとはどういうことか,私とは何か──哲学の問いはつねに日常のなかから生まれ,誰にとっても身近なものである。古今東西の思想家の言葉をたどりながら,読者それぞれが「思索の旅」を始めるためのヒントを提供する。

 この本の表紙カバーの折り返しに書かれたコピーをそのまま引用してみました。この本の特色が簡潔に,わかりやすく提示されていると思ったからです。いわゆる哲学の初心者のための入門書なのですが,これまでの類書とはいささか趣を異にしています。著者の藤田正勝さんもこの本の「はじめに」で書いていますように,「生きた哲学」を求めて,この本を書いたというのです。もう少し,著者の言い分に耳を傾けてみましょう。「はじめに」のなかで,著者はつぎのようにきわめてわかりやすく書いています。

 たとえば私たちは夕焼けの空を眺めて,その美しさにうっとりすることがあります。そして「なぜ今日の空は美しいのか」とか,「私たちはなぜ美しいものに惹かれるのか」と考えたりします。あるいは肉親の死を前にして,「なぜ人は死というものに向きあわなければならないのか」とか,「世の中に移ろわないものがあるのだろうか」と考えたりします。またさまざまな挫折を経験したり,進むべき道に迷うことがありますが,そういうときに,「どのように生きていけばよいのか」「生きていく上で何がいちばん大切なのか」といったことを考えます。そこから一歩進めれば,美とは何か,真の存在とは何か,善とはなにか,といった問いが生まれてきます。
 このように哲学は,誰もが関心を抱く問い,あるいは関心を向けざるをえない問いから出発しています。その意味で,私はすべての人が哲学者であると思っています。しかし,それをより深く問い進めていくためには,少し手がかりが必要になると思います。そういう手がかりを提供することができればと思って,本書を執筆しました。

 少し長くなってしまいましたが,これでこの本がどのような趣旨で書かれたか,というもっとも大事なところがよくわかります。言ってしまえば,わたしたちが日々あれこれと考えながらの日常生活を送るということそのことが,そのまま,哲学をしながら生きていることを意味する,というのです。ですから,みんな哲学者だ,と著者は断言します。ただし,その日常性から,さらに,もう一歩踏み込んで考えていくためには,そのための手がかりが必要になる,というわけです。つまり,本格的な哲学への第一歩となる手がかりです。その手がかりを,だれにもわかるように,わかりやすく提供したいと著者はいいます。

 この著者のことばどおりに,哲学するための「手がかり」が,このテクストを一貫して流れていて,とっつきやすく,そしてわかりやすく,しかも感動的でもあります。こんな哲学の入門書にもっと若いときに出会っていたら,わたしの人生はもっと違ったものになっていたのではないか,と思うほどです。ですから,哲学を毛嫌いしている若い人たちに,ぜひ,読んでもらいたいと思います。のみならず,哲学はなんとなくうさん臭いので避けてきたという人生のベテランの人たちにも,ぜひ,読んでもらいたいと思いました。哲学にほとんど縁のなかったわたしですら,眼からうろこが落ちる思いをしたくらいですから。

 著者の藤田正勝さんは,あらためて紹介するまでもなく,京都大学哲学科の教授です。いわゆる「京都学派」の直系の哲学者です。これまでにも,西田幾多郎に関する著書をたくさん書いてこられた方です。わたしは,ふとしたきっかけから,西田幾多郎のいう「純粋経験」や「行為的直観」という概念が,「スポーツする身体」を考えていく上でとても役立つということに気づき,以後,『善の研究』からはじめて,かなり多くの西田幾多郎の本を読むことになりました。もちろん,西田幾多郎の哲学に関する解説本も,かなりの量,読むことになりました。その延長線上に,藤田正勝さんの本もあったというわけです。

 わたしの知るかぎりでは,西田幾多郎をこれほどわかりやすく語ってくれた人は藤田正勝さんを措いてないと思っています。その藤田さんが『哲学のヒント』という哲学一般の入門書を書いてくれたわけです。ですから,わたしにはことのほかよくわかったのかも知れません。しかし,「スポーツする身体」とはいかなるものか,ということを幾分なりとも考えてきた人であれば,この本は間違いなく大きな衝撃を与えることになる,とわたしは考えています。

 なかでも,終わりの方の第7章 美──芸術は何のために,と第8章 型──自然の美,作為の美,の2章は圧巻です。スポーツする身体がつねにくり返すことになる「自己を超えでる」経験は,芸術家たちのそれとまったく同じであることが,この本のなかで明確に論じられています。そして,第8章の「型」では,芸道(茶の湯,能,など)と武道とを同次元のこととして取り上げ,「型」のさきにあるものを,わかりやすく論じてくれています。そして,最後のところでは,やはり,西田幾多郎の「純粋経験」をもち出して,全体を総括してくれます。

 さいごの「あとがき」で著者はつぎのように述べています。
 
 大学に入ってすぐであったと記憶していますが,手に取ったいろいろな書物のなかに田辺元の『哲学入門──哲学の根本問題』(筑摩書房,1949年)がありました。内容をすぐに理解することはできませんでしたが,そこでたいへん印象深い言葉に出会いました。「哲学は自分が汗水垂らして血涙を流して常に自分を捨てては新しくなり,新しくするというところに成立つのです」というものです。この言葉は,文学や歴史などさまざまな進路の可能性を考えていた私に,一つの方向を指し示してくれました。

 この田辺元のことばをそっくりそのまま借用して,わたしは,つぎのように書いてみたいと思います。

 スポーツ経験の源泉は自分が汗水垂らして血涙を流して常に自分を捨てては新しくなり,新しくするというところに成り立つのです,と。

 道を極めようとする武道家もトップ・アスリートもみんな哲学者なのだ,と。それは,坐禅を組む禅僧も同じです。道元は「只管打坐」(しかんたざ)といいました。「ただ,ひたすら坐禅をしなさい」と。
そして,死ぬまで坐禅に励みました。西田幾多郎もそういう人でした。ひたすら「からだ」をとおして思考を深める,これが「生きた哲学」である,と考えたようです。

 最後に,わたしの結論。
 スポーツは,すぐれて,哲学的経験の一つなのです。
 このことを強調しておきたいと思います。

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