2011年11月9日水曜日

追悼・鳴戸親方(元横綱隆の里)。糖尿病との闘い,よく頑張った。

鳴戸親方(元横綱隆の里)が急死した。急性呼吸不全。59歳。

世間では,早すぎる死を悼む声が多い。しかし,わたしはそうは思わない。力士時代から苦しめられつづけた糖尿病との長い長い闘いに打ち勝ち,よくぞ,ここまで頑張って生き延びてこられたものだと思っている。その意志の強さ,信念の人,高谷俊英(たかや・としひで:本名)その人に,こころからの敬意を表したい。そして,安らかに眠ってください,と祈りたい。長い,長い糖尿病との闘いの生活から解放されて,浄土でゆっくり休んでください,と。

別名「おしん横綱」。「ポパイ」。元横綱千代の富士の「天敵」。「経済学博士」。「糖尿病博士」。「画伯」。どれだけたくさんの冠をつけられて「隆の里」は愛されていたことだろう。

現役時代の力士・隆の里は,糖尿病が治まると好成績を収めて番付を一気に上げてくるが,ひとたび,病いに襲われると,またまた,番付を駆け落ちていく。そんなことを長い間,くり返した。だから,「エレベーター力士」とも言われた。糖尿病さえなんとか克服できれば,とかれは必死だった。だから,かれにとっては,糖尿病の治療薬・インスリンという注射はなくてはならない必需品であった。医者の指導のもとに,薬と注射器を持ち歩き,自分で体調とにらめっこしながら,注射を打ちつづけてきた。

そのため,かれは,医学書を読み漁ったという。そして,自分の病気がなにが原因で,どういう理由で,どういう構造で発症したり,治まったりするのかを徹底的に勉強し,担当の医者に,ほとんど玄人はだしの質問をぶっつけたという。力士生命をかけた勉強なのだ。ただの読書とはまったくレベルが違う。人間,必死になると,ふだんとはまるで違う,驚くべき能力を発揮する。こうして,隆の里は「糖尿病博士」となった。食事療法にも熱心に取組み,栄養学にも通暁していた,という。まさに,努力の人だったのである。

68年に名古屋場所で初土俵。何年も番付を上下しながら,少しずつ地位を上げ,83年名古屋場所後に第59代横綱に昇進。じつに,15年の歳月を要して,最高位にだどりついた。病気との闘いに耐えて,よくぞ横綱になったという意味をこめて「おしん横綱」とも呼ばれた。鍛えぬかれた,筋肉もりもりのからだを揺さぶりながら土俵の上を歩く姿から「ポパイ」の愛称ももらった。

わたしは隆の里の力相撲が好きだった。しかし,千代の富士の速攻はもっと好きだった。だから,この二人が千秋楽で対戦するときは,呼吸が止まったままだった。結着がつくまで,わたしは呼吸をすることができなかったのだ。それほどまでに忘我没入,夢中になってテレビに食らいついていた。しかし,千代の富士は,隆の里に負けることの方が多かった。結果的には,16勝12敗で,隆の里が勝ち越した。千代の富士はよほど悔しかったのだろう。負けるたびに,隆の里のことを「天敵」と呼んだ。

隆の里が右四つに組止めるか,千代の富士が左前みつをひいて右をはずにあてがうことができるか,ここが勝負の分かれ目だった。しかし,隆の里は,しばしば千代の富士の左前みつ狙いを内側からはねのけるようにして,得意の右を差し,がっぷり右四つに組み止めた。これで勝負ありだ。しかし,そうはさせじと千代の富士もまた意地をみせ,一歩踏み込んで,素早く左前みつを引いて一気に寄ってでた。

隆の里は,相撲人生に不満はないが,じつは,大学に進学したかった,と引退後に述懐している。読書好きで,手当たり次第に本を読んだという。そのうちに,経済学に興味をもち,膨大な経済学に関する専門書を買い集め,せっせと勉強していたという。経済学部を卒業したという駆け出しの新聞記者に出会うと,経済学についての教えを乞うたという。しかし,みんな隆の里の知識の量に圧倒された,という話も有名である。仲良くなった記者は,隆の里の部屋まで連れていかれ,その蔵書をみて唖然とした,という。

糖尿病という病魔と闘いながら,まじめに人生を考え,相撲しか知らない「相撲バカ」になることを恥じた。だから,時間を惜しむようにして,さまざまな分野の本を読んだ。そして,とにかく人間として生きる道を求めた。わたしは,このことを知って涙したことがある。さらには,絵画の才能にもめぐまれ,しばしば絵筆もとった。なかなか風情のある横綱だったのである。土俵上で,ときおり,ちらりとみせる,どこか恥じらいにも似た挙措が,わたしのこころをとりこにした。ポパイのような筋肉もりもりの肉体とは裏腹に,とても繊細なものを感じたからだ。

元横綱・初代若乃花の二子山親方に見出され,のちの横綱となる二代目若乃花(大関までは若三杉・現間垣親方)と一緒に青森から夜行列車に乗って上京し,二子山部屋に入門。そこで,「土俵の鬼」と呼ばれた二子山親方から徹底的に鍛えられた。疲労困憊して,気力が萎えてくると,ただちに竹刀で叩かれるのが日常茶飯事であった。その猛稽古に耐えて,二人は横綱になった。若三杉が,比較的順調に出世したのにくらべ,隆の里は糖尿病のためにつねに遅れをとった。しかし,辛抱を重ね,ひたすら努力した。横綱になるのも5年遅れた。

この二人の横綱は,二子山親方をこころの底から尊敬していた。だから,弟子の養成にも,二子山親方の方法をそのまま継承した。しかし,時代は,もはや,そのような猛稽古を「暴力」としか受け止めなくなっていた。メディアもまた,しっかりとした取材もしないで,逃げ出した弟子の言い分をそのまま丸飲みして,報道する。世間では,相撲部屋は「暴力」の巣窟であるかのように誤解して受け止める。そうではないのだ,ということを強調しておきたい。

「土俵の鬼」と言われた初代若乃花(二子山親方)ですら,幕内上位にあがってからもなお,花籠親方の稽古が厳しくて,何回も夜逃げをしている。当時,大関だった力道山とも一緒に夜逃げした話は有名だ。それでも,最終的には,花籠親方をこころの底から尊敬していた。間垣親方も,鳴戸親方も,二子山親方を「おやじ」と呼んで,おやじの思い出話をするのが大好きだったという。その話の一端を,白鵬は聞いている。「あのつづきの話が聞きたかった」と通夜の日の談話のなかにあるとおりである。

鳴戸親方の,最近の写真をみると,現役時代よりも太っている。むしろ,むくみがきていて,人相もまるで別人のようにみえる。わたしは,インターネットをとおして,何種類かの顔写真を見比べてみた。どうみても限界一杯いっぱいの顔にみえる。インスリン注射を打ちつづけてきて,もはや,ぎりぎりのところにきていたに違いない。本人は,間違いなく自覚していたはずだ。だから,前日まで,土俵場の稽古に立ち合って,稀勢の里の指導にあたっている。なんとしても,大関にしてやろうという,最後の執念さえ感じ取れる。

だから,大往生なのだ。こういう死に方がある,というお手本のようなものだ。立派なものだ。わたしは,ここでも,こころからの敬意を表したい。

稽古が辛くて逃げ出した弟子に告ぐ。一刻も早く,「わたしが受けたのは『暴力』ではなくて,親方の『愛のむち』だった」と気づいてほしい。そうでないと鳴戸親方の霊も浮かばれない。

もっとも,鳴戸親方は,にっこり笑って,「もう,いいんだよ」と言うかもしれない。古き,良き時代のお相撲さんが,一人ずつ消えていく。大相撲の世界は,いま,大きく様変わりしつつある。そして,その根幹の部分が腐りつつある。たんなる「暴力」と「愛のむち」との区別も理解できない弟子たちと,そして,同世代のジャーナリストたちによって。そこに,「世間」が便乗することによって。

こんご,二度と「おしん横綱」と呼ばれるような力士が誕生することはないだろう。なにか,そこはかとない寂寥感がわたしのこころを襲う。

鳴戸親方。長い間,ご苦労さまでした。あなたの人生そのものが,どれほど充実した時間の連続であったことか,わたしは固く信じて疑いません。どうか,心置きなく,安らかにお休みください。合掌。

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