2010年7月16日金曜日

竹内敏晴さんとマルチン・ブーバーと禅の思想の関係について(その3.)

 昨日のつづきから。「ICH UND DU」と「ICH UND ES」の「DU」と「ES」にこだわる理由から入ることにしよう。
 上田閑照は『十牛図』のなかでは「我」と「汝」と「それ」という訳語を当てて説明をしている。一方,マルチン・ブーバーの『我と汝・対話』(岩波文庫)の訳者・植田重雄は「われ」と「なんじ」と「それ」という訳語を本文では用いている。書名では『我と汝』とした上で,本文では「われ」と「なんじ」とひらがな書きにしている。その断り書きはどこにも見当たらない。しかし,相当に考えての選択には違いないだろう。
 たとえば,ドイツ語の「わたし」に相当することばは「ICH」ひとつだけである。しかし,日本語の「わたし」に相当することばはいくつもある。同じように,第二人称はドイツ語では「DU」と「SIE」の二つだけであるのに対して,日本語ではいくとおりもある。したがって,「ICH」を「我」と訳すと,それに対応する「DU」は「汝」しかない。「ICH」を「おれ」と訳せば,「DU」は「おまえ」になるだろうし,同じように「ぼく」と訳せば「君」,「わし」と訳せば「あんた」,「拙者」と訳せば「おぬし」・・・という具合に対応することになるのだろう。しかし,植田重雄は「我」(「われ」)と「汝」(「なんじ」)を選んだのである。しかも,この対応は男ことばである。
 この本の初訳が1979年である。この時代の「我と汝」ですら,なんとなくわたしたちの言語感覚からすれば,相当に時代がかった印象があった。ましてや,こんにちの時代にあっては「我と汝」の関係性は,ごく例外的な,特殊な関係以外にはありえない。今風に訳すとすれば,「ぼくと君」(男)か「わたしとあなた」(両方),あるいは「うちとあんた」(女)か「おれとおまえ」(男)になるのだろう。ことほどさように「ICH UND DU」の訳語はやっかいなのである。
 さらに,ドイツ語の「DU」には,日本語では考えられない意味内容が賦与されている。たとえば,「神」への呼びかけは「DU」である。つまり,キリスト教文化圏にあっては,「わたし」と「神」の関係は「ICH UND DU」の「契約関係」にある。つまり,「向き合う」関係,しかも,相互的で双方向的で,主体的に真っ正面からの出会い,の最終的なゴールは「わたしと神」なのである。だから,「私に対して直接に自らを向けてくる相手が与えられる」のは,文字どおり「恩寵」以外のなにものでもない。しかも,これこそが「本質的行為」ということになる。
 このことは,マルチン・ブーバーの『我と汝・対話』(植田重雄訳,岩波文庫)を読んでいくとわかる。「なんじ」の最終ゴールは「永遠のなんじ」である。「永遠のなんじ」とは「神」のことである。すなわち,キリスト教文化圏にあっては,「永遠のなんじ」である「神」が,「ICH」にとってはもっとも重要な「DU」であり,もっとも身近な「DU」なのである。このことを,まずは,念頭に置いておくことが肝要である。(禅にあっては,「永遠のなんじ」は「絶対無」に対応する。この話を明日の月例会でできるといいのだが・・・)
 そろそろ整理しておこう。ブーバーが「ICH UND DU」と言ったときの「DU」は,「ICH」と真っ正面から向き合う関係の「DU」,それは,すぐとなりにいる「隣人」(「愛する人」)から「永遠のなんじ」(「神」)までの「間」に存在するすべてのもの,が含まれる。それは,自然現象であってもいい。野に咲く草花であってもいい。「ICH」と真っ正面から向き合い,「じか」に触れ合うような関係が成立するものであれば,なんでもいい。「山路きてなにやらゆかしすみれ草」「牡丹散って打ち重なりぬ二三片」。一瞬の「じか」に触れる交信が可能な関係。これが,ブーバーのいう「ICH UND DU」の関係であり,「DU」のひろがりである。
 つぎに,「ICH UND ES」の「ES」である。この「ES」については,ブーバーのテクストの「第一部」に,いまのわたしにとっては強烈な説明が登場する。そのほんの部分を紹介しておこう。
 ブーバーのことばを借りれば,未開の原始人に関する文化人類学の研究成果をみると,「ES」の問題が理解しやすいという。たとえば,こうだ。原始人は,自分の身のまわりの小さな環境世界のなかにどっぷりと浸りこんで,生活している。生まれたときから,ものごころがついたときから,いつも同じ環境世界のなかで生きている。したがって,原始人には「ICH」は存在しない,という。「ICH」と環境世界とはひとつになっていて,両者の間に差異はない。しかし,その慣れ親しんだ環境世界になにか異変が起きたとする。たとえば,大雨が降って,山から土石流が流れてきたとしよう。それまでのジャングルの風景が一変する。新たに風景のなかに加わった無数の石ころが,異様なものにみえる。なんだろうとおもってさわってみる。他者の到来である。すなわち,原始人にとってのオブジェの出現である。この不思議なオブジェとなった石ころをいじっているうちに,これが道具として役に立つということを,なにかの拍子に知った原始人がいたとしよう。固い木の実を叩いて割ったり,すりつぶしたり,なにかの重しにしたり・・・と。こうなると立派な「事物」の誕生である。この「事物」がブーバーのいう「ES」である。
 このあたりのことを読みながら,わたしはバタイユの『宗教の理論』の冒頭の部分を思い出していた。若干,論理の展開の仕方は違うものの,ヒトから人間に移行するときのオブジェや事物のイメージはほとんど同じである。
 つづいて,ブーバーのテクスト(第一部)に登場する,幼児の成長過程の話がわたしにはとても説得力があった。胎内にいる赤ん坊は,胎内という環境世界のなかで,つまり,内在性のなかで生きている。誕生と同時に,外気に触れる。赤ん坊にとっては最初の「DU」の登場。そして,母胎とは異なるまったく新たな環境世界と真っ正面から「向き合う」ことになる。はいはいをし,立ち上がり,歩くようになり,やがて,ことばをしゃべりだす。こうして,初めての体験がつぎつぎに起こる。そのつど,幼児は真剣に「DU」と「向き合い」,なんらかの交信をしながら,いくつものハードルをクリアしていく。そうした過程をとおして,幼児にとって「DU」であったものが,つぎつぎに「ES」に転化していく。つまり,真剣に「向き合う」必要がなくなってしまったものたちは,いつのまにか「事物」と化し,役に立つか立たないかという有用性の原理のもとに分類・整理されていく。その「事物」が「ES」だというのである。
 じつは,このテーマも延々とつづくのであるが,このあたりにしておこう。あとは,テクストで補っておいていただきたい。
 以上が,ブーバーのいう「ICH UND DU」と「ICH UND ES」に関する大雑把な,わたしなりの理解である。このブーバーの思想・哲学が,禅の思想とどのようにクロスしていくのか,このあたりのことは,明日の月例会でお話できれば・・・・とおもう。
 とりあえず,今日のところはここまで。

2 件のコメント:

QPちゃん さんのコメント...

ブログを拝見してマルチン・ブーバーの著作に興味を持ち「我と汝」を浅読いたしました。あとがきにある、われとなんじの関係を精神療法における患者と医師の関係に例えた場面が象徴的でした。また、永遠の汝である神と自己との関係の認識、それは同行二人と似通った印象をもちました。

925 さんのコメント...

ブログに触発されながら、マルティン・ブーバー『我と汝』を、読み始めました。非常に刺激的で面白く色々な発見がありますが、一方で理解に時間がかかります。とくに「それ」という概念は、日本語の「それ」とは少しニュアンスがずれているように感じ(日本語の「それ」は、主語として多用されない指示語なので)なかなかブーバーの意図を読めずにいました。ただ、ブログにあるように「事物」と読むとすれば、「それ」の意味が自分の中でクリアになったような気がします。
ブーバーの著作の中の『人間はに接してとなる』という部分を核として、さらに読み進めていきたいと思います。