つづきを書くと予告しておいて,さぼってしまった。というか,やんごとなき理由はあるのだが・・・。さて,今日は早速,具体的な話から入ることにしよう。
わたしのいう静坐の方法は少し変わっている。もちろん,我流だから,どんな方法でもかまわないのだが・・・。まず,両膝を肩幅ほどに開いて膝立ちの姿勢をとる。つぎに,両足の親指がかすかに触れる程度のところに位置づける。そうして,静かにゆっくりとお尻を降ろしていく。理由はない。あるとすれば,太ももの大腿筋がすでに筋萎縮をはじめているので,それを伸ばすときに痛みをともなうことがある。いや,ほぼ,間違いなくある。だから,ごく自然に,それを感じながら,恐るおそるお尻を降ろしていくことになる。そうして,踵と踵の間にお尻が割り込んでいき,ペタンと床につくところまで降ろす。そう,床の上での静坐。これが,我流の静坐である。
この位置を決めるまでが大変で,最初の膝立ちのときから,じつは,両手を床について上半身を支えている。だから,お尻を降ろすという動作は,両手で上半身を後ろに送り込む,というのが現実だ。そうして,お尻の位置がしっかりと決まったら,それから,やおら,上半身を起こしにかかる。このときから,本格的に大腿筋の痛みが襲ってくる。そして,両手を床から離して,上半身をまっすぐ垂直になるまで立ち上げていく。こんどは,例の左の膝と足首に痛みがくる。この痛みが比較的少ない「場所」を探す。それを探し当てたら,上半身を「鳩胸・出っ尻」を意識してまっすぐにする。頭のてっぺん(太極拳では「百会・ひゃくえ」という)をできるだけ高くするよう,ややあごを引き,目線を水平におく。これでできあがり。
でも,ほんとうは,ここからがとてもむつかしい。ちょっと文章で表現するのは不可能なほどに。たとえば,上半身の重心をどこに置くか。ほんのちょっと動くだけで,重心の位置が大きく動いたように感ずる。しかも,この位置によって,静坐の楽しさが変わってしまう。というか,左足の痛みと,それを克服したときの心地よさとの格闘というべきか。この位置は,毎日,変わる。それほどに,わたしの左足の状態というものは変化しつづけている,ということなのだろう。だから,いつも,左足に声をかけながら,今日はどんな具合でしょうか,とお伺いを立てる。すると,左足は素直に教えてくれる。これはまことに不思議である。最初のころは,さっぱりわけがわからないまま,手さぐりで,その位置を探していた。いまも,基本的には変わらないのだが,大分,要領がよくなってきて,左足が教えてくれる声のとおりに位置を探す。そうすると,その「場所」に到達する。
うまく「場所」に到達して,やれやれとおもいながら,しばらく静坐する。これも,日によって差があって,短い日は5分くらいで膝か足首のいずれかが悲鳴を上げる。もう勘弁してくれ,と。長くても20分くらいで,悲鳴が聞こえてくる。でも,最近,少しずつ長く坐れる日が増えてきている。からだが馴染むというか,左足が馴染んでくる。目標は1時間。これだけの時間,静坐ができて,痛みもなにもなければ,さぞや心地よいことであろう,と想像している。
ところがである。5分くらいで左足が悲鳴を上げて,さて,静坐を解こうとすると,これがまた大変なのである。そんな簡単には解けないのだ。まず,両手を前について,上半身を徐々に前に倒して,額が床につくところまで倒す。お尻がやや浮いてくる。その姿勢で数呼吸,息を吸って長く吐く,をくり返す。上半身がどんどん深く沈んでいくのがわかる。それと同時に全身の力が抜けていく。和式のご挨拶で,両手をついて,思いっきりからだを小さくしていくような感覚である。これだけ小さくなってご挨拶ができたら,これはこれですごいことだなぁ,と勝手に想像している。つまり,迫力満点。相手にこの姿勢をとられたら,わたしは「参った」と声に出して謝ってしまうだろう。
もう,これ以上には小さくなれないな,とおもったところで両手を前に送り出し,四つんばいの姿勢をとる。その姿勢で,自分の尻尾をふりかえって見るふりをする。若いころは尻尾が見えた。しかし,いまはもう遠いむかしの話。だから,ふりをする。でも,一応は,見てやろうと努力する。つまり,意のままにならぬわが身体と格闘するのである。そこが大事なところ。左右,数回ずつ。これもやり方によってはとても心地よい。心地よさはつねに苦痛の隣にある。だから,苦痛に耐えながら,心地よさを探すしか方法はないのである。
尻尾をみたら,伸びきっていた両足首を曲げて,爪先を床につけて,立ち上がる準備をする。四つんばいになっていた両手を少しずつ後ろに送り,上半身を起こしていく。すると,自然にしゃがんだ姿勢で両手をついているところまでくる。こんどは,両手をついて小さくなってしゃがんでいる姿勢を保ちながら,片足に体重を乗せて,もう片方の足を横に伸ばす。交互にこれを行う。これが,じつは,老人にとってはなかなか大変な運動なのだ。ここでも,狙いは「心地よさ」。苦痛を克服したのちの「心地よさ」。ここでも,わたしの気持ちとしては,格闘している気分。それも,「心地よさ」に到達するための格闘。
あとは,ゆっくりと立ち上がる。これで,わたしの静坐のプログラムは終了。
言ってしまえば,静坐は,わたしにとってはすべて格闘。
こうして,一日に一度は自分のからだと向き合うこと。そして,自分のからだの声に耳を傾けること。しかも,格闘しながら。すなわち,心地よさをわがものとするために。ほんの一瞬でも,ああ,心地よい,と感じられただけで,もう,その日の大仕事は終わった,と大満足。生きていてよかったなぁ,と素直におもう。
よろしかったら,お試しあれ。
1 件のコメント:
ダンスの発表会で、座禅をくむことを提案したら、却下されたことを思い出しただによぉ
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