2010年11月5日金曜日

「人間は死なない」と断言した人が死んでしまった。荒川修作のこと。

 生まれて初めて映画の試写会なるものに行ってきた。12月に公開される映画の試写会である。こうして映画の批評ができるとしたら,こんな嬉しいことはない。
 タイトルは「死なない子供,荒川修作」。このタイトルをみただけでピンとくる人も多いと思う。ことしの5月19日に,「死なない」と宣言した人が,残念ながら死んでしまった。もっとも,荒川修作のいう「死なない」という意味と,わたしたちが「死ぬ」と言っていることとは,まるで次元が違うのだが・・・。74歳。まだまだ若い。わたしより2歳年上だが,学年は一つ違い。出身は名古屋市。わたしは豊橋市。同じ愛知県人として,どこか親さを感じていた。戦前・戦中・戦後の動乱の時期を,同じようにして生きてきたから。ただ,それだけのこと。ただし,かれは生まれたときからの天才。こちらは亀さんのような鈍才。
 さて,この映画。どのように紹介しておこうか。
 ごく月並みに始めようか。
 キャッチ・コピーによると,つぎのようである。
 「人間は死なない」と断言した男と,”死なない家”に住んだ人々の希望のドキュメンタリー。
 出演:荒川修作(コーデノロジスト),佐治晴夫(宇宙物理学者),天命反転住宅の住人たち,ナレーターション:浅野忠信,音楽:渋谷慶一郎,監督:山岡信貴。
 天命反転住宅とは,三鷹天命反転住宅のこと。ちなみに,監督もじつは,そこの住人。だから,彼の二人の子どもさんたちも出演する。荒川修作につぐ主演級の貢献をしている。とくに,下の女の子は誕生の瞬間からの出演である。生まれながらにして女優である。へその緒を切るシーンでは,たぶん,監督の声だと思われるが「えーっ,固いものですねぇ,なかなか切れません」「そうなんですよ,命綱ですから,ちょっとやそっとでは切れないように丈夫にできています」とこれは女性の声(女医さんか)。こうして,この子は生まれながらにして三鷹の天命反転住宅で育つ。
 この天命反転住宅は,荒川のいう「死なないために」(このタイトルの詩文がある),かれの思想・哲学を総動員して制作した,世にも珍しい「実験的」な家である。家というよりは集合住宅である。3階建て。外見もでこぼこだらけで,あちこちが外に突き出ていて,しかも原色の赤や緑や青や白が塗られている。タクシーの運転手さんに行き先を告げると「ああ,あの変な建物のところですね」と応答する。なるほど,行ってみると,ちょっと変わった幼稚園かな,と思わせるような楽しげな建物が待っている。
 当然のことながら,部屋の内側は,まともにはできていない。「まとも」ではないとは,近代合理主義的な考え方に慣れきってしまったわたしたちの感覚とはまったくかけ離れた理念が,部屋のすみずみまで徹底してゆきとどいているからだ。この説明はことばでは困難きわまりない。荒川自身も,「ことばで説明したって,おれの言っていることなんか,君たちにわかるわけがない」「だから,こうして作品にしたのだ」「ここに住んで,体験してもらうことでしか,おれの言っていることはわからない」と言っているくらいだ。なるほど,そのとおりだとわたしも思う。千万言を用いたとしても,まるで雲をつかむような話になってしまう。だから,ここでも,部屋の内側のことは省略する。
 ただ,ひとことだけ付け加えておくとすれば,わたし自身は,この部屋の中を徘徊しながらさまざまな身体感覚を覚醒させられる体験をした。このことは,眠っていたわたしのからだの中の感覚が目覚めるような,まったく新しい発見であった。そういう経験は,たとえば,荒川修作の代表作といわれる養老天命反転地でも,奈義現代美術館(荒川作品「太陽」)でも,ひしひしと感じた。この感覚こそが荒川のいう「生命の躍動」であり,「生きる」ということの内実なのだ。そのことを,荒川は集約して「転ぶ」と表現した。
 人間は「転ぶ」瞬間に,わたしの身体はわたしの身体ではなくなってしまう。さて,この瞬間に人間の身体はどうなるのか。この瞬間にこそ,無意識の身体がとびだしてきて,世界を支配する。日常の意識的身体とはまったく次元の違う,新しい身体の発見である。ここを荒川は「生命」のよりどころとしたのである。人間は「死なない」と,声高らかに荒川が宣言したのは,この「生命」を取り戻して,そこに信をおいて生きること,そういう人間は「死なない」と言ったのである。ここでの「生命」を生きることは,わたしたちが日常的に生きている「生命」とはまるで次元が別だ。つまり,近代的理性の呪縛から解き放たれた「生命」をとりもどすこと,言ってしまえば,始原の人間の身体感覚を取り戻すこと,もっと言ってしまえば,限りなく「ヒト」に接近すること,さらに踏み込んでおけば,「内在性」を生きること,そこには,すでに,「生死」の境界は存在しない。そこまでいけば,人間は「死なない」,というわけだ。
 断っておくが,以上の見解は,あくまでもわたしの,きわめて個人的な荒川修作理解にすぎない。おそらく,荒川修作をどのように受け止めるか,というその流儀はいくとおりも存在するだろう。それほどにスケールの大きな問題提起を荒川はしているということだ。だから,荒川は言う。「君たちにおれの言っていることは理解不能だろう」「もし,理解したところで,おれの言っていることのほんの断片にすぎないだろう」と。
 この話は,このあたりで一区切りしておこう。
 この映画のなかでは,わたしには,この出産シーンがとても印象的だった。この「生まれる」があって初めて荒川のいう「死なない」が意味をもつ,と監督は言いたかったのではないか,と。つまり,人間が生まれる前の「生命」のことを考えることと,「死なない」ということとが対になっている,という発想が監督のどこかにあるのではないか,と。もう少し踏み込んでおけば,仏教の禅問答では,「父母が生まれる前のお前の生命はどこにあるか」という問い(禅の公案の一つ)がある。これには,こんにちの科学も哲学も答えることはできない。しかし,禅では答えがある。立派な答えが。同じように,死後の世界も,きちんと存在する。きちんと修行をした人は,たとえば,仏陀や菩薩のような人たちは輪廻転生の呪縛から解き放たれ,死後に浄土の世界に移り住み,遊戯三昧(ゆげざんまい)の永遠の命を生きる,と考えられている。わたしなどは,根が仏教徒なので,ごくごく自然にこのようなところに思考が流れていく。しかし,山岡監督が,どこまで,このことを意識していたかは不明である。が,とても興味を惹かれたところではある。
 少なくとも,荒川修作の「死なない」はこれとはまた別の次元の話である。とはいえ,必ずしも,そんなに遠く離れているとは,わたしには思われない。その謎を解く鍵は,「この地球上では死なないのではなく,死ねないのだ」という荒川のことばにある,とわたしは考えている。つまり,このことをどのように解釈するか,にかかっている。
 ここからさきのことは宿題にしておこう。なぜなら,荒川の言うには,科学者も哲学者も芸術家も,これまで,だれも「生命」ということをまじめには考えてこなかった,そんな科学や哲学や芸術は存在する意味がない,さっさと捨て去るべきだ,と。あるいは,そういう思考のパターンから抜け出すことこそが「死なない」ための第一歩だ,と。という具合で,彼独特の生命観がそのさきに広がっているので,そこを解きほぐすにはいささか字数が必要だ。というわけで,宿題に。
 ひとまず,今日はここまで。
 いずれにしても,この映画は12月に一般公開される。しかも,少し違った形式で。どこで,どのようにしてみることができるか,いまからアンテナを高くしておいてほしい。「身体」に関心をもつ人には「必見」の映画(ドキュメンタリー)である。いささか,難解ではあるが・・・・。
コメントを投稿