2009年カンヌ映画祭で話題をさらった問題作(あるいは,衝撃作)である。
原題は『ANTICHRIS♀』。スペリングの最後の「T」に相当するところに「♀」が当ててあるところに,この映画の鍵が隠されている。
つまり,うつ病と闘うひとりの女性の,剥き出しの「性」が,この映画のメイン・テーマとなっているのだ。もう少し踏み込んでおけば,恐怖とセックスと狂気と母性と激情と暴力と優しさと疑念と苦悩と悲嘆と殺戮,等々のさまざまな感情が,ちょっとした日常の夫婦の会話のなかから,一気に吹き出してくる女性のいかんともしがたい「病い」を描いている。この映画の場合には「うつ病」であるが,しかし,うつ病はすでに現代病の代表でもある。ごくふつうに暮らしている人(勤め人も自営業の人もその他の人も全部ひっくるめて,ありとあらゆる人)の間にも,かなりのパーセンテージでうつ病が浸透していると聞く。わたしの身近にもなんにんもうつ病の治療を受けながら勤務している人を知っている。ということは,この映画の提起している問題は,まさに,現代社会がかかえこんでしまった病根に関する普遍の問題でもあるということだ。だから,この映画の提起しているテーマは,現代社会を生きているわたしたちに対して深く,重くのしかかってくる。
わたしの第一印象は,前評判に違わぬ衝撃作,そのもの。映画が終わってもしばらくは身動きもできなかった。この試写会にきていた人のほとんどが,わたしと同じように,じっとしていた。参った,というのが正直な感想だろう。なぜなら,映画そのものは,なんの問題解決もしないまま,こんなことになってしまったんだよ・・・・というところで終わる。だから,このあとどうすればいいのかは,この映画をみた人すべての人に対して,まるごと投げ出されたままになっている。だから,映画が終わってもそんなに簡単には立ち上がれないのだ。みんな,それぞれのこころの持ちようや覚悟が決まらないのである。
ストーリーはきわめて単純。夫婦が夜の悦楽に熱中している間に(この描写がまたなんとも濃密そのもの),幼い息子が眼を覚まし,さまよい歩いているうちに開いていたマンションの窓から転落して,死んでしまう。夫は気丈に踏ん張って立ち直ろうとするが,妻はショックで倒れてしまう。妻はそのまま入院治療を受けるが,セラピストの夫は医師の施薬療法を拒否して,自分の手で治そうと決意し,妻を説得する。そして,その治療(セラピー)がはじまるのだが・・・・。しかし,夫であり妻である者が,セラピストと患者になるには無理がある。つまり,二人の距離が近すぎてしばしば公私混同を起こしてしまう。そして,それが原因で,この夫婦は思いもよらない偶然から悲劇の谷底に向かって転げ落ちていく。
この夫婦はお互いに愛し合っている(つもり)なのだが,その深い愛(のつもり)ゆえに,ほんのささいなできごとをきっかけにして,妻は夫に捨てられるという恐怖におののき,殺意をいだく。そして,それが実行に移される。一回目は夫は,それは病気のせいだと冷静に判断して克服するが,二回目に妻に襲われた瞬間に,こんどは夫が恐怖におののき,怯えのどん底で妻の首を締めて殺してしまう。
この映画をみるかぎり,愛し合う夫婦は,どうみても戦場の兵士の関係にみえてくる。ともに自分たちを守るために戦う同志でありながら,その同志の関係がくずれると,こんどは最愛の同志が敵になってしまう。そして,一気に殺戮に向かう。だから,お互いに,いつも,愛を確認し合っていないと不安で仕方がないのだ。この基本形は,とくに,アメリカ映画のホームドラマをみていても,いつも思うことだ。キリスト教文化圏では,それが当たり前のようになっているらしい。朝起きたら,「愛してるよ」と声をかけてキスをする。夜眠るときも「愛してるよ」と挨拶をしてキスをする。これをしないとお互いが不安になるのだ。相手がどう思っているか,いつも,お互いに確認しないと落ち着かない。気の毒な人たちではある。
「アンチクライスト」という映画の題名から,わたしが最初に想起したことは,ニーチェの『アンチ・キリスト』の考え方である。あの例の有名な「神は死んだ」にはじまるニーチェの論考が,まず,わたしの脳裏に浮かんだ。だから,ある意味ではキリスト教にまつわる定番の映画なのだろうと,いとも簡単に想定していた。しかし,そうではなかった(とわたしは思う)。
この映画から受けたわたしの印象は,キリスト教的倫理観の呪縛から解き放たれないかぎり,人間に救いはない,その意味での「アンチクライスト」なのだ,と。映画の中では,「自然は悪魔の教会だ」と妻に語らせている。だから,「エデンの森」(夫婦が名づけた自分たちの山小屋のある森)に恐怖を感じ,それに怯えながら,うつ病は進展していく。そして,ついには,夫に対する殺戮の感情が頭をもたげる。それも,うつ病の定番でもある。つまり,一時的に「わたし治ったわ」と妻は喜びの感情につつまれる。そして,森の中を嬉しさのあまりひとりで駆け回る。だが,セラピストの夫は,これがうつ病のきわめて危険な兆候であることを知っている。だから,素直に喜べない。こんなところから,夫婦の絆がにわかにぎくしゃくしはじめる。
「森=自然=悪魔の教会」というキリスト教的図式が,妻の頭のなかから離れない。おまけに,人間もまた「自然」の存在ではないか,と大問題に突き当たる。もはや,逃れようがなくなってしまう。ここを突き抜けないかぎり,人間は永遠に救われない,その意味で「アンチクライスト」なのだ,と監督は主張したいのではないか,とこれはわたしの類推である。
この映画がカンヌ映画祭で上映されたときには,感動の拍手と,不満のブーイングとが,同時に起こったという。そして,その後の議論も,賛否両論に真っ二つに割れたまま推移したという。
同時に,この映画のセックス・シーンもまた大きな話題になったという。おそらく日本では上映は無理だろうとも噂されたという。しかし,大胆といえば大胆そのものではあるが,映像はとても美しい。セックスの途中で夫婦喧嘩になり,裸のまま山小屋の外に飛び出して行って,草むらの上に仰向けからだを投げ出し,ひとりでオナニーを始めるシーンは感動的ですらある。こういうことを堂々と演ずることのできる女優さんは日本にはいないだろうと思う。
ちなみにこの女優さん,シャルロット・ゲンズブールはカンヌ映画祭の主演女優賞を受賞している。この10月には歌手として来日して,各地で公演しているので,知る人も多いと思う。ただ歌うだけではなく,キーボードを演奏し,ドラムも叩く,という。この女優さんは血統書つきのサラブレッドでもある。詳しくは割愛。
この映画は,来年2月に新宿武蔵野館,シアターN渋谷,などで上映されるという。そのときが来たら,もう一度,見にいこうと思う。そういう映画である。美しいシーンとそこに籠められた意味の深さを観賞するために。
ああ,今夜は眠れない。
女性は恐ろしい。自然をいっぱいもっていて,「悪魔の教会」まで持ち合わせている。その分,悩み苦しむことも多い。同時に,喜びも大きい(はずだ)。
それに引き換え,男は単純だ。自然が表出するのはほんの一瞬だけだ。だから,喜びも小さい。これは断言できる。みずからの感覚として。
・・・・・・・のではないか,とこの映画をみた,いま,思っている。
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