昨日は一日,荒川修作の本を積み上げて,その一つひとつとにらめっこしながら過ごした。にらめっこをした,というのは読んで理解することを放棄したということだ。
もう少し精確にいえば,読んでもほとんど理解不能だ,ということ。つまり,読むという行為は,少なくとも,近代的理性によりかかって,そのネットワークのどこかに絡め捕ろうとすることだ。ところが,荒川修作の著作は,そういう読者をことごとく拒絶する。もっと厳密にいえば,近代的理性の<外>にでて,可能なかぎりニュートラルな思考を要求する。こちらにその備えがないかぎり,荒川のメッセージはとどかない。だから,ひたすら「にらめっこ」をするしかないというわけだ。しかし,にらめっこにも効用はある。ことばを超えた世界に遊ぶことができるたら。まったくの空想の世界に遊ぶことができるから。
むしろ,荒川はそれを歓迎しているようにもみえる。
たとえば,『荒川修作 マドリン・ギンズ展 死なないために 養老天命反転地』。ほとんど,説明的な文章はなく,ただ,ひたすら「養老天命反転地」を制作するにいたる思考のプロセスがドローイングや模型や写真(建築現場のプロセス)をとおして明らかにされている。だから,必然的に「にらめっこ」をするだけになる。それでも,ときおり,なにかが「降りてくる」ことがある。これを荒川は「ランディング」(landing)と呼ぶ。そして,その「ランディング・サイト」(「降り立つ場」)を意図的・計画的に設計をし,制作し,「建築する身体」のあるべき姿を模索する。そんなことをぼんやり考えながら「にらめっこ」をする。つまり,近代的理性の枠組みの<外>にみずからの身もこころも放り出すようにして,可能なかぎり「ぼんやり」と。そうすると,意外や意外,つぎつぎに,なにかが「降り立って」くるのである。これはたまらない快感である。
同じようなカタログ集に『荒川修作の実験展──見る者がつくられる場』がある。ちなみち,この書名の文字は裏返しになっている。すなわち,「リバーシブル・サイト」(「反転地」)というわけだ。こちらも,同じように,ひたすら「にらめっこ」をする。ほとんど,理解不能である。しかし,荒川修作がなにかを制作するときの,そのプロセスのようなものは伝わってくる。しかし,その思考の中身はわからない,理解不能。たぶん,荒川の発想のひらめきだけがドローイングとなってとびだしてくる,のだろう。それらを黙って「にらめっこ」するだけである。
でも,不思議なことに,こんなことをしていると,あっという間に一日が暮れていく。時間が消えてしまうのである。いま,どこにいるのか,という空間すら消えてしまう。なにか,わけのわからない世界に誘導されながら,夢をみているような錯覚に陥る。ときおり,われに還る。わたしの中の内なる「自然」が,現実の世界に呼び戻してくれる(Nature call me)からだ。でも,また,すぐに荒川ワールドに飛び込んでいってしまう。快感が待っているから。
この他にも,活字だけでできた本もある。『建築する身体』(荒川修作+マドリン・ギンズ著,河本英夫訳,春秋社)である。こちらも,読もうとはしない。「にらめっこ」することに専念。なぜなら,ほとんどが理解不能の文字が並ぶ。禅問答を読んでいるような感覚になる。たぶん,近代的理性の<外>でのみ通用する「アラカワ」言語を習得したのちにのみ理解可能となるような,一種独特の荒川ワールドが展開する。それはまさに「天才」の世界なので,こちらの「鈍才」君には理解不能である。仕方がないので,ひたすら,「にらめっこ」と相成る次第。でも,「にらめっこ」にもそれなりの効用はある。ある,ワン・センテンスが天啓のように「降り立って」くることが起こる。それは,オーバーに言えば,脳細胞の表皮が一つずつ剥ぎ取られていくような感覚である。あるいは,脳細胞の間を風が吹き抜けていく,そんな感覚。それだけで,もう,大満足なのだ。ときには,わけもなく走り出したくなる衝動にかられることもある。
そういう衝動を引き起こした「荒川修作語録」とでもいうべきものを,最後に紹介しておこう。
〇人間は死なない。死ねないって言ってるのだよ。
〇地球上で初めて,この身体の使用の仕方によって,このオーガニズムの使用の仕方によって,人間が永遠に生きるってことを大発見した。
〇人間はいつか死んじゃうんだよ,なんて言ってるのは哲学者か教育者だ。
〇デュシャンはデュアリストだったから,お墓に書いてあるんだ。知ってる? ”いつも死ぬのは他者です”って。
〇感覚っていうのはそこらじゅうにいっぱいある。そのことを明確に証明したのがヘレン・ケラーだ。
〇空間とか時間っていうのはものすごいスピードで動いている。その中のホンの小さな物質がこの家って呼ばれているこの部屋だ。
〇徹底的に間違っているんだよ。人間の生き方は。
〇いまだに人間が戦争をしたり,人を殺したりするのはどうしてか知ってるか。何の楽しみも何の希望も無いからだ,この地球上に。
〇大体活字を使ったものは全部省略されている,あらゆるものが。何一つ入ってない。ばい菌も無い,血も無い,何にも無い,何にもないんだ。
〇僕にそっくりなやつが一人だけいた,歴史に。レオナルド・ダ・ヴィンチってやつだ。行き着いたところは彼も”体”だったんだ。
〇気配を構成しなおす。これはものすごく不思議なことだろう? 気配を構成しなおすって。何によって変えると思う。雰囲気によって変えるんだ。雰囲気は何によって変わると思う? 環境によって変わるんだ。そのすべては何によって変わると思う? 有機体によってかわるんだ。
以下,割愛。
さてはて,荒川修作はほんとうに「天才」なのか。それとも単なる「キチガイ」?
荒川の生涯の公私ともに伴侶となるマドリン・ギンズのことを,荒川はつぎのように言っている。
「彼女と初めて出会ったとき,彼女は狂っていた。でも,おれなら直せると思ったんだ。その後,彼女の父親もキチガイで,母親もキチガイだということがわかった。でも,彼女は一番狂っていたんだ。」と。
そのマドリン・ギンズを直そうと思っていたら,いつのまにか,こんなことになってしまった(生涯の伴侶に,という意味),と。しかし,わたしに言わせれば,もっとも狂っていたのは荒川さん,あなたではなかったのですか? それだから,あなたはほんとうの「天才」なんです,ということになる。
まともな人間はまともなことしかできない。
人がまねすることのできないことをやれる人間は,やはり,どこか狂っている。つまり,近代的理性の<外>にでている。問題は,そのことにどこまで自覚的であるかどうか,そこがポイントだ。でも,狂っている人間は自分だけが「まとも」であると確信していることも事実だ。
荒川修作は「僕が使うボキャブラリーは,何一つ君たちにはわからないだろう」という。荒川修作は,はたして,どこまで狂っていたのだろうか。これが,わたしの,これからのテーマだ。
1 件のコメント:
秀才は努力してなれるけど、天才は生まれもったものでしょう。キチガイとも紙一重なのも頷けます。まるで詩人の中原中也を思い出します。
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