2010年11月17日水曜日

観阿弥・世阿弥は時宗の阿弥衆だった。徳川家康の祖先も阿弥衆だった。その2.

 まず,「阿弥衆」を調べてみた。そこにはつぎのようなことがらが書かれている。少し長いが,精確を期すために全体を引用しておく。
 「中世から近世初頭にかけて,時宗教団に客寮衆(客寮とも)というのが従属していた。僧俗の中間的存在で,剃髪法衣の姿は僧に似て,妻子を養い諸芸に従事するところは俗である。時宗では男性は僧俗ともに<阿弥陀仏>の阿弥陀仏号を称し,省略して<何阿>(阿号)を用いる。これに対して客寮は<何阿弥>(阿弥号)と呼ばれた。僧は決して阿弥号を用いない。客寮は,南北朝時代に敗残者や世間のあぶれ者が教団の保護を求めたのにはじまる。衆僧の給仕や雑用を勤めた。また鉦(かね)を打ち和讃念仏を称(とな)えながら家々をまわり,信施を受けて世を渡った客寮が鉦打ち聖(ひじり)である。妻子を養うために農耕や商い・諸芸に従事するものもあった。彼等は時宗寺院の内あるいはその周辺に住み,藤沢の客寮,七条の客寮などと呼ばれ,身分的には僧尼同様に諸役・諸税が免除されたので,室町時代にはその数はかなり多かったと考えられる。京都の寺院所属の客寮衆の中には,将軍や大名に仕え同朋(どうぼう)衆となり,芸能の達者も現れた。茶の能阿弥,花道の台阿弥,作庭の善阿弥・相阿弥,能の観阿弥など,いわゆる阿弥号を称する人々は,時宗の僧と考えられているが,実は客寮衆もしくはその子や孫とみるべきであろう。」
 以上のように,能の観阿弥・世阿弥親子も,じつは,時宗教団に従属する客寮衆であったことが明らかとなる。つまり,その出自は南北朝時代の戦の敗残者や世間のあぶれ者であったというわけである。
 世阿弥の父親の観阿弥については,山田猿楽美濃大夫の養子の三男で,長兄が宝生大夫であるということまではわかっているが,さて,その「養子」がどういう人であったかは不明である。しかも,その養子の長子が宝生大夫であり,三男が観阿弥として活躍したことを考えれば,その父親の出自がわからないはずはない。しかし,それもわからないとなると,観阿弥の父親という人はどういう人であったのか,ということが大きな疑問となってくる。しかも,観阿弥は山田猿楽美濃大夫の一座からも離れ,大和猿楽結崎座に所属して活動をしている。なにゆえに,このような行動をとり,しかも,観阿弥を名乗ったのか。すなわち,時宗教団に身を寄せなくてはならなかった理由はなにか,ということである。
 いずれにしても,観阿弥を名乗ったということは,僧でもなく俗でもない中間の身分を生きる道を選んだということを意味している。あえて「世間のあぶれ者」の道を選んだ理由があるはずだ。さきに引用した『仏教辞典』の記述から類推できることは,以下のようなことだ。
 簡単に言ってしまえば,猿楽だけでは食っていけなかった。だから,時宗に身を寄せて,諸役や諸税を免除してもらい,その代わりに「衆僧の給仕や雑用を勤め」,必要とあらば「鉦を打ち和讃念仏を称えながら家々をまわり,信施を受けて世を渡」る道を選ぶしかなかったのではないのか。その傍ら,「農耕や商い・諸芸に従事するものもあった」という次第だ。だから,言ってしまえば,猿楽を支えた一座の集団は,僧でもない,俗でもない,いわゆる「世間のあぶれ者」によって構成されていた,という実態が浮上してくる。
 そういう集団の中から,観阿弥のような才能のある人物が現れ,猿楽から能楽への道が開かれていく。そして,さらには,世阿弥のような天才が登場することによって,時の将軍足利義満によって取り立てられ,同朋衆として庇護をうけることになる。
 だいぶ回り道をしてしまったが,これとまったく同じようなことが,徳川家康の家系にも影を落としている,という事実が今回のわたしのびっくり仰天の知見だった。そのことを,宮城谷昌光さんの『古城の風景・Ⅰ』(新潮文庫)が教えてくれたのである。
 そこで,もう一度,この『古城の風景・Ⅰ』の記述に立ち返って考えてみることにしよう。
 徳川家康の出自である松平氏の始祖は親氏(ちかうじ)。かれは徳阿弥と称し,父の有親(長阿弥)と一緒に三河にやってきて称名寺に身を寄せた。この親子,すなわち長阿弥と徳阿弥は連歌の達者で,子の徳阿弥は連歌によって運命を啓(ひら)くことになる。
 「父の没後,徳阿弥は矢作(やはぎ)川をさかのぼるかたちで松平郷にはいり,その村の小豪族というべき松平太郎左衛門尉信重(さえもんのじょうのぶしげ)が催した連歌の会をたまたま見物したところ,歌を書きとめる役になってもらいたいと懇望されてその役をつとめたことが縁となり,女婿(じょせい)となって松平家にはいったのである。」
 こうして徳阿弥は松平親氏として,松平一門の始祖となる。この家系の直系の子孫として徳川家康が誕生する。以後,松平家と連歌は切っても切れない関係がつづく。たとえば,つぎのような話を宮城谷昌光さんは紹介している。
 「称名寺は,連歌師の宗牧を迎えたことからわかるように,連歌興行がしばしばおこなわれた寺のようで,天文(てんぶん)十一年(1542年)に広忠に嫡子(ちゃくし)(注・家康のこと)が生まれたあと,広忠は称名寺の連歌の会に出席して歌を詠(よ)んだ。その歌は,広忠が夢のなかで得たものなので,
 『夢想の連歌』
 と,よばれることになる。その歌の脇句である,
   めくりはひろき園のちよ竹
 から,広忠の嫡子の幼名には,竹千代,がよい,と称名寺の住持である其阿(ごあ)が選定したとつたえられる。」
 家康の幼名である竹千代の名もまた連歌がとりもつ縁によっていることがわかる。宮城谷昌光さんは,さらに,つぎのように書き加えている。
 「重要なことは,親氏は連歌によって開運したということであり,以後,松平家は連歌に招福の力があると信じたにちがいないことである」,と。
 このようにして,徳川家康を輩出した松平氏の始祖親氏は連歌を得意とする阿弥衆であった,というわたしとしては刮目すべき事実を知ることになる。
 阿弥衆は,世間のはずれ者とか流れ者として蔑まれたりしているが,じつは,きわめて重要な芸能の伝播者であり,文化の担い手であったのだ。このことがわたしのいいたいことの第一点。氏素性は,いまの世の中でも,とかく話題となり,それなりの扱い方をされているが,そんなものはほとんどなんの意味もないということ,これが第二点。
 大事なのは,その人の持っている才能(才覚)と努力。その才能(才覚)をいかに見出し,つかまえ,伸ばしていくか,その持続力(努力)が意味をもつ。阿弥衆だから身分が低いとか,家元だから偉いとか,そんなことはどうでもいいことだ。あくまでも,持ち合わせた才能(才覚)をどこまで伸ばすことができるか,これが重要だとおもう。持ち合わせが少なければ少ないなりに伸ばす「努力」が大事だ,とわたしは考える。
 こんなことを,観阿弥・世阿弥(=観世流の始祖),長阿弥・徳阿弥(=徳川家康の始祖)の二組みの親子の存在をとおして,しみじみと考えた次第である。

0 件のコメント: