2010年11月9日火曜日

『<私>の存在の比類なさ』(永井均著,講談社学術文庫)を読む。

 本のタイトルと帯のコピーに惹きつけられて買った本。しかし,半分は満足,半分は失望。なぜなら,徹底した思考実験という名の,かったるい形而上学だったから。
 このところ,荒川修作や竹内敏晴といった実践と思考とを絶えずフィードバックさせながら,独自の思想・哲学を構築してきた人たちのものを読み,考えてきたせいか,永井均の本がかったるいのである。やはり,実践をともなわない純粋な形而上学は,いまのわたしにはかったるいのである。たぶん,そこには生身の身体が思考の対象とされることはないし,ましてや「生命」とか,「魂の躍動」や「情動」などは抜け落ちていってしまうからなのだろう。そこにいくと,荒川修作にはアートにしろ建築にしろ「作品」というごまかしようのない,動かしがたい具象がつねに随伴していたし,竹内敏晴には「レッスン」という生きものとつねに格闘しながら思考実験を重ねるという激しさがあった。しかし,永井均にはそれがない。メタ・フィジックスの世界を遊んでいればいいのである。同じ哲学者でも,西田幾多郎には「坐禅」という実践と哲学とが表裏一体となっていた。
 とはいえ永井均といえば,芥川賞作家の川上未映子が師事している哲学者だ。しかも,独在論の第一人者である。そんな多少の予備知識を前提にして,この本を手にした。冒頭の論文は,とても,わかりやすくて,なるほど,川上未映子がとびつくのも宣なるかな,と思った。しかし,中盤の論文は,途中で投げ出したくなるほど退屈な,こういう絵空事のような思考実験をすることが哲学なのか,と半分はあきれてしまった。そして,最後の論文はまた,とても説得力があって秀逸。
 がしかし,解説の茂木健一郎で,ふたたび失望。いつものワン・パターン解説。「クオリア」はもういい。ご遠慮願いたい。頼む方も頼む方だが,引き受ける方も引き受ける方だ。こういうことが平気でできるところにこの人の,どこか社会性の欠損部分を感じてしまう。なるほど,脱税問題に対するあの開き直りは,この人の地なのだ,ということがよくわかる。
 さて,本題に入ろう。たとえば,永井均のテーゼの一つはこうだ。
 「永井均は今と同じあり方で存在しながら,彼が私でなくなることは想像できる。このとき,彼には何の異変も起きていない。しかしもはや彼は私ではない。この私を<私>と表記しよう。」
 と永井均は書く。なるほど・・・となんとなくわかったような気にさせてくれる。しかし,よくよく考えてみると,この文章は変だ。私が私でなくなった私を<私>と表記するのは,一つの約束として,あるいは哲学上の仮説として理解はできる。その私は「わたし」と表記されても構わないはずだ。そのように概念規定をすればいいだけのこと。だから,永井は<私>という表記を選んだだけのことだ。しかし,なにゆえに<私>という表記を設定しなくてはならなかったのか,なにゆえに,私が<私>になってしまうのか,そこのところがわたしにはわからない。
 そこで,もう一度,さきほどの引用文をじっくりと検討してみよう。そのための仕掛けとして,永井均は・・・ではじまる主語を,いっそのこと,稲垣正浩は・・・の文章に置き換えてみよう。そうすると,もっと問題の所在が明確になってくるように思うから。で,みなさんは,同じようにしてご自分の名前を入れて考えてみてはどうだろう。すると,とたんにリアリティが増してくる。
 「稲垣正浩は今と同じあり方で存在しながら,彼が私でなくなることは想像できる。」
 残念ながら,わたしには「想像できない」のである。いったい,永井はどんな場面を想像しているのだろうか。「今と同じあり方で存在しながら」稲垣正浩が私でなくなる,とはどういうことを言っているのか。それと同時に,突然,「彼」と自分のことを呼ぶとき,そこになにが起きているのか。なにか特別のことが起きたが故に「彼」と呼びかけることができるようになったのではないのか。
 しかし,永井は「このとき,彼には何の異変も起きていない」という。わたし自身であるはずの稲垣正浩が,突然,「彼」になることの意味はなにか。ここでの突然のジャンプの意味がわたしにはわからない。「何の異変も起きていない」にもかかわらず,「もはや彼は私ではない」という。「今と同じあり方」で「何の異変も起きていない」状態で,「彼は私ではない」という。いったい,永井均は,具体的にどのようなイメージを抱いているのだろうか。
 わたしは,かつて,「わたしの身体がわたしの身体であってわたしの身体ではない」状態のことを問題にして考えたことがある。このことと問題の所在がかなり近接していると思うので,なおさら,永井の言っていることが気がかりとなる。
 永井は,私が私ではなくなる私を<私>と表記し,それを究極の他者と呼んだ。稲垣は,わたしの身体がわたしの身体でありながらもわたしの身体ではなくなっていく,その様態をとらえ,自他の問題を考えようとした。つまり,自己でありながら他者である,その自他の境界領域とはなにか,そして,ここに,じつは,スポーツする身体の究極の謎があるのではないか,と提示したのだ。残念ながら,あまり支持されなかったようだが・・・。
 このような背景があるので,わたしとしては,永井のこのテーゼは黙って見過ごすことはできないのである。そのことを念頭におきながら,もう一度,永井の第一論文を熟読することにしよう。なにか,新しい発見があるかもしれない。いや,必ずあるはずである。わたしが読み取れなかっただけの話に違いない。なんてったって,独在論の第一人者なのだから。永井均は。
 

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