2010年11月20日土曜日

三井悦子さんの書評『レッスンする人』が素晴らしい。

 書評するということは,じつは,とても恐ろしいことなのだ。なぜなら,書評をするこちら側がいやおうなく丸裸にされてしまう営みだから。そこに果敢に挑んだ三井さんに拍手を送りたい。
 毎週金曜日に発行される「週刊読書人」の最新号(11月19日号)に,三井悦子さんの書評『レッスンする人』語り下ろし自伝(竹内敏晴著,藤原書店)が掲載されている。「波乱万丈の前半生」「思想がいかにして形成されてきたか」という小見出しがついている。
 でまあ,内輪の話でもあるので,ざっくばらんに感じたことを書かせてもらおう。
 三井さんが化けた。それも,まことにみごとな大化けである。もうすぐ化けるよ,とわたしは予言者のように三井さんに声をかけてきた。じつは,もう少し早いだろうとおもっていたが,意外に時間がかかった。しかし,早めに器用に小化けして定着してしまうよりは,不器用に「わからへん」「わからへん」といいながらあちこち試行錯誤しながら悩み苦しんだ結果の「大化け」の方がずっといい。今回,この竹内敏晴さんの絶筆ともいうべき本の書評を書く,というどうしても避けてとおることのできない,しかも絶好のチャンスと真っ正面から向き合うことをとおして,三井さんは一気に化けた。
 わたしの勝手な推測では,三井さんの中で,すべての条件が整って,つまり満を持して,もうこれ以上は詰め込めないという飽和状態から,あるいは臨界状態に達したところから,一気にことばがあふれでるようにしてこの書評が書かれた,というようにみえる。しかも,竹内さんに対して一歩も引いてはいない。だから,ことばに無駄もないし,隙もな。しかも躍動している。リズムがいい。三井さんの,こころの奥底に長い時間をかけて醸成し,沈殿してきた,竹内敏晴に寄せる,ある種の錯綜した心情のときめきのようなものが伝わってくる。なにかがふっきれたのだろう,とおもう。
 もう少しだけ,内輪の話を書かせてもらおう。
 じつは,三井さんの今回の書評には前段がある。
 10月23日(土)の午後に開催された第45回「ISC・21」10月名古屋例会の折に,三井さんは下書きとなる書評をすでに書き上げていて,それを提示して参加者に意見を求めた。やや緊張感がただよっていたが,そのうちに,みんなでいろいろ智慧を出し合って,それぞれに意見を述べあうというとてもいい雰囲気になってきたので,わたしもいくつか意見というか,注文をつけた。それは以下のようなことであった,と記憶する。
 「竹内レッスン」を受講し,その内容を熟知している人びとにとっては,この書評(当日,配布された草稿)はとても読みごたえがあっていいかも知れない。しかし,それは,いわゆる<内部>に向けての書評であって,「週刊読書人」を愛読するような一般の読者向きではないようにおもう。できることなら,<内部>を熟知しつつ<外部>に開かれた書評を,わたしとしては期待したい。それは,言い方を変えれば,竹内さんの手の内にあって<内部>で書評をするのではなくて,その<外>にとびだして,ある程度,竹内敏晴という人・実践・思想とを客観視し,対象化することによって,真っ正面から竹内さんと向き合うことを意味する。三井さんには,ぜひとも,これを実践してほしい,と。そして,三井さんでなければ書けない書評をやってほしい,と。
 このとき,初めて「<じか>に触れる」という事態が起こる,とわたしは考える。このとき,初めて月並みな「書評」からとびだして,一対一のがちんこ勝負の「批評」に向うことが可能となる,と。しかも,これこそが竹内さんのいう「レッスン」だったのではないか,と。竹内さんは,どんなときにも高みからものを言うことはしなかった。いつも,水平目線で相手をしっかりと見据え,その相手と自己との間に起こる「<じか>に触れる」という事態を探し求めていたように,わたしは考える,と。しかも,そこに「実在」をみていたのではないか,と。
 だから,『レッスンする人』とは,教え・指導する人という意味ではなく,つねに,自分自身を可能なかぎり剥き出しにしつつ「<じか>に触れる」経験,つまり,「実在」の場を求める人のことを意味しているのではないだろうか,と。
 こんな,きわめて抽象的なことを言ったように記憶する。にもかかわらず,三井さんは,わたしの言説にもみごとに反応してくれ,わたしの予想をはるかに超える「跳躍」をしてくれた。それが,わたしのいう「大化け」である。別の言い方をすれば,三井さんは,竹内敏晴というある種の「呪縛」から解き放たれて,<外>から全体重をかけて,ぎりぎりのエッジに立って「批評」を展開することのできるスタンスを確保した,ということになろうか。
 こうなれば,あとは,いかなる批判も恐れることなく我が道を行くのみである。いよいよこれからの三井さんは楽しみである。水の中に水があるように,あるいは,空気の中に溶け込むように,わが身をあずけて(「無」にして),そこに映し出されてくる世界を楽しめばいい。
 「笑わざれば以て道をなすに足りず」の境地に立って。
 三井さん,おめでとう。
 これから,もっともっと,化けましょう。
 わたしも,三井さんに倣って,もっともっと化けてみたいとおもいます。

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