2010年11月15日月曜日

観阿弥・世阿弥は時宗の阿弥衆だった。徳川家康の祖先も阿弥衆だった。その1.

 こんにち能楽師と呼ばれる人たちは,わたしの感覚では,どこか特権階級化していて,特別の身分を保証されているかのようにみえる。しかし,その遠祖をたどると意外なところからでてきた人たちだ,ということを知って驚く。もちろん,これはわたしの不勉強のなせるわざであって,能楽に詳しい人たちにとっては常識であるのだろう。
 2年ほど前に,今福さんから「戸井田道三」という人の存在を教えてもらい(詳しくは,『IPHIGENEIA』<ISC・21>版,創刊号,2009年,鼎談「現代の能面」,P.7~49.を参照のこと),この人の本を買い集めて,かなり熱心に能楽のことについて勉強したつもりでいた。たとえば,『能芸論』などは,眼からうろこということばがぴったりするほど,新しい発見の連続であった。その中にも,能楽師の出自は,きわめて身分の低い人たち,というよりは寄る辺なき身分の流浪の民であった,というような意味のことが記述されていて,それだけはぼんやりと記憶していた。しかし,あまり厳密には,どういう出自の人たちであったのか,ということまでは記憶していなかった。
 それが,ひょんな拍子に,意外なところから「あー,そうだったのか」ということを知り,あわてて関係の辞典類で確認して,なるほど,と得心するにいたる,そんなことが最近あった。
 「48会」という会が年に1回開催され,その会に出席するために,先日(13日)に愛知県の岡崎市に行ってきた。この会は,いまから36年前に,わたしが愛知教育大学に赴任したときの,最初のゼミ生たちの集まりである。わたしも,まだ若く,36歳だった。だから,わたしも含めてゼミ生たちも,海のものとも山のものともわからない,まったくの未知数の世界にさまよっていたころの出会いが,お互いに強烈であったことは事実で,それが懐かしくて集まってくる。いまや,その大半は,小中学校の校長先生になっている。立派なものである。もちろん,管理職を忌避して,平教員の醍醐味を保持している人もいる。これまた,なかなか味があっていい。それぞれがまことに個性的にいまを生きている。こういう人たちに年に1回会うだけで,わたしは一年分の元気をもらうことができる。だから,毎年,楽しみにしている集まりである。
 で,そこに出席するために,新幹線の中で読もうと思って持ち込んだ本が,わたしの大好きな宮城谷昌光の書いたエッセイ集『古城の風景』Ⅰ.菅沼の城,奥平の城,松平の城(新潮文庫)である。三河出身の徳川家康ファンにとっては,この本は必読である。せっかく,岡崎市に行くのだから,もし,なにかの話題になったときに,そのあふれんばかりの教養(虚養?)を披瀝せん,と密かに仕込みを兼ねて,新幹線のなかで読みはじめた。こういうエッセイは,自分の好きなところから拾い読みをはじめるのが,わたしのやり方。そうしたら,P.291に「大給城」(おぎゅうじょう)という大見出しがある。こんな城は知らないなぁ,と思ってまずはそこから読みはじめる。知らなくても不思議ではない。碧南市にある,という。同じ三河地方でも,豊橋市に育ったわたしからすれば碧南市はほとんど盲点のようなところ。まるで馴染みがないのだ。だから,そこに眼が惹きつけられたのだろう。
 これがなんと神さまのお導きだったのだ。その中に「称名寺」というお寺の話がでてくる。
 「当寺の創建は1339年大浜政所を司(つかさど)る声阿(しょうあ)を開基とし,もとあった天台宗の寺を時宗に改めたとする」
 という寺でもらった「称名寺の文化財」というパンフレットの文章を紹介している。それにつづけて宮城谷さんはつぎのように解説をしていく。
 「1339年は南北朝期で,暦応(りゃくおう)2年(延元4年)である。声阿は,境内の案内板には,声阿弥陀仏(しょうあみだぶつ)とある。この寺の本尊は阿弥陀如来である。境内には,由緒(ゆいしょ)が書かれた石碑も建てられていて,そこには,松平氏の始祖である親氏(ちかうじ)(出身地は不明)が徳阿弥と称し,父の有親(ありちか)(長阿弥)とともに放浪して,三河にはいり,この称名寺にきて,有親はここで逝去(せいきょ)した,というように伝説が披展(ひてん)されている。」
 さて,この記述がわたしには大変な発見であった。そして,意外な発見であった。
 なぜなら,松平の始祖である親氏とは,徳川家康の祖先であるからだ。その親氏が,徳阿弥と称する阿弥衆であった,というのだから。
 宮城谷さんも調べたという『仏教辞典』(岩波書店)で,わたしも調べてみた。(つづく)。

1 件のコメント:

Unknown さんのコメント...

初めてコメントを投稿いたします。
観阿弥・世阿弥と聞くと、私の恩師のことを思い出します。「能楽」という呼び方は明治期以降のもので、それ以前は「申楽」と呼ばれており、その演者は身分が低かったこと。そうしたなか世阿弥は「申楽」を「神楽」に通ずる(ネ+申=神)ものだと主張し、神様に見せる神能を演じることで申楽の地位向上を図ったこと。都で流行した神能は次第に地方各所へ伝播していき、神や天皇家の権威を浮上させることに一役買った、などのことを講義で、うろ覚えながらも聞いたように思います。
今年その恩師が文化勲章を受章したこともあり、先生の能楽の話を読んで懐かしく思い出しました。