昨日の朝日の夕刊に,色川大吉さんの「自分史」が取り上げられている。そして,「自分史」とはなにか,ということについて色川さんがみごとな見解を提示している。それは,まさに,インスクリプションそのものだ。
『昭和へのレクイエム──自分史最終篇』(岩波書店)が完成し,「自分史」を提唱して35年の年月をかけて「昭和自分史」5部作を完結。この機会をとらえて,池田洋一郎記者がインタビューし,色川大吉さん(85歳)が答えている。
まず,その冒頭で,色川さんはつぎのように語っている。
「自分史は,一般の歴史書を書くよりはるかに疲れます。単なる回想記でも自分勝手なものでもだめ。自分自身を客体化し,同時代の動きや環境とセットにして書かなきゃいけない。詳細な日記を提示して事実だったと実証せねば。しかも,自分を取り巻いていた状況が,自己の内面に深く食い込んだ部分を核としないと本当の自分史にならない。歴史を自分の外にあるものとせず,心の内側に突き刺さり,そこでスパークしたものを書く。非常に緊張を強いられる。今後はこんな仕事はできません。」
ここを読んで,ただちに想起したことは,今福さんの提唱される「インスクリプション」である(詳しくは『近代スポーツのミッションは終わったか』平凡社刊,を参照のこと)。つまり,ディスクリプションではなく(「歴史を自分の外にあるものとせず」),インスクリプションでなくてはいけない(「心の内側に突き刺さり,そこでスパークしたものを書く」),ということだ。このことの意味を十分に理解しないまま,今福さんの主張を否定するのみならず,今福さんの主張に与する会員の研究発表を,寄ってたかって批難(批判でも,批評でもなく)するという事態が起きていると聞いている。だから,どうしても,色川さんのこのご意見には敏感に反応してしまう。そして,大きく勇気づけられる。
しかも,色川さんは,「そもそも『自分史』を提唱した理由は何ですか」という問いに対して,さらに,つぎのように語る。
「時代の構造や指導者像ばかりを追い,科学的で客観的な歴史学一点張りの硬直した学界に対する反発がありました。歴史をつくったのは少数のエリートではない。無名の多くの民衆の力でつくられてきた。民衆とは,それぞれ自分の人生を担っている人々の集合体。一人ひとりの人間にウエートを置いた歴史を書かねばならない。個性を重視し,歴史を物語る主体はその本人だということを明確にしようと,『自分史』を打ち出した。」
色川さんのご指摘の「硬直した学界」は,いまも健在で,しかも反動的ですらある。もう,どうしようもない,というのがわたしの感想である。だから,なにがなんでも,その体質の土手っ腹に風穴を開けないことには我慢ならない。そのためには,ひとりでも闘えるだけの確固たる理論武装をしなければならない。そのための仮説として,まずは『スポーツ史研究』(スポーツ史学会機関誌)に総説論文として,わたしの考えを提起した。しかし,残念なことになんの反応もない。学会誌なのだから,もっと自由に議論が起こっていいと思うのだが・・・。
その意味で,色川さんのお仕事は素晴らしいのひとことである。やはり,理論仮説などという甘いことを言っていてもだめで,その仮説にもとづいた具体的な記述をするしかないのだろう。ディスクリプションではなくてインスクリプションだ,などという空中戦をいくらやっても意味がない。色川さんは「自分史」を提唱してから35年かけて,みずからの「昭和自分史」5部作を完結させた。これしか方法はないのだろう。
さきの発言につづけて,色川さんは,さらに,つぎのように追い打ちをかける。
「もともと民衆一人ひとりは何を考えているのかというのが,私が昭和史を考える最大の問題点でした。私の10代は大戦争の真っ最中。私も含め国民の大部分が戦争万歳でした。決して一部の指導者が引きずったんじゃない。民衆が戦争を担い,焦土を招いた。なぜなのか。なぜあなたは,私は,あの無謀な戦争を疑わず支持したのか。一人ひとりの自分がそのとき何を考え,何をしたのかを問う学問が必要だと思いました。そこから歴史に対する反省と個人の責任が出てくる。それが自分史の出発点でもあります。」
このことばの重さを,わが身をふり返りつつ,しみじみと受け止めざるをえない。ヨーロッパ近代の構築した歴史学というアカデミズムの硬直化した体質を,どこかで突き破り,みずからの主張を展開することは容易ではない。しかし,それをやらないことには,悪しき慣習行動から抜け出すことはできない。そのためには,燃えたぎるようなLeidenschaft(情熱,激情)が不可欠である。85歳になった色川さんが「今後はこんな仕事はできません」というのも宣なるべしというべきか。わたしも残り時間は多くはない。いまこそ・・・・と気持ちばかりが焦る。
インスクリプション。inscriveする。「からだの中に書く」と今福さんはおっしゃる。「心の内側に突き刺さり,そこでスパークしたものを書く」と色川さんはおっしゃる。言っていることの内実は同じだ。さて,そこまで,みずからを追い込んだ「スポーツ史」なり,「スポーツ文化論」なりを記述することが,わたしには可能なのだろうか,と問い直す。ここから,まずは,はじめるしか方法はない。勇気をもって「第一歩」を踏み出すしかないのだ。
「百尺竿頭出一歩」。
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