2010年11月23日火曜日

藤永茂の『トーマス・クーン解体新書』について

 『アメリカ・インディアン悲史』という,おそらく藤永茂さんの最初の著作であろうとおもわれる名著に接して,わたしのアメリカという国家をみる眼が変わったことを,つい昨日のように思い出す。その藤永さんのブログ(「わたしの闇の奥」)は注目に値する,と教えてくれたのは西谷さんであった。以後,折にふれ,藤永さんのブログは覗いてみることにしている。
 そんな中で,つい最近,『トーマス・クーン解体新書』(仮題)という本の構想と,その「まえがき」が掲載された。つまり,本にする予定の原稿をそのままブログの中で公表しているのである。わたしは,二つの点で,驚いた。
 一つは,「トーマス・クーン」批判を真っ正面から展開しようというその志の高さである。
 もう一つは,出版予定の本の原稿を,そのままブログとして公表する,という姿勢の潔さである。
 前者については,2008年に,すでに英文で『Undoing the Structure of Science Revolution 』という草稿を書き上げていて,それをシカゴ大学出版部に送ったが,刊行してくれなかったので,さらに,内容を推敲して日本語で『トーマス・クーン解体新書』(仮題)として刊行しようと考え,その草稿を公表しようというのである。日本では,訳者の中山茂さん(『科学革命の構造』みすず書房)をはじめ,野家啓一さんなども加わって,トーマス・クーン礼賛がなされたことを,わたしのような人間でも記憶している。そして,これだけ話題になり,絶賛され,批判らしい批判を眼にすることもなかったので(ひとえに,わたしの管見にすぎないのかもしれない),まことに都合のいい自己弁護のための隠れ蓑として「トーマス・クーン」という名前を借用してきた。のみならず,「科学革命」ということばと一緒に「パラダイム・シフト」ということばも大いに利用させていただいた。
 しかし,藤永さんは,化学者としての立場に立ち,トーマス・クーンの著作を徹底的に読み込んで,その問題の所在に気づく。そして,学問的な議論を立ち上げて,トーマス・クーンの学説に対して,はっきりと決着をつけるべきだ,と主張される。このまま,なんとなく「トーマス・クーン」現象を見過ごしておくことは,科学的な学問の発展のためにも非生産的である,と。つまり,どこに間違いがあったのかを明確にしておくべきではないか,と。
 第二点は,草稿の公表の問題である。すでに,英文で書き上げてあるので,それを日本語としての精度を高めるだけだと言ってしまえば,それだけのことである。しかし,わたしが注目するのは,ブログという形式で,折角の草稿を惜しげもなく公表するという,その潔さである。もはや,そういう時代になったのか,というのがわたしの偽らざる印象である。つまり,インターネット時代の本の書き方の一つのひな型になるのではないか,と。
 これまで,学術論文や評論・エッセイもふくめ,学術的な新知見に類するものはひたすら秘匿され,きちんとした出版物として初めて公表される,というのが一般的であった。あるいは,ある特定の雑誌などに,少しずつ連載というかたちで公表するのが一般的であった。しかし,藤永さんは,一気に個人的なブログという形式で「トーマス・クーン批判」を,それも刊行を前提にして,公表してしまおうというのである。わたしは眼からうろこの落ちるおもいで,この藤永さんのブログに注目している。こんご,どのような展開になっていくのか,楽しみでもある。
 と同時に,わたしもまた,いま考えているとっておきのアイディアを,書名も決めて(仮題として),刊行する予定の草稿である,と高らかに宣言して書きつなぐ,ということを試みてみようかとおもう。つまり,著作権の問題がちらりと脳裏をかすめるわけだが,しかし,よく考えてみれば,ブログには書かれた日付が歴然として残る。ということは,さきに公表してしまった方が,アイディアの盗作予防には逆に役立つという次第である。と同時に,そのくらいに自分自身を追い込んでいかないと,原稿というものは書けないという裏事情が,これはわたしだけの事情かもしれないが,ある。
 藤永さんの,時代の先取り的なこのスタンスのとり方に,わたしは大いに啓発されるところがあった。さすがは『インディアン悲史』の著者だけのことはある,としみじみおもう。
 アメリカという国家が触れてほしくない最大の恥部を,蜂の一刺しのごとく,ピンポイントで言い当てた名著である。その著者は,いまも健在そのものであることを知って,わがごとのように嬉しい。こんごも藤永さんのブログには注目していきたい。

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