わたしの郷里である豊橋市(愛知県)に嵩山(すせ)町という地名があって,少林寺拳法で知られる中国の嵩山(すうざん)少林寺と同じだなぁ,と長い間,漠然とおもっていた。
嵩山(すせ)町は豊橋市のはずれの山裾にある。「嵩山の蛇穴」と呼ばれる鍾乳洞があって,小学校の遠足(小学校の運動場から蛇穴まで往復,全部,徒歩で歩いたほんとうの遠足)ででかけた記憶がある。蛇穴の中で大冒険をした記憶も甦ってくる。
この山一つ越えていけば隣の静岡県である。その県境にある峠を「本坂峠」と呼び,むかしは姫街道の抜け道であった。つまり,東海道を通ると,新居の関所があって,役所の発行する関所札をもたない非公式の旅をする人たちは通過できなかった。とりわけ,「入り鉄砲に出女」は徹底的に取り調べが行われたという。そのため,多くの女性たちがこの抜け道をとおったというので,姫街道という名が残っている。
高校生になると,友だちと連れ立って,正月の早朝に自転車を走らせ本坂峠を登って初日の出を拝みに行った。これは3年間,欠かさずでかけた。その往復のたびに,正宗寺(しょうじゅじ)という立派な構えの寺の山門の前を通過する。この正宗寺の住職が,わたしの通った高校の漢文の教師をしていた。名前は「金仙先生」。すこぶる変わった名前だったので,この先生の祖先は日本人ではないのではないか,という噂が流れていた。そこで,父に尋ねたことがある。父もまた僧職でありながら,同じ高校の教師をしていたから,なにか知っているだろうとおもったからだ。しかし,父は笑いながら「そういう風にいう人もいるが,まさか・・・」と受け付けなかった。
その後,わたしが愛知教育大学に赴任して,刈谷市に住むようになったころには,両親を誘って花見がてら車でよくこの正宗寺にでかけたものである。桜の名所でもあったから。そのたびに,なんと立派な構えの寺なんだろう,と感心したものである。いまでも,機会があれば行ってみたいとおもう寺である。こんな田舎の辺鄙なところに,どうしてこんなに立派なお寺があるのだろうか,と不思議で仕方がなかった。
が,その謎が解けたのである。つい最近,文庫化された宮城谷昌光の『古城の風景Ⅰ』─菅沼の城,奥平の城,松平の城─(新潮文庫)の中に,つぎのようなくだりがある。
「豊橋市の石巻(いしまき)山から東北にむかうと,すせ,とよばれている地区がある。すせ,はふつう州瀬という字をあてるはずでじくが,ここは嵩山と書かれる。
東に険峻(けんしゅん)な山〇(さんらん)があり,そこを通る本坂(ほんざか)とよばれる山径(いまはトンネルもある)をたどってゆくと,静岡県の三ヶ日(みっかび)町にはいる。私は豊橋市内にある高等学校に通っていたが,市内の名所旧蹟(きゅうせき)に昏(くら)く,三ヶ日町に居を転ずるまで,石巻山も嵩山も,みたことがなかった。」
宮城谷さんは,わたしの高校の後輩にあたり,当時は,蒲郡市から通学していた人である。そんな縁故もあって,いつしか,わたしは宮城谷さんのファンになった。最初に読んだのが,たしか『太公望』だったと記憶する。中国の歴史小説を得意とされるが,最近になって,郷土の歴史小説に新境地を開かれ,『風は山河より』(全6巻)や『新三河物語』(全4巻)など,徳川家康を中心とした戦国時代のものを書かれるようになり,わたしとしては眼が離せなくなった。
今回の『古城の風景』も同様である。すべて,三河地方の古城の話である。
前置きが長くなっているが,ここからが真打ちの登場である。
「鎌倉時代に南宋の禅僧である日顔(にちがん)が渡来して,なんとこの地にきたのである。足を停めた日顔は,
──ここは嵩山の少林寺に似ている。
と,おもったらしい。
それゆえ山を嵩山と名づけ,山中に庵室(あんしつ)を結んで三十年もとどまった。その間に正宗(しょうじゅう)寺が建立(こんりゅう)されたのであろう。日顔は嘉暦(かりゃく)二年(一三二七年)に示寂(じじゃく)したといわれる。その嘉暦二年という年は,鎌倉幕府が滅亡する六年前にあたる。室町時代の正宗寺は壮観であったにちがいない。なにしろ塔頭(たっちゅう)が十二坊あり,末寺が六十あるいは百余をかぞえたという。戦国時代には,近くの豪族である西郷(さいごう)氏の篤(あつ)い庇護(ひご)をうけ,以後,何度も火災に遭うも,そのつど再建され,現在の伽藍(がらん)は江戸時代の嘉永(かえい)年間に建てられたものである。」
これで,わたしの長い間の疑問はすべて瓦解した。納得である。
宮城谷さんの時代には,「金仙先生」はいらっしゃらなかったのか,あるいは,正宗寺の住職であるということをご存知ないのか,この話はでてこない。ちなみに,熊谷直実の子孫が三河にながれてきて,宇利城の城主となる話のところでは,「思い返してみれば,私が通った豊橋の高校の校長は熊谷先生であった。たぶん豊橋に熊谷さんはすくなくあるまい」とわざわざ述べているほどである。だから,もし,知っていたら書いたはずで,ひょっとしたら「金仙」という名字の由来まで調べてくれたかもしれない。
というようなわけで,達磨大師の嵩山少林寺と,愛知県豊橋市の嵩山正宗寺とは,深いふかい縁故に結ばれていたのである。ただ,残念なことは,日顔さんが嵩山少林寺で修行した禅僧ではなかったことだ。もし,そうであったら,日本の少林寺拳法の発祥の寺として,その名を残したに違いない。それにしても意外なつながりがあるものだ。
わたしの抱いた,ほんとうに素朴な疑問が,そのまま正解であったとは・・・・。
だから,歴史の謎解きはやめられない,という次第。
1 件のコメント:
長年、故郷の地名について感じておられた何かは、本当だったのですね。
しかし、地名っておもしろいですね。その土地の風土や特質を表していたり、歴史を物語っていたり・・・。今回の嵩山は単なる史実というよりは、古の「ひと」と地との出会いがそのまま地名となって残っていたのですね。
コメントを投稿