わたしの大好きな「エイミー」(Amy)こと山田詠美の短編集『タイニー・ストーリーズ』(文藝春秋)が刊行された。わたしは,ずっと,これまで身体論としてエイミーの小説を読んできた。そして,それはいまも間違ってはいなかったと確信している。
『ひざまづいて足をお舐め』が最初の出合いだっただけに,その衝撃は大きかった。つづいて,デヴュー作『ベッドタイムアイズ』を読むことになり,その新鮮な感覚に驚いたものだ。それ以後,書く度に話題作を生み出すエイミーちゃんから眼が離せなくなった。いまでも,この作家はどこまで化けていくのだろうか,と意識させられた作品『トラッシュ』(女流文学賞)が鮮明に印象に残っている。何回でも読み返したくなる小説の一つだ。そして,読むたびに新しい発見がある。10年に一度,読め,と言われる漱石の『我輩は猫である』のように,エイミーちゃんの傑作である。また,しばらくしたら読んでみたいとおもう。
この人はいったいどれだけの賞をもらったのだろうか,とおもうほどたくさんの賞をもらっている。数えてみたら,文藝賞を振り出しに,直木賞,平林たい子文学賞,女流文学賞,泉鏡花賞,読売文学賞,谷崎賞,とつづく。逃がしたのは,芥川賞だけで,その他の賞は総なめするのではないかとおもうほどだ。
断わっておくが,賞をたくさんもらうから偉い,というつもりは毛頭ない。わたしが注目するのは,山田詠美という作家は,自分の殻を壊しては構築し,また,壊しては構築する,という具合につねに「脱構築」しながら,新しい自分の可能性にチャレンジしていく,その姿勢にある。要するに「差異のある反復」をくり返していく。ご本人はそれが面白くてたまらないから小説を書くのだと嘯いている。だから,賞が向こうから勝手にやってくる,とも。でも,ご本人はそんなことはどうでもよくて,新しい自分の可能性を切り開きながら,絶えず,生まれ変わっていくことが面白くて仕方がないのだろう。いつだったか,「人間であることを捨てて,猫の目で身のまわりを見回してごらん,まったく新しい世界がみえてくるよ」と書いたことがある。「人間の理性なるものが,どれほど人間の目を曇らせてしまっているか,すぐにわかるよ」とも書いた。もちろん,ここでいう「理性」が近代合理主義にもとづくものであることは言うまでもない。だから,わたしの感性ともごく自然に波長が合う。エイミーちゃんが,まだまだ,これから,どんな化け方をするか,楽しみではある。
ちょうど,三井さんの書評が載った『週刊読書人』(11月19日号)の一面トップの特集が,「山田詠美氏ロングインタビュー」(聞き手=可能涼介氏)であった。「デビュー25周年,『タイニーストーリーズ』(文藝春秋)の刊行を機に」とあり,大見出しには「言葉が世界を変える」という文字が踊っている。一面と二面を全部埋めてしまう,文字どおりの「ロングインタビュー」である。聞き手のつっこみもよく,エイミーちゃんが心地よさそうに応答しているのがつたわってくる。こんな話を読んでいると,どうしてもこの新作を読まなくてはいられなくなってしまう。当然のことながら,エイミーちゃんは,この新作でも新たな短編小説の可能性への挑戦を試みているからだ。
で,早速,その本を手に入れて読みはじめた。もう,止まらない。すべての仕事をなげうって,夢中になって読んでいる。そこはかとない快感がやってくるからたまらない。至福のひとときである。締め切りのきている原稿があるというのに・・・・。近々,特別講義をやらなくてはならないというのに・・・・。学会も近づいているというのに・・・・。そんな「理性」はいまはいらない。荒川修作ではないが,そんなものにとらわれていたら「死んでしまう」。「死なないために」は「猫の目」になって周囲を見回し,のみならず,持ち合わせている五感のすべての感覚をフル回転させること,そこが「死なない場所」であり,そこに「実在」をみる。それが荒川修作の世界だ。あっ,いけない,いつのまにか,エイミーちゃんと修作ちゃんが合体してしまっている。
『タイニー・ストーリーズ』を読み進めていくと,「クリトリスにバターを」,というびっくり仰天するようなタイトルの短編が終わりの方にでてくる。エイミーちゃんはなんということを・・・と恐るおそる読みはじめる。なんと,さわやかな短編であることか。こころが洗われるおもいだ。読み終えると,なんという清潔さか,と二度目のびっくり。このタイトルは,村上龍のデビュー作『限りなく透明に近いブルー』の,初案のタイトルだったとか。それを村上龍から譲り受けて,自分の短編に仕立てあげたのだ,とわざわざ注がつけてある。
「GIと遊んだ話」というタイトルの5部作もまた,不思議な小説世界を展開している。男と女の話であり,どこにでもありそうな話でありながら,じつは,その影に「戦争」の問題が微妙にからみついている。ごく日常レベルの生活感情と「戦争」とが,抜き去りがたく絡み合っていることを,そこはかとなく気づかせてしまう,みごとな仕掛けになっている。それでいて爽快なのである。そこがエイミーちゃんの不思議な技だ。柔道でいえば,一本ほど強烈ではないが,エイミーの技あり,というところ。このほどほどさ加減がいい。
大上段に振りかぶって「戦争とはなにか」と問うことはやさしい。それに応答することもやさしい。しかし,一見したところ,戦争とはなんの関係もないとおもわれる,ごくごく日常性の中に,こっそりと戦争のロジックがひそんでいる。このことに,わたしたちはあまりにも無自覚ではなかろうか。戦争反対はだれも異存はない。しかし,日常性のなかにひそんでいる戦争支持につながる行為には,ほとんど無自覚になっている。しかし,この無自覚の集合体こそが戦争を合理化する母体になっていることを,エイミーちゃんは,「猫の眼」になって描き出す。明るみだけを追いかける近代的理性だけでは遠くおよばない,夜の暗闇を透視することのできる「猫の眼」を,「猫のまなざし」を取り戻せ,と絶叫しているようにも読み取れる。
なぜ,こんなことを書くのか。いわずとしれたスポーツのロジックと戦争のロジックとの近親性にもっともっと注意を払うべきではないか,とエイミーちゃんに言われているようにおもうからだ。わたしたちがスポーツ分野の世界を眺める「まなざし」は,「猫の眼」からはほど遠く,近代的理性のロジックの奴隷になりさがってしまっている,このことを強く意識させられるからだ。
わたしがエイミーちゃんの小説は「身体論」だと主張する根拠の一つがこれだ。
こんど時間がみつかったら,『快楽の動詞』(文春文庫)を読み返してみよう。「なぜ女は『いく』『死ぬ』なんて口走るのか?」「奔放きわまる文章で綴る深遠にして軽妙なクリティーク小説集」というキャッチ・コピーに素直にしたがって。なんたって,「クリティーク小説」なんだから。エイミーちゃんが骨身を削るようにして,これ以上うしろがないエッジに立って小説と格闘する,その姿にエネルギーをいただくために。
「クリトリスにバターを」のさわやかさを,もう一度。
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