2011年1月4日火曜日

サクセスフル・エイジング。からだはますます正直になる。

 「サクセスフル・エイジング」,わたしはこのことばが好きです。もとは,資生堂が生み出したコピーです。福原義春さんのセンスが反映しているかのようです。
 以前,中村多仁子さんとのご縁で,資生堂の企画する対談に出演したとき,このことばを知りました。正直に言って驚きました。「サクセスフル・エイジング」・・・・なんと響きのいいことばでしょう。これぞ,21世紀のコンセプトではないか,と感動しました。これでなくてはいけない。加齢とともにわたしたちのからだはますます正直になる・・・・これが最近のわたしの実感です。若いときには感じられなかったからだからのサインをみごとに感じ取ることができるようになってきたからです。これぞ,わたしのからだが感じるサクセスフル・エイジング。新たなる身体が開く可能性の拡大。これは加齢によって知ったからだの大きな喜びです。
 加齢は,もちろん,失うものも少なくありませんが,新たに獲得されるものもある,とこれはわたしの実感。このことをもっと世間に周知すべきだと考えています。とりわけ,老人の威力を知らないいまどきの若者たちに。IT革命以後,老人は邪魔者扱いにされることが多くなってきましたが,そうではない,と。老人にならないとわからないからだの不思議があることを。
 たとえば,風邪を引く前兆はかなり早くから感じられるようになりました。その段階で,わたしなりの処方箋をほどこすと,まずは大丈夫。それ以来,すでに,10年以上,風邪というものを引いたことがありません。その予兆はいろいろなサインとなってからだから送られてきます。むかし痛めた関節に違和感を感じたり,皮膚の一部がなにかいつもと違うと感じたり,眼が充血していたり,気力が低下したり,とその兆候はさまざまです。あっ,きたなっ!という直感がまず走ります。このときに,もし,気づかずにやり過ごしてしまったとしても,まだ大丈夫です。そのあとにはもう少し強く,腰の痛みや股関節の異常を感じたりします。あれっ,と思ってその前の予兆をチェックしてみると,かならず思い当たる節があります。ならば・・・ということで,藪井竹庵先生(自称)の処方をほどこすことになります。
 この他にも,いっぱい,あります。が,こんなことをずらずらと書き並べてみても仕方がありません。それよりも言いたいことがあります。そちらを優先させてください。
 それは「アンチ・エイジング」なることばです。どこぞのアスレチック・クラブのキャッチ・フレーズならまだしも,著名なお医者さんまでもが,「アンチ・エイジング」なることばを多用して,これに便乗し「若さを保つ秘訣」などを説いてまわっています。「アンチ・エイジング」,年齢に逆らったり,歳をとらないことにどういう意味や価値があるというのでしょう。こういう考え方こそが,ヨーロッパ近代の生み出した「合理主義」が行きついた必然だと,わたしは考えています。おそらく,近代合理主義の理想は「不死」ということなのでしょう。もしかりに,人間が「死なない」ことになったらどういうことになるか,考えてもみてください。あちこちに「不死」の人間がうろうろしはじめたら,恐ろしいことになります。「人間は死ぬから人間なのだ」「死ななくなったら,それはもう人間とは呼べない」と西谷さんは,合評会の折にも言っています。ちなみに,西谷さんには『不死のワンダーランド』という著書がありますので,詳しくはそちらも参照してみてください。
 人間はどんなことがあっても,必ず,加齢を重ね,やがて死ぬのです。生まれたときから死に向って一直線なのです。これは生物として,生身の生きものとして,避けられないことなのです。ですから,それに「逆らう」(アンチ)とはどういう意味や価値があるのか,とわたしは問いたいのです。いやいやながら(不承不承)加齢に向き合うよりは,喜んで加齢することと向き合い,上手に折り合いをつけていることの方が,わたしはずっといいと考えています。それこそが健全な生き方ではないかと考えています。「アンチ・エイジング」の考え方には「若さ」に対する不自然な,あるいは,アンバランスな願望が宿っているように,わたしには見えます。その意味で,とても,不健全な生き方ではないか,と思ってしまいます。
 やや,飛躍するように聞こえるかもしれませんが,「アンチ・ドーピング」という考え方も同じです。なにゆえに,トップ・アスリートは風邪を引いても,勝手に薬を飲んではいけないのか,わたしには理解不能です。ふつうの人はごく当たり前のように,自分で風邪薬を買ってきて飲んでいます。お医者さんに行けば,すぐに,注射をしたり,薬を処方してくれます。また,多くのお医者さんは,患者を薬づけにすることに,なんの抵抗も感じないどころか,それが現段階ではもっとも適切な治療方法だと考えていると聞きますし,現に,そういうお医者さんが多いのも周知の事実です。言ってしまえば,いまの世の中「ドーピング」は当たり前のことです(覚醒剤系の薬は別として)。ですから,わたしは,この「アンチ・ドーピング」ということばを聞くたびに,近代スポーツのめざした目標(「より速く,より高く,より強く」)実現ための必然的な結果として,近代科学のテクノロジーに支えられた「ドーピング」に頼ることを禁止することの,小学生にもわかる「論理矛盾」に気づかない「大人たち」にあきれかえっています。どんなことがあっても「アンチ・ドーピング」を徹底させなくてはならない,という「えせヒューマニスティック」な立場に立つ「大人たち」のふりかざす「理性」という名の「狂気」に,わたしは辟易としてしまいます。
 ここに隠されているロジックについては,いつかまた,詳しく論じてみたいと思います。が,いずれにしても,どこぞの国の「正義」をふりかざす姿勢と「アンチ・ドーピング」運動の主張とは瓜二つです。もちろん,「アンチ・エイジング」という考え方も同じです。それらは,みんな仲良しクラブのお友達同士です。そこにいくと,「サクセスフル・エイジング」という考え方が,なんと美しく,なんと輝かしく,周囲を圧倒して,燦然と輝いているではありませんか。
 加齢とともに正直になり,賢くなっていく,わたしのからだに誇りをもって生きていこう,とこころのそこからわたしは思っています。21世紀のスポーツ文化は,こういう「からだ」をこそ擁護する文化でなければ・・・としみじみ思います。
 あっ,いつのまにか「スポーツとはなにか」という根源的な問い直しと同じところにゆきついている・・・・・。やはり,いまのわたしの頭はなにを考えてもみんなそこにゆきついてしまうようだ。喜ぶべきか,悲しむべき性というべきか,それが問題だ。(シェイクスピア?)
 こんな,わたしの考え方について,みなさんはどんな風にお考えでしょうか。お聞かせいただけると幸せです。

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