2011年1月3日月曜日

「スポーツとはなにか」という根源的な問い直しについて。

 『IPHIGENEIA』の編集業務に,今日も必死で取り組んでいます。今日は,西谷さんの『理性の探求』の合評会のゲラのチェックです。主な作業は,自分の発言を直すことと,いい区切りのところに「小見出し」をつけていくことです。「小見出し」をつけることは,じつは,とても難しいことなのですが,あまり考えてしまうと作業が前に進まなくなってしまうので,あるところで踏ん切りをつけることにしています。内容がうまく読みきれたときには,自分でも気に入るような「小見出し」がつくのですが,そうでないときには惨めです。そうならないよう努力あるのみ。
 さて,この作業をとおして,しみじみ思うことは,西谷さんの『理性の探求』という本は,スポーツ史やスポーツ文化論での「理性」の問題をもっと深く探求せよ,とあの手この手で教えてくれている,ということです。コメンテーターをつとめてくれた松浪さんも,三井さんも,松本さんも,それぞれニュアンスは多少異なるものの,根っこの部分では,それぞれの専門的な研究の関心事に引き寄せて,それぞれの立場から「理性」とはなにか,と問い直してくれています。それぞれに真剣であり,しかも,いいポイントをついているので,西谷さんもおおいに触発されたかのように,のりにのって応答してくださっている。読んでいて心地よい。ですから,何回もくり返して読んでいると,そこからつぎつぎに新しい研究のためのヒントが浮かび上がってきます。そして,すぐにも,新しい研究プロジェクトを立ち上げて,うずうずしてきます。いまとりかかれば,時代を先取りするような斬新な共同研究がはじめられるのに・・・・と残念でなりません(いま,すぐにははじめられない理由があります。そのことを書きはじめるとまたまたたいへんなことになってしまうので,この問題はいずれまた,ということにしておきたいとおもいます)。
 このテクストには,随所に,考えるヒントが隠されています。たとえば,西谷さんは,合評会の最後の発言でつぎのように締めくくり,わたしたちを激励してくれています。
 「・・・・本当に『おかしい』と思ったことを『おかしい』と言う,そこから始めないと,もうまともな見方が通らなくなるようなサイクルが世の中にどんどん回っているという感じです。そしてその出発点になる『おかしい』という感覚は,ごくまともに,この体で生きているというようなところに根拠があるのだと思います。スポーツというのは,そのからだで,社会の成立ちにふれるようなパフォーマンスを展開しているわけで,そのことをまた,どう言語化し,意識化して,その働きを生かしてゆくのかというのは,人と社会との関係や,人の生き方などを考えるときに,とても重要なことだと思っています。前にも言いましたけれども,ともかくスポーツは深く総合的な営みなはずなんですね。だから,スポーツを本格的に論じることで,あまり見えていなかった社会のいろいろな局面が見えてくる,そういう領域だと思っています。そういうところに少しでもお役に立てればと思っているんですが・・・・。」
 この西谷さんの発言部分からだけでも,研究テーマを立てようと思えば,いくらでもテーマを立てることができます。しかも,プロジェクトを組んで,大型の研究が可能です。しかし,少なくともことしは無理なので,来年には立ち上げて,スタートを切りたいと考えているところです。で,このことはとりあえずおいておくとして,わたし個人としては『理性の探求』のあちこちから研究テーマのヒントをもらっていますので,それを一つずつこなしていこうかと考えている次第です。それらのうちで,もっとも大きなテーマで,しかも,早急にとりかかりたいテーマは以下のようなものです。
 それは「スポーツとはなにか」という根源的な問い直しです。それは,ある意味では,すでにスタートを切っていて,着々とその準備は進んでいます。たとえば,神戸市外国語大学での集中講義は,もっぱら,そのための助走として力をそそいできたつもりです。具体的には,マルセル・モースの『贈与論』をスポーツ史・スポーツ文化論的に読解すること(2010年前期),そして,ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』を同じようにスポーツ史・スポーツ文化論的に読解すること(2010年後期),がそれに相当します。そのかなりの部分は,このブログをとおして公開していますので(前期は9月,後記は12月),ご記憶の方も多いと思います。
 そして,これからわたしが展開しようとしている主張の主眼は以下のところにあります。
 これまでのスポーツ史もスポーツ文化論も,そのほとんどは近代スポーツ(あるいは,競技スポーツ)を前提にして,それがごく当たり前のようにして存在し,しかも,それを擁護する立場(たとえば,近代スポーツは人類が達成した誇るべき文化である,というような立場)から論じられてきました。そして,せいぜいのところ,過剰な競争原理の必然的な結果として生まれた勝利至上主義や,メディアもふくめて経済原則最優先のスポーツ政策に対する批判が,このところ増えてきているにすぎません。ですから,スポーツ文化全体を擁護する立場はゆるぎなく存在している,と言っていいでしょう。たとえば,「アンチ・ドーピング運動」のように。はたして,そんなことでいいのだろうか,というのがわたしの「おかしい」の原点にあるものです。
 そうではなくて,スポーツ文化そのもののなかに否応なく組み込まれている諸矛盾を明らかにすることこそが,いま,問われているのではないか。もっと踏み込んでおけば,わたしたちが日頃から慣れ親しんでいるスポーツ文化が,意識的にしろ,無意識的にしろ,結果的に抑圧・隠蔽している要素を明らかにすること。そのためには,いささか飛躍しますが,原初の人間の登場するところまで遡って考えることが不可欠だ,とわたしは考えています。つまり,ヒトが人間になるとき,すなわち,原初の理性が立ち上がるとき,このときいったいなにが起きたのか。ヒトが人間になるとはどういうことだったのか。そのとき,人間はなにを失い,なにを新たに獲得することになったのか。その失ったものの補填を原初の人間たちはどのようにしてクリアしようとしたのか。このことを突き止めてみたい,とわたしは大まじめに考えています。
 その仮説は以下のようです。
 それらは,供犠であり,ポトラッチであり,贈与であり,儀礼である。そして,それらが営まれた祝祭空間に注目する。原初のスポーツ的なるものも,このような祝祭空間から誕生した,というのがわたしの現段階での仮説です。だとしたら,供犠とはなにか。儀礼とはなにか。これまで論じられてきた理論仮説ではなく,新たな理論仮説が必要となってきます。そこで,わたしが援用しようと考えているのが,ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』であり,マルセル・モースの『贈与論』なのです。このようなテクストを取り込んで,スポーツの原初形態を考えようという人は,管見ながら,わたしはまだ知りません。しかし,このような視点に立てば,この他にも援用すべき文献は際限なくあります。
 で,まずは,わたしが考える理論仮説を明確にした上で,細部の詰めをしていこうというのが,いま,考えていることです。この作業を通過しないかぎり,近代スポーツの背後に抑圧され,隠蔽され,排除されている<亡霊>を明らかにすることはできないのではないか。わたしは,なんとしてでも,そこまで踏み込んでみたいのです。
 そのとき,おそらく,いまのわたしたちが考えている「スポーツとはなにか」という問いから導き出される答えとはまるで異なる,途方もない答えが立ち現れることになるだろう,とわたしは期待しています。だから,なんとしても,そこに分け入ってみたいのです。それは,もはや,やむにやまれぬわたしの(動物的な)衝動ですらあります。その衝動を引き起こす直接的な引き金となったテクストが西谷さんの『理性の探求』であった,という次第です。ほんとうに,恐るべき本との出合いであった,としみじみおもっています。
 はたしてどこまでできるかは未知数です。しかし,「へんだな」と気づいた以上は,その答えを探しにいくしか方法はありません。そういう意味では,ことしは正月早々から気合十分なのです。あとは,時間との闘い。じっくり腰を据えて,とことん追い込んでみたいと思います。
 いささか話は大きくなってしまいましたが,正月にみる夢だと思って,お許しください。そして,どのような経過をたどりながら,どのような結果にいたるか,どうかきびしい眼でチェックしていてくださることを期待しています。この夢を正夢にすべく,これからスタートを切りたいとおもいます。
 乞う,ご期待!(映画の予告編のように)


 

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