自分で書いたブログに書いた本人が引きづられている。「世外の徒」と「内面で生きよ」という二つのフレーズに分けて,ひたすら考えつづけている。「世外の徒」か・・・・。「内面で生きよ」・・・・か,と。そうしていると,「世外の徒」と「世内の徒」との境界はどこなのか,わからなくなってくる。わたし自身はいったいどっちなのか,という具合に。同時に,「内面で生きよ」ということばの意味もどんどん深いところに降りていく。わたしの思考パターンでいけば,いとも簡単に禅僧の姿が彷彿とするし,その延長線上に,西田幾多郎のような哲学者が浮かびあがってくる。
さてはて,高橋睦郎さんは,どこまでを射程距離において,この「世外の徒,内面で生きよ」と呼びかけたのであろうか。
ここは一般論を語るよりは,ひたすら,わたし自身の問題として受け止め,考えてみたい。
わたしは「世外の徒」なのか,それとも「世内の徒」なのか。本人の自覚としては「世外の徒」のつもりである。しかし,世間一般からいえば(とりわけ,身内の見方によれば),ごくごく平凡な「世内の徒」ということになる。じつは,このギャップの大きさに,わたし自身はしばしばとまどっている。だから,いつも,この落差を埋め合わせるようにして日常生活を営むことになる。結構,苦痛をともなうことがある。だから,ここ鷺沼の事務所に「引き籠もる」ということになる。ここは,まことに居心地がいい。ここで,なにをしているのか。ひたすら「世外の徒」に没頭しているのである。つまり,「内面で生きる」を実践している。
どんなかたちにしろ,原稿を書き,それが活字となって世間に読まれるものとなることを生業としているかぎり,わたしは「表現者」の一部に属している,とおもう。しかも,できることなら評論家ではなく批評家でありたい,と。となれば,それなりの覚悟を決めて,それなりの努力をしなくてはならない。だから,いつのまにか,ヘーゲルの『精神現象学』を開いたり,バタイユの『宗教の理論』に没頭したり,道元の『正法眼蔵』に跳ね返されたり,西田幾多郎全集とにらめっこをしたり・・・・という具合である。そして,助けを求めるときは西谷修さんや今福龍太さんの著作に手をのばす。そして,そんなことを繰り返しながら,「スポーツとはなにか」と考える。こんなことを四六時中,考えている人間は,どう見たって「世外の徒」でしかありえない。
だから,高橋睦郎さんのような詩人の文章に触れると,わたしの中で眠っていためくるめくような世界が開かれていく,そういう快感がある。バタイユは『宗教の理論』のなかで,人間がかつて属していた動物性の世界を語ることができるのは,詩人のことばだけだ,と断言している。つまり,動物性の世界は,だれも経験した人はいないし,実証することも不可能な世界だ。だから,哲学をもってしても,厳密にことばで語ることはできない,とバタイユは言う。残された方法は,詩人のことばだけだ,と。そして,その言外には,みずからの著作である『内的体験』でとったアフォリズムの手法がイメージされていることだろう。さらには,バタイユが「ニーチェを生きる」とまで入れ込んだニーチェの代表作である『ツァラトゥストラ』のアフォリズムがあるだろう。こんな形式でしか語れない世界がある。しかも,アフォリズムだからこそ伝わるなにかがある。
詩の世界は,まさに,そういう世界だとわたしは理解している。だから,同じ詩人の吉増剛造さんの詩も,詩文もそうだ。現実にはありえない非現実を描きながら,現実以上のなにかが伝わってくるものがある。吉増さんの映像もそうだ。多重露出をするから,一見したところ,なにがなんだかわけがわからない。だから,そのうちに,ぼやけた映像をみているこちらの頭が理性を放棄しはじめる。そのころから,少しずつなにかが伝わりはじめる。ふつうでは考えられない世界を切り開く思考は,やはり,ふつうの生活をしていたのでは生まれてはこない。これが「世外の徒」の生きている世界なのであり,「内面で生きる」姿なのだろう。
芸術や芸能の世界というのは,平凡な日常の世界を突き抜けていった,その境界領域をゆうゆうと凌駕していく,そのさきに広がる世界なのだ。そこに到達するには,なみなみならぬ才能と努力が掛け合わさって,はじめて可能なのだろう。そして,それを支えている力が「内面で生きる」能力なのだろう。「内面で生きる」能力とは,その人の思想・信条(心情)であり,思想・哲学であり,広義の宗教である。そこが「世外の徒」に求められる「生」なのである。これはなかなか容易ではない。とんでもない世界なのだ。そのことを理解してやってほしい,と高橋さんは言外にほのめかす。そのこころが温かい。
わたしがいま考えている「スポーツとはなにか」という問いに応答するのも同じだ,とわたしは考えている。ヨーロッパ近代の生み出した近代合理主義に塗り固められた合理的な「ことば」だけでは,とてもではないが説明不可能である。スポーツの起源を,人間が,動物性の世界から人間性の世界に「横滑り」するところまで遡って考えようとしているのだから。こんなことをやろうとしている人間は世界中探してもいないかもしれない。いたら,ぜひとも,教えてほしい。すぐに,友だちになれそうな気がする。
金メダリスト(ボート・エイト)で世界的な哲学者となったハンス・レンク(記号論)ですら,みずからのオリンピック決勝レースでのフロー体験までは認めたけれども,それを手懸かりにして「スポーツとはなにか」を問い直そうとはしていない。かれの主著の一つである『スポーツ哲学』は,もっぱら「スポーツのもつ人間形成的価値」に向けられている。その論法は20世紀までの主流をなすものだ。しかし,21世紀を生きるわたしたちには,もはや,通用しない(これはいささか言い過ぎ。いまもなお,支配権力と結ぶ思考はこれが主流だ。が,それはすでに時代錯誤である,とわたしは考えている)。そこを,いかにして突破していくか,それが,いま,わたしたちが問われている最大の課題だ。そのためには,近代合理主義をいかにして超克していくか,にかかってくる。
とここまで書いたところで,突然の要件が飛び込んできて,中断。
で,なんとか終わりにしなくては・・・・。
高橋睦郎の,新聞に寄せられたこのエッセイは,少なくともこのわたしには,恐るべきパンチ力をともなってストレートに伸びてきて,しかも,みごとに顔面にヒットした。ダウン寸前のフラフラ状態になりながら,だからこそ,自分の限界ぎりぎりの思考を引き出してくれた。予期せざる「贈与」(マルセル・モース)をいただいた。このポトラッチをどのようにしてつぎに引き渡していくか。そのためには,付加価値を乗せなくてはならない。至福のときの到来である。
〔未完〕
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