鳥インフルが愛知県の豊橋市でも発生したという。豊橋市はわたしの故郷なので,いっそうただごとではない。新聞の記事をひととおり読みながら,あれっ,と気づくことがあった。
いつのころからであろうか。鶏が一羽ずつ小さなケージに個別に分けられて飼育されるようになったのは・・・・?
わたしの家でも,栄養補給よりも現金収入に主眼をおいた鶏の飼育をしていた。というよりは,われわれ子供たちの野球の道具(グラブ,ボール,バット,など)を購入するための資金稼ぎのために,自分たちが交代で鶏の世話をしていた。だから,玉子を自分たちで食べるという習慣はなかった。あっても,年に1回か2回(運動会,遠足)というときの貴重な食料だった。わたしたちは交代で,鶏のえさを確保すること(鳥菜という野菜を栽培すること,アサリの貝殻を叩いて粉にすること,米ぬかを確保すること,など)と鶏小屋の掃除をすること(これがなかなかやっかいだった),そして,定期的に玉子買いがやってくるので玉子を持っていって売ること,これらが主な仕事であった。6畳くらいの広さの鶏小屋に,常時,10羽くらいは飼っていたように記憶する。そして,天気がいいと日中は寺の境内に放し飼いにしてあった。夕方近くになると,みんな小屋にもどってくる。ときおり,数が足りないときもあるので,探して,連れてくる。不思議なもので,鶏は鶏小屋の外で玉子を産むことが多かった。しかも,決まったところで産んだ。鶏には,それぞれの個性があって玉子を産む場所も違っていた。お好みの場所があったのである。
つまり,確認しておきたいことは,わたしたちが子どものころの鶏の飼育の仕方は,鶏小屋があって,そこで集団で生活をし,天気のいい日は屋敷のなかで放し飼いにされていた,という事実である。集団生活だから,ときには諍いが起きて激しく闘争することもあった。いじめられて羽が抜けてしまうのもいた。蛇が玉子をねらって小屋の中に侵入してくると,一斉に鳴き声をあげて,その危険を知らせてくれた。しかし,小屋の外では,それぞれ勝手に行動し,のんびりとあちこち歩きまわりながらエサを探していた。このスタイルは,近所の農家でも同じだった。文字どおり,「庭に住む鳥」「にわ・とり」であった。自分たちのテリトリーを知っているかのように,屋敷の外にでるということはしなかった。
いつのころからか,農家の中に,鶏を大量に飼育する人がでてきた。こうなると,もはや,放し飼いは不可能となる。温室のような細長い鶏小屋に,所狭しと大量の鶏が飼育されるようになった。わたしが中学生になるころ,つまり,朝鮮戦争が始まる1950年ころ,と記憶する。敗戦後,ほぼ5年が経ったころである。こういう小屋をみると,かならずいじめられる鶏が1羽か2羽はいた。羽が抜かれ,鳥肌がまるみえで,しかも,血を流していることもあった。でも,その他の鶏はみんな仲良く悠然と暮らしているようにみえた。
それからしばらくして,鶏の飼育方法が飛躍的に変化していった。つぎつぎに新しい飼育方法が導入されて,農家は,そのつどその方法を取り入れた。そして,ついに,1羽ずつケージに分けて飼育するという究極の方法が導入された。初めて,この光景をみたときには驚いた。これで大丈夫なのか,と不審におもったことを記憶している。鶏は正面を向いたまま向きを変えることもできない狭いケージのなかだけが自分のスペースである。ケージの前に小さな窓があり,そこから鶏は頭を出してエサをついばみ,水を呑む。玉子を産むとケージの外に転がってでてくるようになっている。鶏はひたすら,エサの配給を待ち,水を呑み,夜はうずくまって眠る。ただ,これだけのくり返しの日々を送り,玉子を産まなくなると,どこかに引き取られていき,生涯を閉じる。
運動不足のみならず,鶏同士の交流はなし。その結果は,体力の低下,ストレスの蓄積。最終的には「免疫力」の低下。こういうことが,もう,何世代にもわたってつづけられているのだ。だから,おそらく,わたしたちが子どものころに飼育していた鶏と,いまのケージで飼育されている鶏とは,相当の変化が起きているに違いない。とりわけ,「免疫力」の低下,という点で。
近年の鳥インフルの大流行は,こうした人間の都合(経済的コストの軽減)に合わせた「合理的」な飼育方法がゆきついた,当然の帰結ではないか,とわたしは素人ながら考えている。だから,これは「人災」なのだ,と。
カラスが鳥インフルにかかって大量に死んだとは聞いたことがない。スズメが大量に死んだとも聞かない。野生の鳥は,大勢に影響はないのだ。
みなさんは,どんな風にお考えでしょうか。
いつのころからであろうか。鶏が一羽ずつ小さなケージに個別に分けられて飼育されるようになったのは・・・・?
わたしの家でも,栄養補給よりも現金収入に主眼をおいた鶏の飼育をしていた。というよりは,われわれ子供たちの野球の道具(グラブ,ボール,バット,など)を購入するための資金稼ぎのために,自分たちが交代で鶏の世話をしていた。だから,玉子を自分たちで食べるという習慣はなかった。あっても,年に1回か2回(運動会,遠足)というときの貴重な食料だった。わたしたちは交代で,鶏のえさを確保すること(鳥菜という野菜を栽培すること,アサリの貝殻を叩いて粉にすること,米ぬかを確保すること,など)と鶏小屋の掃除をすること(これがなかなかやっかいだった),そして,定期的に玉子買いがやってくるので玉子を持っていって売ること,これらが主な仕事であった。6畳くらいの広さの鶏小屋に,常時,10羽くらいは飼っていたように記憶する。そして,天気がいいと日中は寺の境内に放し飼いにしてあった。夕方近くになると,みんな小屋にもどってくる。ときおり,数が足りないときもあるので,探して,連れてくる。不思議なもので,鶏は鶏小屋の外で玉子を産むことが多かった。しかも,決まったところで産んだ。鶏には,それぞれの個性があって玉子を産む場所も違っていた。お好みの場所があったのである。
つまり,確認しておきたいことは,わたしたちが子どものころの鶏の飼育の仕方は,鶏小屋があって,そこで集団で生活をし,天気のいい日は屋敷のなかで放し飼いにされていた,という事実である。集団生活だから,ときには諍いが起きて激しく闘争することもあった。いじめられて羽が抜けてしまうのもいた。蛇が玉子をねらって小屋の中に侵入してくると,一斉に鳴き声をあげて,その危険を知らせてくれた。しかし,小屋の外では,それぞれ勝手に行動し,のんびりとあちこち歩きまわりながらエサを探していた。このスタイルは,近所の農家でも同じだった。文字どおり,「庭に住む鳥」「にわ・とり」であった。自分たちのテリトリーを知っているかのように,屋敷の外にでるということはしなかった。
いつのころからか,農家の中に,鶏を大量に飼育する人がでてきた。こうなると,もはや,放し飼いは不可能となる。温室のような細長い鶏小屋に,所狭しと大量の鶏が飼育されるようになった。わたしが中学生になるころ,つまり,朝鮮戦争が始まる1950年ころ,と記憶する。敗戦後,ほぼ5年が経ったころである。こういう小屋をみると,かならずいじめられる鶏が1羽か2羽はいた。羽が抜かれ,鳥肌がまるみえで,しかも,血を流していることもあった。でも,その他の鶏はみんな仲良く悠然と暮らしているようにみえた。
それからしばらくして,鶏の飼育方法が飛躍的に変化していった。つぎつぎに新しい飼育方法が導入されて,農家は,そのつどその方法を取り入れた。そして,ついに,1羽ずつケージに分けて飼育するという究極の方法が導入された。初めて,この光景をみたときには驚いた。これで大丈夫なのか,と不審におもったことを記憶している。鶏は正面を向いたまま向きを変えることもできない狭いケージのなかだけが自分のスペースである。ケージの前に小さな窓があり,そこから鶏は頭を出してエサをついばみ,水を呑む。玉子を産むとケージの外に転がってでてくるようになっている。鶏はひたすら,エサの配給を待ち,水を呑み,夜はうずくまって眠る。ただ,これだけのくり返しの日々を送り,玉子を産まなくなると,どこかに引き取られていき,生涯を閉じる。
運動不足のみならず,鶏同士の交流はなし。その結果は,体力の低下,ストレスの蓄積。最終的には「免疫力」の低下。こういうことが,もう,何世代にもわたってつづけられているのだ。だから,おそらく,わたしたちが子どものころに飼育していた鶏と,いまのケージで飼育されている鶏とは,相当の変化が起きているに違いない。とりわけ,「免疫力」の低下,という点で。
近年の鳥インフルの大流行は,こうした人間の都合(経済的コストの軽減)に合わせた「合理的」な飼育方法がゆきついた,当然の帰結ではないか,とわたしは素人ながら考えている。だから,これは「人災」なのだ,と。
カラスが鳥インフルにかかって大量に死んだとは聞いたことがない。スズメが大量に死んだとも聞かない。野生の鳥は,大勢に影響はないのだ。
みなさんは,どんな風にお考えでしょうか。
1 件のコメント:
今時の鶏の飼育の仕方と昔のでは随分と違うんだということを知り、今時の子どもたち(室内ゲームをやっている子供たちなど)とも重ね合わせて、まさにその通り棚と思いました。鶏もストレスはないのでしょうか?まるで使い捨てだし、牢獄ですよね。
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