2011年1月7日金曜日

モンゴル出身力士はなぜ強いのか,をめぐる記事について。

 朝日新聞の悪口ばかり書いていたら,そんなに朝日が嫌いなら講読を止めればいい,と言われてしまいました。どうもわたしの真意が伝わっていないなぁ,とおもいましたので,少しだけいいわけをさせていただきます。人の悪口には二通りあるとわたしは考えています。一つは,本当に憎しみをもっていう悪口,もう一つは,なんとかよくなって欲しいという愛情のこもった悪口。わたしの悪口は,後者の方です。かつて素晴らしい記事を掲載していた朝日全盛時代のイメージがわたしの頭のなかから消えないからです。だから,夢よもう一度,というわたしなりの密かな願いがあることだけは忘れないでいてください。その上での悪口を,今日も書きます。
 1月4日から,「野村周平が担当します」というモンゴルの相撲に関するコラム記事が3回,連載されました。この実名記事の方針にわたしは大賛成です。こんごも,この姿勢を貫いてほしいとおもいます。で,折角,実名で記事を書くチャンスをもらったのですから,野村さん,なぜ,もう少し勉強しなかったのでしょうか。上・中・下の3回の記事を読んで,まず,おもったことはただ人の話を聞いてまとめただけ,という薄っぺらさです。これなら,ちょっとした中学生でもまとめられます。朝日新聞の取材力からすれば,この程度の取材で満足していては駄目でしょう。モンゴル相撲に関してはすでに多くの読者がかなりの情報をわがものとしています。ひょっとしたら,野村さん,貴方が一番素人だったのかもしれませんね。だから,取材を重ねるうちに,これは面白いと貴方自身が感動してしまい,貴方にとっての感動だけをまとめた,という印象になってしまいました。だから,わたしにはまことにつまらない記事になってしまいました。なぜなら,モンゴル出身力士がなぜ強いのか,というご自身の問いの答えがほとんどどこにも見当たらないからです。あるとすれば,270万人の人口のうち3万人もの人がナーダムをめざす力士である,という事実を指摘なさっているだけです。では,なぜ,3万人もの人がナーダム祭の頂点をめざして力士になるのか,その歴史的・文化的・民族的バックグラウンドについては,ほとんどなにも語ってくれていません。
 そこのところを取材と文献の裏づけで固めてほしかったのです。たとえば,記事の中の一番最後に小長谷先生のお話がでてきます。それもわずかに4行足らずです。野村さん,小長谷先生のご著書を一冊くらいはお読みになったのでしょうか。あるいは,野村さん,モンゴルについてどのくらいの予備知識をもって,この記事を書かれたのでしょうか。あるいは,モンゴル相撲というものがどういうものなのか,本を読んだりして本気でお考えになったことがあるでしょうか。そして,ナーダム祭というものがモンゴルの人びとにとって,どういう意味をもった祭りであるのか,お考えになったことがあるのでしょうか。あるいはまた,モンゴル相撲の力士と馬の関係についてお考えになったことがあるでしょうか。つまり,モンゴル相撲を支えている文化的・歴史的・社会的・民族的意味についての知識をいくらかでもお持ちでしたら,このような薄っぺらな記事にはならなかったのではないか,とわたしは考えるのです。
 ついでに言わせていただけるなら,昨年の『現代思想』11月号で「大相撲」を特集したことはご存じですよね。その中に,「7月の身体」という井上邦子さんの手になる秀逸な論考が掲載されていたこともご存じですよね。その同じ号に,今福龍太・西谷修の両氏とわたしとの「討議・大相撲のゆくえ」が掲載されていることも。もっと言わせていただけるなら,『世界』の4月号には,今福龍太さんとわたしとの対談で,モンゴル相撲に触れていることもご存じですよね(2009年4月,朝青龍はなぜ追放されたか)。こういう例をあげていくときりがありませんので,このあたりで止めにしておきますが・・・・。
 それともう一つの重要なポイントは,日本の大相撲というものがどういうものなのか,ということに関する基本的な知識です。たとえば,大相撲が国技であると信じて疑わないメディアがほとんどです。ひょっとしたら,野村さん,貴方も日本の大相撲は国技である,と信じていらっしゃるのではないでしょうか。もし,そうだとしたら,そもそも出発点からして大問題です。たとえば,新田一郎さん(東大教授で相撲部の監督,しかも,いまも学生さんたちと同じ土俵に立つ,という現役の力士さんでもある)の『相撲の歴史』(講談社学術文庫)を読むだけではっきりわかりますように,相撲が国技である,という根拠はどこにもありません。なんとなく,だれいうともなく言われはじめただけの話(あえていえば,国技館が建設されてからの話)です。
 さて,あまり長くこんな話を書いても仕方がありません。
 わたしがなにを言いたかったのかを最後に書いておきたいとおもいます。
 結論からいえば,批評性が欠落している,ということです。もと力士の相撲評論家が大相撲を語ったり,もとプロ野球選手の野球評論家がプロ野球を語ったりするのと,新聞記者である野村さんが
相撲や野球を語るのとは違わなければなりません。なにが違わなくてはならないのか。相撲評論家は評論しかできません。野球評論家も評論しかできません。どちらも内輪の人ですから。逆に,新聞記者には「評論」はできません。では,なにができるのか。「批評」ができるのです。第三者の立場に立って,豊富な取材情報と豊かな教養に支えられた,しかも,なんらかの思想・哲学を信念としてもつ「批評」ができるのです。それが新聞記者の役割だとわたしはおもっています。そこから生まれる記事をわたしたち読者は期待しているのです。
 かつて,野村さんの大先輩にあたる中条一雄さんというスポーツ担当記者がいらっしゃいました。この人は,「たかがスポーツ,されどスポーツ」という名言を吐いています(著書にもなっています)。この人がいたころの朝日のスポーツ記事はとても面白かった。なぜなら,野球評論家や相撲評論家ではとても語れない,はっきりとした主張が新聞記者の手によって書かれていましたから。主張があるということは,その人なりの思想・哲学をもっているということです。そういう記事が,どんどん減ってしまいました。まるで,そういう記事を書いてはいけないかのように・・・・。そして,いまではみる影もないほどみじめな記事ばかりになってしまいました。
 が,ようやく朝日新聞も昨年の暮れから,大幅に署名記事を増やしました。このことを,わたしはこころから歓迎しています。やはり,記者の方たちの力のそそぎ方,情熱の傾け方が一気に変化した,ということが手にとるようにわかります。とてもいい傾向だとおもっています。だからなおのこと,署名のない記事は,わたしに言わせれば,なんと無責任な記事が多いことか,ということになります。みんな,だれかがこう言った,というところに逃避して,責任をとろうとしません。これでは中学生新聞の手法と同じです。当事者から与えられた情報をそのまま流すだけが新聞というメディアの務めなのでしょうか。そうではないでしょう。
 かつての筑紫哲也さんや,途中から作家になられた辺見庸さんなどが,署名で書かれた記事などは,そこはかとない迫力を感じたものです。それ以前には『泣き虫記者』を書いた入江さんがいます。この本を読んだときには,わたしも新聞記者になりたい,とさえおもいました。こういう記者がでてこないかぎり,新聞に明日はない,とわたしは考えています。すでに,その斜陽の影が押し寄せてきています。こんなときだからこそ,しかも,スポーツ全盛の時代だからこそ,スポーツ記事から「批評性」豊かな情報を流すということをはじめられてはいかがでしょうか。
 野村周平さんには,名指しで大変きついことを言ってしまいました。が,ご理解ください。わたしは朝日新聞を愛しているのです。ですからでてくる苦情なのですから。ぜひとも,そこのところをわかってください。もちろん,いまの新聞社に,かつてのような専門の担当記者を養成する力も,密度の濃い取材をする力も,その裏をとる校閲の力も,すっかり衰えてしまっていることは承知しています。だからといって済ませられる問題ではありません。なぜなら,最終的には新聞記者としての死活問題になる,とわたしは考えているからです。単なるロボットでいいのなら,構いません。このときこそ,わたしが新聞に見切りをつけるときになるだけの話ですから。
 どうか誤解しないでください。わたしは,最大限のエールを送っているつもりです。このあたりが,よく,わたしが誤解される理由のようです。もう少し上手にやんわりと文章を書けばいいのですが,あまりに直截に書くものですから・・・・。でも,わたしの主張に嘘や虚飾はありません。大げさにいえば,わたしなりにからだを張った主張をしているつもりです。つまり,わたし流の「批評」を展開しているつもりです。少しでも好きな新聞がよくなるために。
 朝日新聞の,すくなくともスポーツ記事が,そして,わたしがこよなく愛する大相撲の記事が,ピリッとした記者の批評性の盛り込まれたものに生まれ変わることを,こころから期待しています。そのつもりでお励みくださいますように。
 野村周平さん,よろしくお願いいたします。こんごのご活躍をこころから期待しています。
 できることなら,一度,お会いしたいくらいです。


 

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