2011年1月17日月曜日

「世外の徒,内面で生きよ」(高橋睦郎)に寄せて。

 詩人の高橋睦郎さんが,1月14日の朝日新聞に「世外の徒,内面で生きよ」〔海老蔵事件に思うこと〕というエッセイを寄せている。久々に批評性豊かなエッセイに触れることができ,切り抜いて,何回も読み返している。詩人の文章らしく,無駄な文言や文章はひとつもなく,簡潔で,しかも凝縮され,濃密な内容になっているので,わたしのような人間が軽々しく要約するわけにはいかない。が,ここはブログであるということでお許しをいただいて,わたし流の受け止め方をさせていただき,わたし流に解釈させていただく。
 まず,「世外の徒」という表現が意表を衝く。ふつうの国語辞典には載っていない。でも,ふつうの日本人であれば,なにを意味しているかはわかる。なるほど「世外の徒」か,とわたしはしばらく腕組みをして考えた。わたしは,これまで,こういうことばを知らなかったので,歌舞伎役者にしろ,相撲界の力士にしろ,タレントさんにしろ,こういう人たちは「ふつうの人ではない」のだから,という言い方しかできなかった。「世外の徒」。白川静の『字通』で確認したかぎりでは,「せがいのと」と読むらしい。
 で,高橋睦郎さんは,やんわりと「世外の徒」を市民社会の市民道徳で裁くことに疑念をはさみながらも,「内面的に世外の徒として生きるほかはない」という。さらに,このことは歌舞伎界に限らず,芸術や芸能の世界に生きる「表現者」は,「内面的に世外の徒であることの自覚,むしろ自負が必須ではないか」と求めつつ,返す刀で「願わくは社会の側にも,そのことへの一定の理解が望まれる」と切って落す。みごとというほかはない。
 この,ある種の,棲み分けが,21世紀に入ってできなくなってしまっている。つまり,「世外の徒」という認識が欠落してしまって,みんな同じでなくてはいけない,という市民社会意識が蔓延し,それが当たり前の社会になってしまった。これは悪しき平等主義であり,悪しき民主主義ではないか。これでは,芸術も芸能も枯渇してしまう。高橋睦郎さんのいうような,いわゆる「表現者」が,ふつうの市民感覚をもつ「世内の徒」ばかりになってしまったら,人を感動させるような「表現」はもはやできなくなってしまうだろう。
 高橋睦郎さんは,ご自身が「詩人」という「表現者」であることをしっかりと認識していらっしゃる。だから,みずからの肝に「内面的に世外の徒であること」を銘じ,それを「自覚」し,「自負」することを心がけていらっしゃるに違いない。それだけに,海老蔵の事件に対しても,歌舞伎界という世界がどういう世界であるかを熱っぽく語ったうえで,海老蔵へのきびしい注文をつけつつ(世外の徒としての自覚・自負をもてと),社会に向けても一定の理解を求める姿勢を示す。
 この高橋さんの「芸」こそが,つまり,わたしのような「世内の徒」である読者をも感動させる「芸」こそが,「世外の徒」であることを自覚し,自負する詩人のなせる技なのである。詩人もまた,わたしのことばでいえば「ふつうの人ではない」のである。だからこそ,存在理由があるのだ。
 海老蔵よ,「内面で生きよ」,と高橋さんは呼びかけつつ,読者にはまた違うさまざまなメッセージを発信していることに気づくとき,ますます,詩人の冴え渡る「芸」をみるのである。たとえば,わたしは「世外の徒」という条件つきであるとはいえ,「内面で生きよ」という呼びかけに慄然としてしまうのである。なぜなら,「内面で生きよ」という呼びかけはなにも「世外の徒」だけに向けられたものではないと感じるからである。「内面で生きよ」とは,なにを隠そう,現代社会に生きるすべての人間に対して放たれた高橋流の「毒矢」ではないか,と。
 ここからは,わたしの勝手なアナロジーだと思って読んでいただきたい。
 人間が生きるとはどういうことなのか,と詩人・高橋睦郎は,読者に向かって問いかけている。そして,それは「内面で生きる」ということにほかならないのだよ,とみずから応じている。現代社会に生きるわたしたちのほとんどが,「人間が生きる」ということにあまりに無自覚ではないか,とも問いかけてくる。つまり,「内面で生きる」ということをすっかり忘れてしまっているのではないか,と。そういう人間が圧倒的多数を占める社会だからこそ,「海老蔵事件」が成立してしまうのだ,と。
 もっと言ってしまえば,「海老蔵事件」は,「内面で生きる」ことを忘れてしまったわれわれ「世内の徒」が,でっちあげたものにすぎない,と。そこには,これを「事件」として書き立てるジャーナリズムがあり(ジャーナリストもまた「表現者」であるにもかかわらず「内面で生きる」ことを忘れてしまった「世内の徒」に堕している),それに異常な関心を示す読者がいて(「内面で生きる」ことなどほとんど考えたこともない「世内の徒」が圧倒的多数),それをまた物知り顔に煽り立てる評論家なるものが存在する(この人たちこそ「内面で生きる」「世外の徒」としての自覚・自負が必要であるにもかかわらず,そんなことはとんと忘れてしまって,まるで他山の火事であるかのごとく評論(コメント)するだけ)。この三位一体が,「海老蔵事件」を成立させてしまった真犯人なのだ。つまり,われわれ自身が,みんなで寄ってたかって,「海老蔵事件」を捏造してしまったのだ。
 そこに欠落しているのは,「内面で生きる」ことを自覚し,自負する,「批評精神」であり,真の「批評家」である。すなわち,ことばの正しい意味での「世外の徒」の欠落なのである。詩人・高橋睦郎はそこにターゲットを絞り込んでいるということが,この短いエッセイを何回も何回も読み返すうちに透けてみえてくるのである。ことここにいたってわたしの全身に鳥肌が立つ。
 詩人・高橋睦郎は,海老蔵を「写し鏡」にして,まずは,「世外の徒」よ,「内面で生きよ」と呼びかける。そうしないと,芸術も芸能も枯渇してしまうぞ,と。そして,その返す刀で,一般社会人にも一定の理解ができる程度には「内面で生きよ」と切り返す。そうしないと,芸術も芸能も枯渇してしまうぞ,と。これこそが,真の「批評家」の身振りであるぞ,と。
 以上が,わたしのアナロジーである。これは,単なるわたしの妄想にすぎないのだろうか。みなさんのお考えをお聞かせいただきたい。

〔未完〕

1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

初めて来ました。
私も高橋陸郎さんの簡潔な文章にこころうたれました。
先日、荒川さんの映画のトークショウに出てきました。「死なないため」というより「(安心して)死ねるため」について話しました。「死」を否定することは「生」も否定することになると思ったからです。
これからも楽しみにしております。