昨日のブログのつづき。
わたしの話のあとを引き継いで,今福さんがとても魅力的なお話をなさった。いつものことながら,さすがだなぁ,と思う。
その今福さんのお話のうち,わたしの記憶に鮮明に残った部分について,かいつまんで書き留めておきたい。
まず,仮面とはなにか,という根源的な問題をなげかけ,そこに能面を置いてみるとなにがみえてくるのか,と問う。そして,仮面(=能面)とは「人間が人間以上のものになるための装置(あるいは,「道具」)」である,という。たとえば,「翁」という面がある。これはかならずしも老人を表しているわけではなくて,「時間を超越する存在」であり,そういう存在の象徴としてある。だから,翁が童であってもさしつかえないのだ,として「翁童論」をごくかんたんに紹介する。つまり,「翁」の面をつけることによって,時間を超越した存在となり,本人の意識とは無関係に,翁面に自分のからだが動かされていく,ということが起きる。つまり,翁面をつけた人のからだが翁面にからめ捕られていく。すなわち,翁面をつけると,どんな動き方をしてみたところで,それはすべて「翁」の動きになってしまうのである。鬼の面をつけてもまったく同じことが起きる。それが能面(仮面)というものの本質である,と。
これを枕にして,メキシコ・コーラ族の仮面について,とても興味深い話,すなわち,今福ワールドを展開。
コーラ族の若者たちは,お祭りのときには三日三晩,不眠不休で駆けずり回る通過儀礼を何年間にもわたって(成人になるまで)行う(この話については『荒野のロマネスク』という今福さんの初期の作品に詳しく述べられているので,ぜひ,参照のほどを)。ペヨーテというフォーク・メディシンでもちいるサボテン系の一種の幻覚剤を用いることにより,身心の限界を超越した時空間に身を投げ出していくことが可能となる。同時に,ボディ・ペインティングをし,仮面をかぶる。ボディ・ペインティングのことをコーラ族は,からだの上に白と黒の色を「塗る」とは言わないで,白と黒の色で「消す」と表現する,という。つまり,人間としての身体を「消す」というわけだ。そして,人間の身体ではなくなることによって,動物の身体にのっとられていく。その極めつけが「仮面」である。今福さんは,みずからフィールド・ワークをされた折に,コーラ族の若者たちに教えられながらつくったという「オオカミの面」をとり出してみせてくれる。この面を顔につけて,走りまわるのである。さらに,「ことば」はいっさい禁止される。こうして,ほぼ,完全に「動物性の世界に回帰」してしまうことになる。オオカミの三日間を過ごすことになる。その上で,「交尾」を行う。つまり,人間ならば「セックス」になるが,もはや,動物になりきっているので,それは単なる「交尾」でしかない。かれらは「性」の世界へ動物になりきった身体から入っていく。
この話は,いま,ちょうどバタイユの『宗教の理論』の冒頭にでてくる「動物性」と「人間性」の問題を考えている最中だったので,その典型的な事例の一つとして,わたしには衝撃的な話であった。いまの,このタイミングでこの話を聞くことができたことは,なにか特別な「ご縁」があるなぁ,と不思議な気分になった。人と人との出会いは大事である。同じ話であっても,受け手のレディネスがないと,ただの話で,そのまま通り過ぎていく。しかし,なにかの都合でこころの琴線に触れるとする。それは運命の出会いとなり,その人生をも決しかねないことになる。これからなにかが始まるな,という予感に襲われる。喜びの身震いをともなって。
いささか,脱線。今福さんは,この話につづけて,洞窟画などに描かれている原初の人間たちの狩り(ハンティング)の絵をとりあげる。ハンターはみんな動物の身体になってハンティングをしている。なぜか。人間が人間の身体を「消して」,なんらかの動物の仮面をつけて,その動物に変身して(その動物になりきって)獲物に接近する。動物と動物は,よほどの関係でないかぎり,至近距離まで近づくことを可能とする。その距離から武器を用いて狩りをする。したがって,原初の人間にとっては,動物的身体にどのようにして入っていくか,はきわめて重要なことであった。そのために工夫されたものが,ボディ・ペインティングであり,仮面である。
このようにして仮面は,人間が人間以上のものになる,つまり,人間を超えていくための道具としての地位を確保することになる。能面もまた,日本中世の芸能の世界で開発された,人間が人間でなくなるための特別の道具・装置と考えることができる。
仏像もまた,能面と同じように,仏師のさまざまな思い・信仰が凝縮されたかたちで封じ籠められている,典型的なものの一つと考えてよい。あるとき,フォーク・メディシンで用いられるマッシュ・ルームの幻覚性の実験をしたときに,不思議な経験した,という。光源を一つにして(ローソク一本),仏像の写真集を眺めていたら,突然,仏像の顔が動きはじめたという。そして,それがいくとおりにも変化していき,恐るべき幻覚をそこにみたという。仏師の力というものはすさまじいものだ,こころの底から思った,という。
われわれ人間は,「視覚」と「時間」によって抑圧を受けながら,日常の生活を営んでいる。だから,われわれ現代人は,ありのままの現実をかなり歪んだかたちで,受け止めることになる。つまり,抑圧によって変容されたものを現実として受け止めることになる。しかし,人間がひとたびこの抑圧から解き放たれると,そこにはまったく自由なのびのびとした,別世界が立ち現れることになる。能面を用いた能楽という芸能は,この「視覚」と「時間」による抑圧を解き放つ,そういう舞台装置なのだ,と考えてよいだろう。
柏木さんのお仕事は,能面のなかに封じ籠められた「視覚」と「時間」による抑圧を,一つひとつ引き剥がそうとしているような,そういう前代未聞の世界を切り開く,きわめて貴重なものではないか,と考える。
とまあ,以上は,わたしの牽強付会のような解釈に近いものではあるが,いま,現在の今福さんのお話からえられた印象をそのまま記してみた次第です。これからボイス・レコーダーで確認をしてみて,あまりにわたしの曲解であった場合には,このブログで訂正をさせていただきます。
とりあえず,今福さんのお話からの,わたしの印象は以上のようなものであった,というご報告まで。
わたしの話のあとを引き継いで,今福さんがとても魅力的なお話をなさった。いつものことながら,さすがだなぁ,と思う。
その今福さんのお話のうち,わたしの記憶に鮮明に残った部分について,かいつまんで書き留めておきたい。
まず,仮面とはなにか,という根源的な問題をなげかけ,そこに能面を置いてみるとなにがみえてくるのか,と問う。そして,仮面(=能面)とは「人間が人間以上のものになるための装置(あるいは,「道具」)」である,という。たとえば,「翁」という面がある。これはかならずしも老人を表しているわけではなくて,「時間を超越する存在」であり,そういう存在の象徴としてある。だから,翁が童であってもさしつかえないのだ,として「翁童論」をごくかんたんに紹介する。つまり,「翁」の面をつけることによって,時間を超越した存在となり,本人の意識とは無関係に,翁面に自分のからだが動かされていく,ということが起きる。つまり,翁面をつけた人のからだが翁面にからめ捕られていく。すなわち,翁面をつけると,どんな動き方をしてみたところで,それはすべて「翁」の動きになってしまうのである。鬼の面をつけてもまったく同じことが起きる。それが能面(仮面)というものの本質である,と。
これを枕にして,メキシコ・コーラ族の仮面について,とても興味深い話,すなわち,今福ワールドを展開。
コーラ族の若者たちは,お祭りのときには三日三晩,不眠不休で駆けずり回る通過儀礼を何年間にもわたって(成人になるまで)行う(この話については『荒野のロマネスク』という今福さんの初期の作品に詳しく述べられているので,ぜひ,参照のほどを)。ペヨーテというフォーク・メディシンでもちいるサボテン系の一種の幻覚剤を用いることにより,身心の限界を超越した時空間に身を投げ出していくことが可能となる。同時に,ボディ・ペインティングをし,仮面をかぶる。ボディ・ペインティングのことをコーラ族は,からだの上に白と黒の色を「塗る」とは言わないで,白と黒の色で「消す」と表現する,という。つまり,人間としての身体を「消す」というわけだ。そして,人間の身体ではなくなることによって,動物の身体にのっとられていく。その極めつけが「仮面」である。今福さんは,みずからフィールド・ワークをされた折に,コーラ族の若者たちに教えられながらつくったという「オオカミの面」をとり出してみせてくれる。この面を顔につけて,走りまわるのである。さらに,「ことば」はいっさい禁止される。こうして,ほぼ,完全に「動物性の世界に回帰」してしまうことになる。オオカミの三日間を過ごすことになる。その上で,「交尾」を行う。つまり,人間ならば「セックス」になるが,もはや,動物になりきっているので,それは単なる「交尾」でしかない。かれらは「性」の世界へ動物になりきった身体から入っていく。
この話は,いま,ちょうどバタイユの『宗教の理論』の冒頭にでてくる「動物性」と「人間性」の問題を考えている最中だったので,その典型的な事例の一つとして,わたしには衝撃的な話であった。いまの,このタイミングでこの話を聞くことができたことは,なにか特別な「ご縁」があるなぁ,と不思議な気分になった。人と人との出会いは大事である。同じ話であっても,受け手のレディネスがないと,ただの話で,そのまま通り過ぎていく。しかし,なにかの都合でこころの琴線に触れるとする。それは運命の出会いとなり,その人生をも決しかねないことになる。これからなにかが始まるな,という予感に襲われる。喜びの身震いをともなって。
いささか,脱線。今福さんは,この話につづけて,洞窟画などに描かれている原初の人間たちの狩り(ハンティング)の絵をとりあげる。ハンターはみんな動物の身体になってハンティングをしている。なぜか。人間が人間の身体を「消して」,なんらかの動物の仮面をつけて,その動物に変身して(その動物になりきって)獲物に接近する。動物と動物は,よほどの関係でないかぎり,至近距離まで近づくことを可能とする。その距離から武器を用いて狩りをする。したがって,原初の人間にとっては,動物的身体にどのようにして入っていくか,はきわめて重要なことであった。そのために工夫されたものが,ボディ・ペインティングであり,仮面である。
このようにして仮面は,人間が人間以上のものになる,つまり,人間を超えていくための道具としての地位を確保することになる。能面もまた,日本中世の芸能の世界で開発された,人間が人間でなくなるための特別の道具・装置と考えることができる。
仏像もまた,能面と同じように,仏師のさまざまな思い・信仰が凝縮されたかたちで封じ籠められている,典型的なものの一つと考えてよい。あるとき,フォーク・メディシンで用いられるマッシュ・ルームの幻覚性の実験をしたときに,不思議な経験した,という。光源を一つにして(ローソク一本),仏像の写真集を眺めていたら,突然,仏像の顔が動きはじめたという。そして,それがいくとおりにも変化していき,恐るべき幻覚をそこにみたという。仏師の力というものはすさまじいものだ,こころの底から思った,という。
われわれ人間は,「視覚」と「時間」によって抑圧を受けながら,日常の生活を営んでいる。だから,われわれ現代人は,ありのままの現実をかなり歪んだかたちで,受け止めることになる。つまり,抑圧によって変容されたものを現実として受け止めることになる。しかし,人間がひとたびこの抑圧から解き放たれると,そこにはまったく自由なのびのびとした,別世界が立ち現れることになる。能面を用いた能楽という芸能は,この「視覚」と「時間」による抑圧を解き放つ,そういう舞台装置なのだ,と考えてよいだろう。
柏木さんのお仕事は,能面のなかに封じ籠められた「視覚」と「時間」による抑圧を,一つひとつ引き剥がそうとしているような,そういう前代未聞の世界を切り開く,きわめて貴重なものではないか,と考える。
とまあ,以上は,わたしの牽強付会のような解釈に近いものではあるが,いま,現在の今福さんのお話からえられた印象をそのまま記してみた次第です。これからボイス・レコーダーで確認をしてみて,あまりにわたしの曲解であった場合には,このブログで訂正をさせていただきます。
とりあえず,今福さんのお話からの,わたしの印象は以上のようなものであった,というご報告まで。
1 件のコメント:
仮面(=能面)とは「人間が人間以上のものになるための装置(あるいは,「道具」)」である
なるほど、と思いました。続きを楽しみにしています。
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