2011年3月5日土曜日

和田竜著『忍びの国』を読む。

 困った作家の登場である。その名は「和田竜」(わだりょう)。この人の書くもの,面白くて目が離せない。『のぼうの城』につかまってしまい,この『忍びの国』が文庫化されたことを知り,すぐに購入。3月1日刊行のほやほやである。
 『のぼうの城』については,すでに,このブログで書いているので省略。今回の作品は,伊賀の忍者の話。若き日の石川五右衛門も登場する。忍者ものは,司馬遼太郎が直木賞をとった『梟の城』以後,傑作ものがぞくぞくと書かれたが,ここ最近,パタッと止まったいたように思う。そこに,和田竜の登場である。この『忍びの国』は,文句なしの傑作である。騙されたと思って読んでみてほしい。余分な説明はしない方がいいのかも・・・。
 『のぼうの城』と『忍びの国』とでは,作品の成り立ちがまるで別物なのだが,その底に流れている作者の視線は共通するところが多い。その最大の魅力は,弱者が強大な権力に真っ向勝負にでて,堂々たる闘いぶりを展開するところにある。しかも,何故に,弱者がかくも力を出し切って,強者をたじたじとさせることができるのか,という根拠をみごとに描ききっているところが,両者に共通している。この時代の戦は,数量的な兵力の差だけで勝負が決まるわけではなかった。戦いの機微は,人のこころの奥深くに潜む,人と人との共感・共鳴・共振するこころが,大きく左右する,というところに作者和田竜はいたくこだわっているように見受けられる。そこが,現代社会を生きるわたしたちのこころにも,もはや失われたものへの郷愁を甦らせ,強く訴えてくる。和田竜の人間洞察の深さが,読者であるわたしたちのハートをくすぐる。一旦その作者の「忍術」にかかってしまうと,もはや,最後まで読み終わるまでは食事も喉をとおらなくなる。
 『忍びの国』では,織田信長の次男で,北畠具教(とものり)の六女の婿養子となった北畠信雄(のぶかつ)が,伊賀の忍者を相手に戦う。約3倍もの兵力を擁して伊賀に攻め込むものの,神出鬼没の忍者に手玉にとられ,ほうほうの態で逃げ帰る。それから2年後には,織田信長みずからが3万の兵を擁して乗り込んできて,こんどは伊賀を全滅させる。あの歴史に残る織田信長の「伊賀攻め」である。この歴史的事実を下敷きにしながら,和田竜が,みごとなキャスティングをほどこし,個性豊かな忍者たちが縦横無尽に大活躍する。それにしても,なんともはや凄惨な物語になっている。
 この小説はいくとおりにも読める仕掛けが施されている。その意味でも,真の忍者小説といってよい。読者が,作者の意のままに,いくとおりにも忍術にかけられていき,読者はそのことに気づかないまま夢中になって最後まで読んでしまう。しかし,読み終わった瞬間に,忍術が解かれるようになっている。このあたりの仕掛けもまたにくい。
 わたしの大雑把な印象を述べておく。
 作者和田竜は,明らかにに「9・11」以後の国際情勢を視野に入れて,この作品を書いている,とわたしは思う。それは『のぼうの城』でも同様である。大軍に攻め込まれる弱者は,どう考えてみても,「自爆的抵抗」をこころみる「テロリスト」でしかない。しかも,作者和田竜の立場は,徹底してその弱者の側に立つ。そして,弱者たちを結束させる「情」の世界をみごとに描いていく(『のぼうの城』)。それに引き換え,大軍(『のぼうの城』では豊臣秀吉,『忍びの国』では織田信長)が蜂起すると,圧倒的多数の武将たちは「自発的隷従」の姿勢をとる。こちらは,あきらかに安易に生き延びるための「打算」以外のなにものでもない。どこか,ニッポンコクとどこぞの大国との関係が二重写しになってみえてきてしまう。
 『忍びの国』では,さらに,作者は忍術を使い,忍者たちの行動原理の根底にあるものは「銭」だけだ,と設定して物語を展開していく。「銭」さえくれればなんでもする,それが忍者だ,と。徹底して銭の亡者として描く。ここまでしつこく「銭」「銭」「ぜに」と言われると,現代資本主義社会を生きるわたしたちの「資本中心主義」の行動原理と,これまた二重写しになってくる。
 これらは,もちろん,わたしの深読みにすぎない。しかし,こんな深読みをあまりやってしまうと,これからこの本を読もうとする人の妨害となってしまうので,このあたりで止めにしておこう。その代わりに,作者和田竜が,どういうつもりでつぎの一節を書き込んだのか,みなさんに考えてもらうことにしよう。「終章」の末尾で,伊賀が亡びるのを目の当たりにしながら語り合う,背筋が寒くなるような,二人の武将の会話である。
 「・・・その傍を通って,大膳は左京亮をともない,土塁の斜面を上がり,喰代(ほうじろ)の里を見下ろした。
 『滅びたな,忍びの国も』
 左京亮が,焼き払われた里を眺めながらつぶやいた。
 『いや,違う』
 大膳は,左京亮に横顔を見せたまま異を唱えた。
 『斯様なことでこの者たちの息の根は止められぬ。虎狼の族(やから)は天下に散ったのだ』
 『天下に散った』
 左京亮はその意味が分らず,同じ言葉を口にしながら,次を促した。
 すると大膳は,『左様』と言い,何やら予言めいたことを口にした。
 『虎狼の族の血はいずれ天下を覆い尽くすこととなるだろう。我らが子そして孫,さらにその孫のどこかで,その血は忍び入ってくるに違いない』
 自らの欲望のみに生き,他人の感情など歯牙(しが)にも掛けぬ人でなしの血は,いずれ,この天下の隅々にまで浸透する。大膳はそう心中でつぶやいていた。」
 

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