不思議なできごとが,つぎからつぎへと起きる。しかも,最先端科学技術を駆使したテクノロジーによる現体制への揺さぶりである。その意味ではまったく新しいできごとが,これからもあとを断たないだろうと思う。そして,それを伝えるジャーナリズムの視点も,わたしには不思議。もう少し冷静に判断して,情報を伝えてほしいと思う。
大学入試のさなかに,携帯メールを用いて,問題の回答を求めるという新手の「不正行為」(俗にいうカンニング)が現れて,大騒ぎになっている。しかも,その批判の対象は,もっぱら,だれが,どのような方法で,この不正行為を行ったのか,というところに集中している。たしかにそのとおりてはある。しかし,もっと驚いたのは,それを「偽計業務妨害容疑」として告訴するという大学側の姿勢である。もちろん,結果論としてはそうするしかないのだが・・・。
しかし,この姿勢には,入試を行った大学にはなんの責任もなく,受験生のあるだれかが「不正行為」を行った,これは許せない行為である,という暗黙の了解があるように思う。たしかに,携帯電話を用いて外部の人間に問題の解答を求める行為そのものは,どこにも容認できる要素はない。だからといって,それを行った受験生を「偽計業務妨害容疑」で訴える大学と,それをテクノロジーを駆使してその不正行為を割り出そうとする,それだけでいいのだろうか。犯人を割り出せばそれでいいのか,ということにわたしは疑問をいだく。そのことだけで問題の解決をみようとする姿勢そのものに,わたしは深い憂慮をいだく者である。
なぜなら,大相撲の八百長問題と同じような,ある特定個人を「悪者」に仕立て上げ,そこに総攻撃を加える。きわめて単純明快な,二項対立的な,どこかテロリスト退治にみる「正義」対「テロ」の図式がちらつくからである。そうではなくて,競馬の「油断騎乗」にみるように,内部できちんとけじめがつけられるようなシステムを構築することが先決ではないのか。あるいは,そのような不正が発生しないようなシステムを構築することではないのか。
ここで欠落している視点は,一つには制度を維持していくためのシステムの問題である。不正行為はどこまでも未然に防がなければならない。しかし,完璧な管理体制をとることはほとんど不可能であろう。ということは,多少の不正行為は不可抗力として見逃されてきたということだ。これは制度の限界を承知してのこと。
入試に限定すれば,これまでの発想では,一定時間内に効率よく試験問題を配布し,回収できる人数が試験監督者として配置されてきた。それは,原則的には入試で不正行為はまず発生しないという受験生に対する信頼が前提となっていたからだ。試験監督者も,一応,不正行為を監督するかのような身振りをするものの,まずは,そんなことは起こりえないという前提に立っている。だから,監督者によっては,ほとんどこころここにあらずという状態で,ただ立っているだけ,あるいは,ぶらぶらと見回っているふりをするだけ,という人もいる。極端な言い方をすれば,不正行為を誘発するような雰囲気が試験会場に生まれることもある。まあ,こんなことは滅多にあることではないが・・・。もし,あったとしても,不正行為を行う受験生はほとんどいない,というある種の信頼関係がそこにはあった。
しかし,時代は大きく変化した。受験生の気質も,試験監督をする大学教員の気質も,当初の入試制度が構築されたころとはまるで異なる。そこに IT革命である。携帯電話という,すでに小型コンピューター化した文明の利器の登場である。これ一つで,相当の量・質の情報を,瞬時にして手に入れることができる。現代の若者気質を身につけた受験生がこれに吸いよせられていくというのは,ある意味では,自然な流れである。言ってしまえば,日常的にこの方法を用いている人間にとっては,わからない問題は携帯に聞いてみる,というのは当たり前のことだ。場合によっては賢いともいえる。ただ,問題は,これを入試の現場に持ち込んだ,というただ一点だけである。
こんなことは,十分に予測できたはずである。
すでに,学内で行われている学期末試験や学年末試験では,多くの大学で携帯電話の持ち込みを禁止しているはずだ。にもかかわらず,大学入試に,携帯電話の持ち込みが認められている,ということがわたしには不可解である。これは,どうみても大学側にも相当に大きな「油断」=不手際があった,と考えるのだが,いかがだろうか。
誤解されないように繰り返しておくが,携帯電話を悪用した受験生は,明らかなる犯罪を犯したのだから,なにがなんでも悪い。しかし,それを「油断」して,許していた大学側も悪い。さらには,試験会場でそれを見破ることができなかった(見破ろうともしなかった)試験監督者の「無責任」さも,不正幇助に相当するのではないか。
最新科学技術の産物たるすぐれたテクノロジーが,日本の近代が構築してきた制度や組織に大きな揺さぶりをかけていることは,日々,多くの人びとが承知しているはずである。明治期に構築された日本の近代制度は,基本的には,人間は悪事を働かないという前提に立っていた。つまり,人間を信頼するということが優先されていた。しかし,いまや,人間は悪事を働くという前提に立った,新しい制度づくりに移行しつつある。すでに,多くの企業が,社員に「IDカード」を常時携帯させて,社内への出入りをきびしくチェックしていることは,衆知のことだ。しかし,大学入試の会場の出入りに関して,受験票の提示を求めて,本人確認をしている大学がどれだけあるだろうか。
テクノロジーの進展は,人間に多くの利便性を提供してきたが,それと同時に,人間と人間との関係性を大きく疎外し,人間不信をも招いてきた。この恐るべき現実に目をつむったまま,テクノロジーによる「暴力性」は放置されたままだ。
今回の事件は,こういう根の深いところまで視野を広げた洞察が必要ではないか,とわたしは憂慮しつつ考えている。
〔未完〕
大学入試のさなかに,携帯メールを用いて,問題の回答を求めるという新手の「不正行為」(俗にいうカンニング)が現れて,大騒ぎになっている。しかも,その批判の対象は,もっぱら,だれが,どのような方法で,この不正行為を行ったのか,というところに集中している。たしかにそのとおりてはある。しかし,もっと驚いたのは,それを「偽計業務妨害容疑」として告訴するという大学側の姿勢である。もちろん,結果論としてはそうするしかないのだが・・・。
しかし,この姿勢には,入試を行った大学にはなんの責任もなく,受験生のあるだれかが「不正行為」を行った,これは許せない行為である,という暗黙の了解があるように思う。たしかに,携帯電話を用いて外部の人間に問題の解答を求める行為そのものは,どこにも容認できる要素はない。だからといって,それを行った受験生を「偽計業務妨害容疑」で訴える大学と,それをテクノロジーを駆使してその不正行為を割り出そうとする,それだけでいいのだろうか。犯人を割り出せばそれでいいのか,ということにわたしは疑問をいだく。そのことだけで問題の解決をみようとする姿勢そのものに,わたしは深い憂慮をいだく者である。
なぜなら,大相撲の八百長問題と同じような,ある特定個人を「悪者」に仕立て上げ,そこに総攻撃を加える。きわめて単純明快な,二項対立的な,どこかテロリスト退治にみる「正義」対「テロ」の図式がちらつくからである。そうではなくて,競馬の「油断騎乗」にみるように,内部できちんとけじめがつけられるようなシステムを構築することが先決ではないのか。あるいは,そのような不正が発生しないようなシステムを構築することではないのか。
ここで欠落している視点は,一つには制度を維持していくためのシステムの問題である。不正行為はどこまでも未然に防がなければならない。しかし,完璧な管理体制をとることはほとんど不可能であろう。ということは,多少の不正行為は不可抗力として見逃されてきたということだ。これは制度の限界を承知してのこと。
入試に限定すれば,これまでの発想では,一定時間内に効率よく試験問題を配布し,回収できる人数が試験監督者として配置されてきた。それは,原則的には入試で不正行為はまず発生しないという受験生に対する信頼が前提となっていたからだ。試験監督者も,一応,不正行為を監督するかのような身振りをするものの,まずは,そんなことは起こりえないという前提に立っている。だから,監督者によっては,ほとんどこころここにあらずという状態で,ただ立っているだけ,あるいは,ぶらぶらと見回っているふりをするだけ,という人もいる。極端な言い方をすれば,不正行為を誘発するような雰囲気が試験会場に生まれることもある。まあ,こんなことは滅多にあることではないが・・・。もし,あったとしても,不正行為を行う受験生はほとんどいない,というある種の信頼関係がそこにはあった。
しかし,時代は大きく変化した。受験生の気質も,試験監督をする大学教員の気質も,当初の入試制度が構築されたころとはまるで異なる。そこに IT革命である。携帯電話という,すでに小型コンピューター化した文明の利器の登場である。これ一つで,相当の量・質の情報を,瞬時にして手に入れることができる。現代の若者気質を身につけた受験生がこれに吸いよせられていくというのは,ある意味では,自然な流れである。言ってしまえば,日常的にこの方法を用いている人間にとっては,わからない問題は携帯に聞いてみる,というのは当たり前のことだ。場合によっては賢いともいえる。ただ,問題は,これを入試の現場に持ち込んだ,というただ一点だけである。
こんなことは,十分に予測できたはずである。
すでに,学内で行われている学期末試験や学年末試験では,多くの大学で携帯電話の持ち込みを禁止しているはずだ。にもかかわらず,大学入試に,携帯電話の持ち込みが認められている,ということがわたしには不可解である。これは,どうみても大学側にも相当に大きな「油断」=不手際があった,と考えるのだが,いかがだろうか。
誤解されないように繰り返しておくが,携帯電話を悪用した受験生は,明らかなる犯罪を犯したのだから,なにがなんでも悪い。しかし,それを「油断」して,許していた大学側も悪い。さらには,試験会場でそれを見破ることができなかった(見破ろうともしなかった)試験監督者の「無責任」さも,不正幇助に相当するのではないか。
最新科学技術の産物たるすぐれたテクノロジーが,日本の近代が構築してきた制度や組織に大きな揺さぶりをかけていることは,日々,多くの人びとが承知しているはずである。明治期に構築された日本の近代制度は,基本的には,人間は悪事を働かないという前提に立っていた。つまり,人間を信頼するということが優先されていた。しかし,いまや,人間は悪事を働くという前提に立った,新しい制度づくりに移行しつつある。すでに,多くの企業が,社員に「IDカード」を常時携帯させて,社内への出入りをきびしくチェックしていることは,衆知のことだ。しかし,大学入試の会場の出入りに関して,受験票の提示を求めて,本人確認をしている大学がどれだけあるだろうか。
テクノロジーの進展は,人間に多くの利便性を提供してきたが,それと同時に,人間と人間との関係性を大きく疎外し,人間不信をも招いてきた。この恐るべき現実に目をつむったまま,テクノロジーによる「暴力性」は放置されたままだ。
今回の事件は,こういう根の深いところまで視野を広げた洞察が必要ではないか,とわたしは憂慮しつつ考えている。
〔未完〕
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