2011年3月4日金曜日

大学入試でのカンニング行為は大学で処理すべき問題ではないのか。

 偽計業務妨害などという犯罪に該当するのであろうか・・・・と素人ながら考えている。カンニング行為の「新手」が登場したというだけの話ではないのか,と。
 試験監督者の眼を盗んで,いかにカンニングをするか,というこのこと自体はなにも新しいことではない。大昔から繰り返されてきた問題である。それは,あくまでも試験監督者と学生の関係性のなかでのできごとであって,一般社会とはなんの関係もないことだ。だから,これまではすべて学内の問題として,教授会という場所で最終判断がくだされてきた。入試におけるカンニング問題も同様に扱われてきたはずだ。つまり,教育的指導の対象であったはずだ。もっと言っておこう。カンニングはただ処分すればいいという問題ではない。もし,そのような事件が起きてしまったとしたら,愛情の籠もった指導助言をとおしてカンニングをしない学生に立ち直らせて,世の中に役立つ人間として送り出す,そこまで大学は責任をもってきたはずだ。
 それが,なぜ,いきなり偽計業務妨害というところに雪崩込んでいってしまったのか。しかも,京都大学だけが。他の3大学は,これまでどおり,大学の学内問題として処理しているというのに。
 受験生に不公平があってはならない。そのために,だれが責任を負うのか。入試を行う大学である。こんなことは自明のことだ。にもかかわらず,大学がその責任をまっとうすることができなかった。にもかかわらず,さも,携帯電話が悪い,インターネットのシステムが悪い,と言って責任転嫁しているように,わたしにはみえる。それは違うのではないか。
 文明の利器は,いつでも諸刃の剣である。便利なものは悪用も可能なのだ。そんなことは,わかりきっていることではないか。携帯電話がいまや小さなパソコンと化し,インターネットは,なんにでも応答してくれるシステムが完備している。受験勉強しながら,どうしても解けない数学の問題を携帯で聞いてみる,などということは日常化している,という。わたしのような時代遅れの世代であっても,原稿を書いていて,わからないことがでてきたらすぐにインターネットで聞いてみる。そこで提供される情報は危ないものも混ざっているので,要注意ではあるが・・・・。
 大学の定期試験でも,今回のような事件はすでに起きている,と聞く。なにも新しい問題ではない,と。だから,それぞれの大学はそれなりの対応に追われているという。大学入試に関しても,携帯電話を「持ち込み禁止」にしている大学は少なくない,とも。当然だろう。そういう実情があるにもかかわらず,携帯電話に対して無防備であった大学側の方にも,大きな落ち度があった,とわたしは考える。もし,携帯電話の持ち込みを許可するのであれば,試験監督者はそれの悪用を未然に防ぐことができるという前提に立っていたはずだ。だとすれば,試験監督者の怠慢ということになってしまう。
 ここまで事件が大きくなってしまうと,こんどは大学側の管理体制に落ち度はなかったか,というところに当然向かっていく。となると,大学は単なる被害者ではなく,加害者でもある,ということになってしまう。さてはて,この問題はどこまで波及していくことになるのやら・・・・。
 京都大学は,歴史的に,大学の自治に関しては立派な功績を残している。天皇機関説をめぐる大議論を記憶している人は少なくないだろう。にもかかわらず,今回の件では,なにゆえに,こうまでうろたえたのであろうか。これでは,まるで,日本相撲協会と同じだ。大学の自治能力を失っている。教授会ではいったいどのような議論がなされているのだろうか。優秀なスタッフがそろっているはずなのに・・・・。わたしには不可解である。
 人間は,わたし自身もふくめて,自分自身のことは,できることなら見ようとはしない。そして,さりげなくやりすごしたい。そういう習性のような保身術が蔓延している。ピエール・ルジャンドルの著作のなかに,『西洋が西洋について見ないでいること』(以文社)という,わたしにとってはとても刺激的だった著作がある。とりわけ,大学に身を寄せている知識人の中に,この手の人間が多いのではないか,とわたしは感じている。
 「大学が大学について見ないでいること」という,きわめて根源的な問題が,今回の「事件化」の背景に潜んでいるのではないか,とそんなことを危惧している。いささか考えすぎであろうか。

1 件のコメント:

まゆのほっぺ さんのコメント...

責任転嫁って何処にでもあるんですねえ…。私の旦那の会社でも然り。況してや試験会場に携帯持ち込むなんて常識なさ過ぎですよ。お城に上がるときだって刀は預かってもらっていたんでしょう?