2011年3月8日火曜日

「涙する」情動を取り戻せ(トリン・ミンハ,桜井均,ほか)。

 3月6日(日)の東京外国語大学で開催されたイベントで,グンナル監督の映画『溶けてしまった氷の国・・・』をみたあとのシンポで,桜井均さんが「この映画をみていて,久しぶりに泣いてしまいました」と発言され,わたしは「あっ」と小さく声を発してしまいました。なぜなら,わたしは「泣く」という情感をどこかに置き忘れてしまって,ただ,ひたすら「さぶいぼ」(鳥肌)が立つ恐怖の念にとらわれていたからです。もっといってしまえば,情動からもっとも遠い理性のど真ん中にいて,必死で,「これはえらいこっちゃ」と考えつづけていたのでした。そこに,突然,桜井さんが開口一番「泣いてしまいました」と仰った。わたしは「あっ」としかいいようのない,虚を突かれた思いでした。そうか,桜井さんは「泣いた」のだ,と。それが羨ましくて仕方がなかったのです。そうかぁ,こういうドキュメンタリー映画であっても,丸裸の素の状態でみていれば,ストレートに情動に訴えかけてくるのだ,と。それに引き換え,このわたしは,大まじめに近代人よろしく一生懸命「頭」で受け止めていたのでした。しまった,と思いました。が,時すでに遅し,です。
 と,思っていたら,柏木裕美さんのブログには,なんと,あのトリン・ミンハが「泣いた」とある。しかも,柏木さんの制作した「む・口」さんをみて。同じ,6日に,今福龍太さんと多木陽介さんとトリン・ミンハさんの3人が柏木さんのお宅を尋ねて,お面をみせてもらっていたのだ。そして,柏木さんの「む・口」という創作面(小面の顔・これがなかなかの美人・の眼と鼻まではきちんと彫られているのだが,口がない,不思議なお面)をみた瞬間に,トリン・ミンハさんは眼に涙を浮かべたというのである。そのいきさつについては柏木さんのブログを参照してください。ここでは,「む・口」という柏木さんの作品とトリン・ミンハさんの感性がどこかでショートし,「涙する」というできごとが起きた,このことにわたしは痛く感動してしまいました。理由はともかくとして,一つの芸術作品と,それを初めてみた人のこころとが,真っ正面から「出会う」こと,このことの「凄さ」にわたしは感動してしまいます。「人が生きる」ということはこういうことなのではないか,と本気で思うからです。
 桜井さんにしろ,トリン・ミンハさんにしろ,凄いなぁと感動してしまいます。真の意味で開かれたこころをもつ人というのは,日常のささいなできごとのなかにも,「普遍」を感じ取り,こころの底から共振・共鳴することができる,そういう感性を持ち合わせているんだなぁ,としみじみ思います。
 そんなことを考えていたら,今日の朝日の夕刊の「ニッポン人・脈・記」に,Dr.コートを探して,「気づけば33年,今日も行く」という瀬戸上健二郎さんのことが取り上げられていた。この記事を読んで,じわっと涙が浮かんだ。1978年に,半年でもいいからきてほしい,と頼まれて鹿児島から船で6時間を要する下甑島(しもこしきしま)の診療所に赴任したお医者さんの話。いつか島を出よう,島から出たい,と思いつづけているうちに,その思いもいつしか消え去り,気がついたら33年が過ぎていた,という。そして,島の人びとの「情」の深さのなかにいつしかどっぷりと溶け込んでいる。そこには,濃密な人と人との結びつきが広がっている。
 そうか,生きるということはこういうことなんだ,とわたしは納得。しかし,それは「頭」の中だけのこと。からだではない。瀬戸上医師は,おそらく頭では「いつか島からでる」と考えつづけていたが,いつのまにやら「からだ」がすっかりなじんでしまって,「頭」のいうことを聞かなくなってしまった自分に気づいたのだろう。9日で70歳を迎える「神の手」をもつ外科医は,いまも,元気はつらつとサンダル履きで島の波打ち際を歩いている。
 このブログを書きながら,ああ,わが人生はなんであったのか,と情けなくなってきて「涙する」。この26日で73歳になんなんとするわが身をふり返り,行く末を思いやる。「情」の世界に背を向けて,ひたすら「理」の生き方を求めていたのではないか,と。それは間違いだ。もっと深い深い「情」の世界をこそ堪能すべきではなかったか,と。
 ジョルジュ・バタイユのいう「動物性」と「人間性」のはざまで揺れ動きながらも,やはり,現代社会を生きていくには「人間性」を選択する以外にはなかった。しかし,その分,わたしの中の「動物性」は抑圧され,排除されつづけてきたのだ。でも,「亡霊」はいつか忽然と姿を現す,とジャック・デリダは言った。どうやら,ここにきて,わたしの中の「亡霊」が疼きはじめてきたようだ。そろそろ解放してやらなくては・・・と思う。
 もう,なにも失うものはない。73歳まで,よくぞ,無事で,元気で,生きてこられたものぞ,と思う。これからは童心をとりもどして,可能なかぎり「動物性」に接近しつつ,自由奔放に生きてみたいと思う。そこにこそ「生きる」ことの実態があるのではないか・・・・と。そこでは,「涙する」情動がフル回転しているのではないか・・・・と。
 もう一度,「涙する」情動を,わがものとすべく・・・・。

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