電気を使い過ぎてきたと思う。こんなにぜいたくに電気を使う必要はない,と今回の原発事故によって知った。ぜいたくを止めて,ふつうの暮しに戻ればいい。それだけで節電は十分にできる。そうすれば,原発は要らない。そういうライフ・スタイルを目指すことを提案したい。
わたしの住む溝の口駅前に丸井があって,「3・11」以後,節電体制に入った。室内の明かりを通常の半分にしている。最初は暗いなぁと思った。わたしがいつも通り抜ける1階にはフード・コートがあって,食べ物屋さん(いわゆるファースト・フードばかり)が並び,中央の広い空間が共同の食事スペースになっている。ここも,最初は,暗いなぁ,と思った。しかし,毎日,ここを通り抜けているうちに,慣れてきた。いまでは,なんの違和感もない。これていいではないか,と思う。上のフロアーにも必要があって上がってみたが,いつもの明るさとは違い,たしかに暗い。しかし,なんの不自由もない。これでいいではないか,と思う。
わたしはご縁があって,ドイツとオーストリアにはたびたび長く滞在した経験がある。そのときの経験を思い出す。ドイツもオーストリアも無駄遣いを徹底的に排除する生活習慣を身につけている国だ。最初に,住民登録に行った役所で驚いた。エスカレーターが止まっている。2階に用事があったから,歩いて登ればいいと思って接近したら,突然,動きはじめた。降りたら止まる。なるほど,と納得。その後,大学もそうだし,百貨店もそうだし,あちこち,エスカレーターは人が接近してこないかぎり止まっている。明かりもそうだ。役所も大学も百貨店も暗い(と,日本から行った当初は)思った。でも,必要なところ,たとえば,トイレは真っ暗だが接近するとセンサーが働いて電気がつく。地下鉄の駅も全体的に暗い。しかし,1週間もすれば慣れた。それが当たり前になる。この国の人たちは,長い間,これでやってきた。だから,これが当たり前。日本の明るさに慣れきってしまったわたしが,当初,驚いただけの話。それも,すぐに慣れてしまう。
そのことを考えると,日本の夜の明るさはなんだろう。どこもかしこも明るい。まるで昼のようだ。これは,どう考えてみても,電気の無駄遣いだ。これに慣れてしまったから,暗くすると,なんとなく変な気になる。しかし,どうだろう。このところの節電で,われわれ日本人もだいぶ慣れてしまったのではないだろうか。これでなんの不自由もない。だとしたら,これからも,この明るさで行こうではないか。なんら困らない。
これだけで相当に電力は節約できているはずである。
つぎは,家庭内の電気の使い方を工夫すればいい。その方法はここでは問わない。電気代を去年の同時期よりも3割程度抑えることを目標に努力すればいい。企業も同じ。百貨店も同じ。どこもかしこも,みんな「3割減」を目標に努力すればいい。その目標を達成できたら,減税の対象とする,というような施策もあっていいだろう。
要するに,これまで,わたしたち日本人は,ドイツやオーストリアの人びとに比べたら,じつに贅沢な暮らし方をしてきたということだ。それを,ごくふつうの生活にもどすだけの話だ。こんなことは気持ちひとつでできる。
考えてみれば,わたしなどは,生活の電化の歴史を生きてきたようなものだ。パンを焼くトースターなるものが出現したのが,大学生になったとき。電気炊飯器を友人がプレゼントしてくれたのが,大学を卒業したとき。結婚したときに冷蔵庫を買った。テレビと洗濯機は子どもが小学生になってから。エアコンを入れたのは,50歳で大病したとき。それから,オーディオにパソコン,という具合だ。あっという間に,文明化の恩恵に浴し,その中にどっぷりと浸りこんで,生活している。そして,いつのまにかそれが当たり前になっている。しかし,贅沢には限度がある。あまりに贅沢に慣れてしまうと,人間は堕落する。
このあたりで,人間の生活の基本について,根本から考え直すときではないか,と思う。原発にまで頼らなくては生活ができなくなっていた,その実態をこそ反省すべきだろう。まずは,節電生活からはじめよう。電気の無駄遣いを止めよう。ちょっと我慢するだけで,電化製品がなかったころの生活に比べれば,なんの苦労もなく生活できる。
ことしの夏はエアコンなしで,どこまで耐えられるか,自己試練の年でもある。一度に全部,止めてしまうことはできないだろう。だから,「3割減」を目標に。
こういう工夫を積み上げていけば,原発などはなくてもやっていける。
その代わりにソーラー・システムをもっと普及させればいい。屋根の大部分は未使用のままだ。幸いにも日本は日照時間に恵まれている。これを利用しない手はない。放射能に汚染されることを考えれば,たやすいことだ。自己資本で投資して,余った電力は売れるのだ。長い目でみれば,元はとれる。
とまあ,こんなことを考えるのだが,素人の浅はかなアイディアに過ぎないのだろうか。みなさんのご意見をお聞きしたいところ。
わたしの住む溝の口駅前に丸井があって,「3・11」以後,節電体制に入った。室内の明かりを通常の半分にしている。最初は暗いなぁと思った。わたしがいつも通り抜ける1階にはフード・コートがあって,食べ物屋さん(いわゆるファースト・フードばかり)が並び,中央の広い空間が共同の食事スペースになっている。ここも,最初は,暗いなぁ,と思った。しかし,毎日,ここを通り抜けているうちに,慣れてきた。いまでは,なんの違和感もない。これていいではないか,と思う。上のフロアーにも必要があって上がってみたが,いつもの明るさとは違い,たしかに暗い。しかし,なんの不自由もない。これでいいではないか,と思う。
わたしはご縁があって,ドイツとオーストリアにはたびたび長く滞在した経験がある。そのときの経験を思い出す。ドイツもオーストリアも無駄遣いを徹底的に排除する生活習慣を身につけている国だ。最初に,住民登録に行った役所で驚いた。エスカレーターが止まっている。2階に用事があったから,歩いて登ればいいと思って接近したら,突然,動きはじめた。降りたら止まる。なるほど,と納得。その後,大学もそうだし,百貨店もそうだし,あちこち,エスカレーターは人が接近してこないかぎり止まっている。明かりもそうだ。役所も大学も百貨店も暗い(と,日本から行った当初は)思った。でも,必要なところ,たとえば,トイレは真っ暗だが接近するとセンサーが働いて電気がつく。地下鉄の駅も全体的に暗い。しかし,1週間もすれば慣れた。それが当たり前になる。この国の人たちは,長い間,これでやってきた。だから,これが当たり前。日本の明るさに慣れきってしまったわたしが,当初,驚いただけの話。それも,すぐに慣れてしまう。
そのことを考えると,日本の夜の明るさはなんだろう。どこもかしこも明るい。まるで昼のようだ。これは,どう考えてみても,電気の無駄遣いだ。これに慣れてしまったから,暗くすると,なんとなく変な気になる。しかし,どうだろう。このところの節電で,われわれ日本人もだいぶ慣れてしまったのではないだろうか。これでなんの不自由もない。だとしたら,これからも,この明るさで行こうではないか。なんら困らない。
これだけで相当に電力は節約できているはずである。
つぎは,家庭内の電気の使い方を工夫すればいい。その方法はここでは問わない。電気代を去年の同時期よりも3割程度抑えることを目標に努力すればいい。企業も同じ。百貨店も同じ。どこもかしこも,みんな「3割減」を目標に努力すればいい。その目標を達成できたら,減税の対象とする,というような施策もあっていいだろう。
要するに,これまで,わたしたち日本人は,ドイツやオーストリアの人びとに比べたら,じつに贅沢な暮らし方をしてきたということだ。それを,ごくふつうの生活にもどすだけの話だ。こんなことは気持ちひとつでできる。
考えてみれば,わたしなどは,生活の電化の歴史を生きてきたようなものだ。パンを焼くトースターなるものが出現したのが,大学生になったとき。電気炊飯器を友人がプレゼントしてくれたのが,大学を卒業したとき。結婚したときに冷蔵庫を買った。テレビと洗濯機は子どもが小学生になってから。エアコンを入れたのは,50歳で大病したとき。それから,オーディオにパソコン,という具合だ。あっという間に,文明化の恩恵に浴し,その中にどっぷりと浸りこんで,生活している。そして,いつのまにかそれが当たり前になっている。しかし,贅沢には限度がある。あまりに贅沢に慣れてしまうと,人間は堕落する。
このあたりで,人間の生活の基本について,根本から考え直すときではないか,と思う。原発にまで頼らなくては生活ができなくなっていた,その実態をこそ反省すべきだろう。まずは,節電生活からはじめよう。電気の無駄遣いを止めよう。ちょっと我慢するだけで,電化製品がなかったころの生活に比べれば,なんの苦労もなく生活できる。
ことしの夏はエアコンなしで,どこまで耐えられるか,自己試練の年でもある。一度に全部,止めてしまうことはできないだろう。だから,「3割減」を目標に。
こういう工夫を積み上げていけば,原発などはなくてもやっていける。
その代わりにソーラー・システムをもっと普及させればいい。屋根の大部分は未使用のままだ。幸いにも日本は日照時間に恵まれている。これを利用しない手はない。放射能に汚染されることを考えれば,たやすいことだ。自己資本で投資して,余った電力は売れるのだ。長い目でみれば,元はとれる。
とまあ,こんなことを考えるのだが,素人の浅はかなアイディアに過ぎないのだろうか。みなさんのご意見をお聞きしたいところ。
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