JRの高槻駅から北に向かって伸びている大通りをそのまま歩いていくと,ものの10分ほどで上宮天満宮に突き当たります。大きな鳥居があって,すぐに石の階段がはじまります。登り詰めたところから平らな境内に入っていきます。
石の階段を登り詰めて,右側をややふり返るようなところに野身神社と書いた幟旗が立っています。幟旗から石段を登ると石の柵で周囲をしっかりと囲まれた中に小さな祠が立っているだけの神社です。ここが野見宿禰の墓で,もとは古墳になっていた,と信頼できる書籍に書かれています。初めてこの事実を知ったとき,わたしは大きな驚きを感じました。なぜなら,なぜ,野見宿禰がこの地に葬られなければならなかったのか,その理由がわからなかったからです。
たとえば,『記紀』の記述のとおり,出雲出身の人であるなら,出雲の地に葬られているのが自然です。が,奇妙なことに,出雲と野見宿禰の関係性は,どう考えてみてもほとんどなにもありません。出雲には,一般に知られている野見神社もなければ,天満宮もありません。たぶん,なんの縁故関係もなかったのではないか,と最近では考えています。
では,その出雲とはなにか。奈良県の長谷寺にいく途中に,そのむかし出雲と呼ばれていた土地があったといわれています。しかも,そこには「出雲」と書いた碑がぽつんと立っています。この出雲が,出雲大社のある出雲とどのような関係があったのかも,いまは,わかっていません。が,いずれにしても,野見宿禰が垂仁天皇に呼び出されて,当麻蹴速と相撲をとるときには,ここに住んでいたのではないか,というのがわたしたちの研究者仲間での合意点です。なぜなら,垂仁天皇に呼び出されて,その日のうちに相撲をとった,と記録されているからです。島根県の出雲からやってきたのでは,とても一日どころか,何日も要したことでしょう。
今回のフィールドワークでは,いささか驚くべき発見がありました。野身神社の手前の石段の左側に「野身神社・野見神社」と書いた碑が立っています。以前,ここを訪れたときには,どうして二つの名前が彫ってあるのかなぁ,くらいの認識でした。でも,今回はちょっと違いました。「野身」と「野見」は同じ一族で,その両方の祖先神,すなわち,野見宿禰を祀っているのだということを,あえて明らかにしているんだなぁ,と納得。でも,あえてそのようにしなくてはならない理由がなにかあるな,と気づきました。
しかし,です。まさに,しかし,です。この「野身神社・野見神社」と書かれた碑の横になにやら小さな文字が刻まれています。よく見ると,「野身郷・野身里・濃味里・濃美郷」と書かれていて,いずれも天平15年東大寺奴婢,とあります。
こうなってきますと,わたしの推理は千々に乱れてきます。
たとえば,野見宿禰は垂仁天皇に仕えることになりますが,聖武天皇の天平時代には,その一族の住む野身郷・野身里・濃味里・濃美郷は東大寺の奴婢であったというのです。奴婢というのは,古代の賤民の総称です。律令制では官有の公(く)奴婢と民有の私奴婢に分けられています。前者は口分田(くぶんでん)を良民なみ,後者は良民の三分の一と定められています。奴婢の総数は良民の10%足らずで,そのうちの大半は民有の奴婢だったと推定されています。この奴婢の制度は10世紀ころにはほぼ解放された,ということです。
このことを念頭に置いて考えてみますと,野見宿禰とその家系だけは別格に扱われたようですが,それ以外の一族は奴婢として扱われ人たちがいた,ということがわかります。その差別化のためでしょうか,野見ではなく,野身,濃味,濃美,という当て字が用いられています。それでも東大寺の奴婢であったということは,公奴婢であったわけで,良民なみの口分田を与えられていた,ということがわかります。
ということは,東大寺奴婢と,あえてここに彫り込んであるということは「良民」並の立派な身分であったということを立証するためだった,と読むことができます。ということは,なにを意味しているのだろうか,という新たな疑問が湧いてきます。
そこには,野見宿禰の出自にまつわる蔑視の問題があるのでは,というのがわたしの推測です。この蔑視の問題は,上宮天満宮の祭神である菅原道真公にいたるまで,ずっとつづきます。昨日の野見神社の社務所の人の説明も,どこか釈然としないのは,どうやらこの蔑視観と関係があるようです。
さて,ここからさきの推理については,稿を改めて,このブログで書いてみたいと思います。というところで,今日はここまで。
石の階段を登り詰めて,右側をややふり返るようなところに野身神社と書いた幟旗が立っています。幟旗から石段を登ると石の柵で周囲をしっかりと囲まれた中に小さな祠が立っているだけの神社です。ここが野見宿禰の墓で,もとは古墳になっていた,と信頼できる書籍に書かれています。初めてこの事実を知ったとき,わたしは大きな驚きを感じました。なぜなら,なぜ,野見宿禰がこの地に葬られなければならなかったのか,その理由がわからなかったからです。
たとえば,『記紀』の記述のとおり,出雲出身の人であるなら,出雲の地に葬られているのが自然です。が,奇妙なことに,出雲と野見宿禰の関係性は,どう考えてみてもほとんどなにもありません。出雲には,一般に知られている野見神社もなければ,天満宮もありません。たぶん,なんの縁故関係もなかったのではないか,と最近では考えています。
では,その出雲とはなにか。奈良県の長谷寺にいく途中に,そのむかし出雲と呼ばれていた土地があったといわれています。しかも,そこには「出雲」と書いた碑がぽつんと立っています。この出雲が,出雲大社のある出雲とどのような関係があったのかも,いまは,わかっていません。が,いずれにしても,野見宿禰が垂仁天皇に呼び出されて,当麻蹴速と相撲をとるときには,ここに住んでいたのではないか,というのがわたしたちの研究者仲間での合意点です。なぜなら,垂仁天皇に呼び出されて,その日のうちに相撲をとった,と記録されているからです。島根県の出雲からやってきたのでは,とても一日どころか,何日も要したことでしょう。
今回のフィールドワークでは,いささか驚くべき発見がありました。野身神社の手前の石段の左側に「野身神社・野見神社」と書いた碑が立っています。以前,ここを訪れたときには,どうして二つの名前が彫ってあるのかなぁ,くらいの認識でした。でも,今回はちょっと違いました。「野身」と「野見」は同じ一族で,その両方の祖先神,すなわち,野見宿禰を祀っているのだということを,あえて明らかにしているんだなぁ,と納得。でも,あえてそのようにしなくてはならない理由がなにかあるな,と気づきました。
しかし,です。まさに,しかし,です。この「野身神社・野見神社」と書かれた碑の横になにやら小さな文字が刻まれています。よく見ると,「野身郷・野身里・濃味里・濃美郷」と書かれていて,いずれも天平15年東大寺奴婢,とあります。
こうなってきますと,わたしの推理は千々に乱れてきます。
たとえば,野見宿禰は垂仁天皇に仕えることになりますが,聖武天皇の天平時代には,その一族の住む野身郷・野身里・濃味里・濃美郷は東大寺の奴婢であったというのです。奴婢というのは,古代の賤民の総称です。律令制では官有の公(く)奴婢と民有の私奴婢に分けられています。前者は口分田(くぶんでん)を良民なみ,後者は良民の三分の一と定められています。奴婢の総数は良民の10%足らずで,そのうちの大半は民有の奴婢だったと推定されています。この奴婢の制度は10世紀ころにはほぼ解放された,ということです。
このことを念頭に置いて考えてみますと,野見宿禰とその家系だけは別格に扱われたようですが,それ以外の一族は奴婢として扱われ人たちがいた,ということがわかります。その差別化のためでしょうか,野見ではなく,野身,濃味,濃美,という当て字が用いられています。それでも東大寺の奴婢であったということは,公奴婢であったわけで,良民なみの口分田を与えられていた,ということがわかります。
ということは,東大寺奴婢と,あえてここに彫り込んであるということは「良民」並の立派な身分であったということを立証するためだった,と読むことができます。ということは,なにを意味しているのだろうか,という新たな疑問が湧いてきます。
そこには,野見宿禰の出自にまつわる蔑視の問題があるのでは,というのがわたしの推測です。この蔑視の問題は,上宮天満宮の祭神である菅原道真公にいたるまで,ずっとつづきます。昨日の野見神社の社務所の人の説明も,どこか釈然としないのは,どうやらこの蔑視観と関係があるようです。
さて,ここからさきの推理については,稿を改めて,このブログで書いてみたいと思います。というところで,今日はここまで。
社碑の側面の記録 |
上の記録の下に刻まれている文字 |
2 件のコメント:
野見宿祢の「野見」について私は、
現代韓国・朝鮮語で日本人の蔑称として「倭奴(we-nom)」という言葉がある。また、日本語の格助詞の「の」にあたる韓国・朝鮮語は、「wi」だ。つまり、「奴の」の韓国・朝鮮語は、「nom-wi」になる。前の単語が子音で終り、続く単語が母音あるいは半母音で始まる場合に、リエゾン(Liaison)する韓国・朝鮮語では、「のみ」の発音に近くなる。野見宿祢の野見は、韓国・朝鮮語では「奴の」の意味になるのだ。百済でどのような言葉が使われていたのかわからないが、現在の韓国・朝鮮語と近いものであるとすれば、野見には「奴の」といった意味があったことになる。
と、「奴の」の意味と考えておりました(拙著『相撲雑話』(PDF版非売品)7P)。
上述のように「奴」の韓国・朝鮮語の発音は「nom」。手元に「漢韓辞典」(漢和辞典の韓国版)がないため、確認はできませんが、「奴婢」の韓国・朝鮮語の発音は「のみ」に近いはずです。
私は「奴の」の意味と考えていましたが、「奴婢」の意味かもしれません。
古代には、殉葬に奴婢を・・・
ということもあったと思うだに・・・
自由そのものには制限があっただにぃ
主に雑務。
売買もされていただにぃぃぃ
天平・・・大仏の頃だにかぁ???
大仏さん作るためにかなりの人たちが、地方から奴婢としてやってきたと思うだにょ
野身・・・という文字が飛び込んできた時、
「うぅぅ」と唸ってしまっただによぉぉぉ
コメントを投稿