2013年12月17日火曜日

貧困率,全国最悪は沖縄。29パーセント。『琉球新報』(12/15配信)による。

 沖縄本島は,そのど真ん中の一等地を米軍基地に独占され,島の南北が真っ二つに分断されている。しかも,島の南北をつなぐ鉄道も走っていない。そのため,人々の移動はすべて車に頼らなくてはならない。当然のことながら,幹線道路は常時,渋滞がつづく。それが効率的な経済活動に大きな支障をきたしていることは間違いない。

 こんな沖縄を,敗戦(1945年)からこんにち(2013年)まで68年間の長きにわたって日本政府は,根本的な問題解決を忌避したまま,放置してきた。その結果が,貧困率・全国最悪の29%という数字となって表出している。

 ほとんどの夫婦が共働きで,しかも正規採用社員はごくわずか。あとは,派遣社員や契約社員,パートタイマーとして働き,細々と生活を維持している。こんな状態がずっとつづいているということを,日本政府が知らないはずはない。にもかかわらず,米軍基地を押しつけて,ほんのわずかな助成金でごまかし,それでよしとしてきた。こういう悲惨な状態がつづいていることを,本土の大手メディアも,見てみぬふりをしつづけてきた。だから,本土にいるわたしたちは沖縄の実情について,まことに疎い。それはいまも変わらない。

 少なくとも,本土並の復興を夢見て1972年に「本土復帰」をはたしたものの,現状はなにも変わらなかった。それどころか,新たにオスプレイの配備などもあって,ますます事態は悪化の一途をたどっている。最近では,もはや,本土に期待する人も激減し,若い世代を中心に,ヤマトは頼るにたりないから,そこから離脱し,「沖縄独立」の方途が模索されるようになってきたという。

 その間の事情に,わたしはそれほど精通しているわけではないが,ふつうのヤマトンチュよりはいくらか詳しい。ひとつには,娘が結婚して沖縄に住み着いている,という個人的な事情もある。それよりなにより,西谷修さんが折に触れ開催される「沖縄」関連のシンポジウムには欠かさず参加し,その議論を拝聴したり,その報告書を読んだりしてきたことが大きいと思う。のみならず,日常的にも直接,沖縄のいろいろの問題についてお話を伺ったりもしている。その程度には,沖縄に関する情報はふつうの人より多いといえるかもしれない。

 だから,ネット上を流れた『琉球新報』(12/15日配信)の表記の問題が眼にとまり,ぐいっと引き込まれるようにその内容を読むことになった。それによると,以下のようである。

 山形大学人文学部の戸室健作准教授による都道府県別貧困率調査の結果によれば,沖縄の貧困率は29.3%で,全国のワースト・ナンバー・ワンだという。全国平均は14.4%で,その倍以上の貧困率である。

 さらに,働く貧困層「ワーキングプア」の割合も,全国平均の6.7%に対して,その3倍を超える20.5%という。沖縄では,まず,ほとんどの人が働いていて,なにもしないで遊んでいる人はごくわずかだと聞いている。みんな必死で働いているのである。しかし,その雇用条件がきわめて悪いために,働いていても稼ぎは少なく,その結果の貧困なのである。

 そして,生活保護基準以下の世帯のうち,保護受給世帯数の割合を示す捕捉率は9.8%で,全国平均の14.3%を4.5ポイントも下回っている。なぜ,このような情況が野放しにされているのか,日本政府はなぜもっと手当てをしないのか,理解に苦しむ。まさに,沖縄の貧困率は眼を覆うばかりである。

 しかし,少し考えれば明らかなように,沖縄に米軍の基地を押しつけ,その結果の沖縄の貧困を下敷きにして,本土のヤマトンチュの経済的繁栄がある,ということだ。このことについての認識がわたしたちには決定的に不足している。

 こうした「知らない」ということがどれほどの暴力であるかは,かつての部落解放運動によって痛いほどわたしたちは学んだはずである。それとまったく同じことが,いま,沖縄で起きている。にもかかわらず,日本政府は,米軍基地をこれからも沖縄に押しつけようとしている。この沖縄の負担を肩代わりしようという都道府県は現れない。みんな拒否して,そのままである。ということは,全国の都道府県知事もまた,沖縄の現状維持を容認している,ということになる。その根っこには,自分さえよければ他人のことは知らない,という自己中心主義がある。しかし,それは違うだろう。

 沖縄に押しつけたままの米軍基地をどうするのか,もっと全国的な議論に持ち上げ,わたしたち一人ひとりの問題であることを自覚させないかぎり,いつまで経っても沖縄は泣き寝入りを強いられるだけだ。こんなとてつもなく大きな暴力を,わたしたちが日常的にふるっているのだ,という認識をしっかりと持つべきだ。すべては,そこからはじまる。それがない限り,事態はなにも変わらない。

 これはヤマトンチュ,一人ひとりの人間としての問題である。

 ここにいたって,シモーヌ・ヴェイユが『根をもつこと』の冒頭で言っていることが想起される。空腹にあえいでいる人が目の前にいたら,なにをさしおいても,まずは「食べ物」を差し出すこと,これが人としての最低限の義務である,と。「根こぎ」にされてしまったままのヤマトンチュであるわが身を恥じるばかりである。
 
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