2013年12月5日木曜日

「特定秘密保護法」廃案の声を無視して強行突破をはかる政府与党。そのさきに待っているものは・・・・?

 弁護士が立ち上がり,学者・研究者が立ち上がり,労働組合はもちろん,各種の市民団体が立ち上がり,ここにきてアーティストが立ち上がり,映画人が立ち上がり・・・・・「特定秘密保護法」の廃案を宣言し,デモを繰り広げています。しかし,スポーツ界はだんまりを決め込んでいます。どうしてなのでしょう,と某大手新聞社の記者からメールがとどきました。

 今日(4日)の太極拳の稽古のときに,これで吉本の芸人さんたちが立ち上がると面白いのだがなぁ,とわたし。すると,Nさんが「芸人は太鼓持ちだから,つねに権力に身を寄せて生きているんだから,それはありえないでしょ」と仰る。なるほど,太鼓持ちは,つねに,旦那衆のご機嫌をとり,必死になって取り入って飯を食っているわけですから,それはそうですよね,とわたし。

 太極拳の稽古のあと,Nさんは首相官邸前へ,わたしは鷺沼の事務所へ。その電車のなかで,ふと,この話を思い出しました。そして,そうか,スポーツ界の住人もみんな太鼓持ちなんだ,とひとりで納得してしまいました。トップアスリートたちが自律/自立できないのも,性根が太鼓持ちだから,と。

 でも待てよ,と考えました。芸人が太鼓持ちで,トップアスリートも太鼓持ちなら,太鼓持ちはあちこちにいるぞ,と。その筆頭にいるのは官僚ではないか,と。サラリーマンも上司の前では太鼓持ち,わたしが生きてきた大学というところにも太鼓持ちがいっぱい,学会にも太鼓持ちがぞろぞろ,とまあ,あちこち,どこもかしこもみんな太鼓持ちだらけ。なにもスポーツ界だけに限られた話ではありません。

 なぜ?と考えたときに,またまた思い浮かんだのは「自発的隷従」ということば。寄らば大樹の陰。太鼓持ちとは自発的隷従者と同義ではないか,と。この方がずっと暮らしやすい,楽でいい,ということなのでしょう。なにも考えないで,力のある人に凭れかかり,ぶら下がっている方が楽でいい。そのためには,自発的隷従も辞さず,ということなのでしょう。あるいは,そんな意識すらないのかもしれません。

 エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ著『自発的隷従論』によれば,圧政者の圧力が強くなればなるほど自発的隷従は浸透していく,ということです。アベ君が,国民の意志などどこ吹く風とばかりに強硬姿勢に徹すれば徹するほど,国民のなかに「自発的隷従」が浸透していく,という理屈です。しかも,アベ君は,すでに,その味をしめて,熟知しています。ですから,6日の会期切れに向けて強行突破をめざす,とその決意表明までしています。

 しかし,自発的隷従にも限度があります。人間は忍耐の限界までは自発的隷従に徹するでしょう。が,その限界を超えたとき,なにが起こるでしょうか。それは歴史が教えてくれています。そうです。「革命」が起きます。しかし,「革命」にいたるまでにはまだまだ遠い道のりがあります。

 そこまでいく前に,野党が育って,もう一度,政権交代が起こることを期待したいところです。しかし,その可能性も当分の間,ありえない,というところにこんにちのわたしたちの悲劇があります。こうなったら,トランプの「総入れ換え」の手が使えたらいいのに・・・と夢想したりしてしまいます。でも,そうは問屋が卸しません。

 となると,もはや「冬の時代」の幕開けを待つしかありません。
 「一寸先は真っ暗闇でござんす」という菅原文太兄いの声が聞こえてきそうです。
 国民全員が酷い眼に会って,とことん痛い眼に会って,もうこれ以上我慢できないほどの悲しい眼に会って・・・・,完膚なきまでに耐えられない体験をしないことには,「太鼓持ち」体質,すなわち「自発的隷従」の軛から抜け出すことはできないのでしょう。

 そうして,覚醒した国民が多数を占めたときに,新しい時代の夜明けがやってくるのでしょうが,またぞろ,太鼓持ちが現れて,やがて太鼓持ちが多数を占めるようになり・・・・,という具合に同じことを繰り返すのかもしれません。人間とはかくも悲しい存在なのでしょうか。

 「自発的隷従」の,その根の深さに,絶望的になってしまいます。
 同時に,「スポーツする人間」とはなにか,という根源的な問いにも通底する,恐るべきテーマとしての「自発的隷従論」がわたしの脳裏をよぎります。あなおそろしや,あなおそろしや。
 
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