2013年12月19日木曜日

長篠の合戦・設楽原の戦い。武田軍の騎馬隊を迎え撃つ徳川連合軍の鉄砲隊。

 
鉄砲が日本に伝来して,初めて実戦で用いられた歴史的な戦,それが「長篠の合戦」である,と歴史の時間に習いました。愛知県の三河地方で育ったわたしにとって,長篠はなじみの地名でした。あの長篠城の攻防をめぐる話は,いろいろの伝説的な話があって,子どものころから興味がありました。その長篠の合戦の屏風絵に出会うことができ,びっくり仰天です。その屏風絵が下の図です。


 歴史は語られ,さまざまに伝承され,いつしか神話が誕生したりしてきました。この長篠の合戦もまた同じです。この長篠の合戦が繰り広げられた古戦場はいまも保存されていて,往時をしのぶよすがとなっています。それは「設楽原(したらがはら)」というところです。この近くには資料館もあって,さらにいろいろの情報を手に入れることができます。

 さて,長篠の合戦は鉄砲隊(徳川・織田連合軍)対騎馬隊(武田軍)の熾烈な戦いであったといわれており,わたしもこんにちまでこの話を信じていました。しかし,そうではなかった,というのです。しかも,この屏風絵がその証拠となったというのですから,これまた驚きです。

 この屏風絵は『犬山城主の武と美』(財・犬山城白帝文庫設立五周年記念 白帝文庫所蔵名品選,2008年)のなかに収録されています。偶然,立ち寄った「犬山城白帝文庫歴史文化館」に,この屏風絵が飾ってあり,そこに置いてあった図録をみつけ,読んでみて驚いたという次第です。ほんとうなのだろうか,とこの図録をしげしげと眺めました。

 この図録には,つぎのような記述があります。

 「従来この場面は織田・徳川連合軍が馬防柵を構え,鉄砲隊を配置して,突撃する武田騎馬隊を壊滅させたという表現で語られることが一般的であった。しかし,最近の研究では武田騎馬隊説は否定されている。当時の日本には騎馬隊とか騎兵隊という概念は無く,大将のほか一隊の隊長クラスや使番だけが乗馬するのが普通であった。この屏風においても武田軍と連合軍の馬数に大きな違いは無く,両軍とも大将,隊長クラスが乗馬しているだけであり,上記の説を裏付けている。」

 しばらく前に,古戦場であった設楽原に行ったことがあります。なるほど馬防柵がほんの少しだけですが再現されており,そこにある解説にも,鉄砲隊と騎馬隊の戦いであった,と書いてあります。まことにもっともな話として,わたしもなんの疑問もいだきませんでした。しかし,それがいまでは否定されているというのですから,歴史は「創られる」と,しみじみ考えてしまいました。

 また,だから歴史は面白いということでもあります。

 かつて,Fact と Evidence は明確に区別すべきだ,名言を吐いたどこぞの知事さんが,とうとう辞表を提出しました。しかも,その記者会見で,記者に「あなたの弁明は,Fact であったのか,それとも Evedence であったのか,と突っ込まれています。その応答がまた,勘狂っています。くわしくは,どうぞ,ニュースでご確認のほどを。

 でも,この区分については「他人事」として笑って済ませられる問題ではありません。わたしたちも日常的に,ご都合主義を貫いているはずだからです。

 この武田騎馬隊説も同じ根からでてきたものに違いない,と思います。こちらは,少なくとも悪意はなかった,と。


 

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