2013年12月14日土曜日

「医療」を成り立たせている条件をチェックしていくと,社会の成り立ちがみえてくる。医療思想史・その4.

 N教授の「医療思想史」の講義が佳境に入ってきました。とりわけ,12月13日(金)に行われた講義は,これまでにも増して,いまのわたしにとってはありがたく,きわめて有益なお話でした。

 にもかかわらず,もう長い間,医療思想史のレポートを,このブログに書くチャンスを見失っていました。お断りするまでもなく,「特定秘密保護法」なる,とんでもない悪法を,ほとんど審議することもなく強引に議会を通過させ,成立させてしまった政府与党のやり方に抗議していたからです。なんとも許しがたい暴挙としかいいようがありません。が,闘いはこれからです。まずは,注意深く政府与党の言動をチェックしながら,再来年春(2015年)に予定されている国政選挙で決着をつけるべく,息の長い運動を展開していかなくてはなりません。

 というような具合に書き始めますと止まりませんが,ここは禁欲につとめることにしましょう。

 さて,昨日の医療思想史。もう,何回もお断りしていますが,ここで書かれる内容は,N教授のお話のほんの一部であり,あくまでも,わたしが聞き取れた範囲のものでしかありません。そのむかし,お釈迦さんのお話を聞いた弟子たちが集まって,わたしはこのように聞いた(「如是我聞」)という話を集めて「経典」を編纂しました。この伝でいえば,このブログはわたしの個人的な,まったく恣意的な「如是我聞」であって,N教授には一切の責任はありません。そのことを再度,お断りしておきたいと思います。

 なかなか本題に入っていくことができません。前置きばかりが長くなってしまいます。これはわたしの悪いクセ。お許しください。

 N教授は,授業の冒頭で,「医療を成り立たせている条件をチェックしていくと,社会の成り立ちがみえてくる」と述べた上で,「ひとくちに医療といっても,さまざまな側面をもっているので,いささかやっかいではありますが・・・」と断わりながら,大筋,つぎのようなお話をされました(と,わたしは聞きました)。

 古代ギリシアの医聖ヒポクラテスの時代には,医療の対象は,まずは「人」を診ることに主眼がありました。つまり,病んでいる人を癒すことに力点がおかれました。まずなによりも,癒す力が医者に求められものでした。ですから,ヒポクラテスはアスクレピオス神殿の聖域の中で医療に従事していました。つまり,ここでの医療は聖なるものと俗なるものの境界領域で成立していたことがわかります。

 が,やがて医療の対象は,病んでいる人の病気の原因を追求し,その原因を取り除く方向に向かいました。つまり,病気を因果関係でとらえ,その原因を取り除くことが医療の目的となります。ここで起きたことは,人を診ることから病気を診ることへ,という大きな転換です。もっと言ってしまえば,人間不在の医療がここからはじまるというわけです。その根っこにある考え方は「合理的思考」「科学的思考」です。人間の頭で合理的に説明ができる領域に医療が取り込まれていった,と言ってもいいでしょう。

 こうして科学的合理主義が医療の中心に位置づけられるようになります。すると,病気の原因もさらに細分化されていきます。腹が痛い原因は,内臓器官のどこにあるのか,が追求されていきます。すると,病気全体から,胃なら胃,腸なら腸(大腸か,それとも小腸か)という具合に,臓器に医療の対象が移っていきます。こうして,じつに明快に原因が説明され,治療が施されるようになりますと,いわゆる「科学万能神話」が誕生することになります。ここでは,人間も病気も不在となり,医療の対象は臓器に集中していきます。

つぎの段階は,臓器のなかの「細胞」の異変に科学的関心が移っていきます。臓器から細胞へと関心が移り,さらには,細胞のなかの遺伝子へと医療の関心は移っていきます。その結果,ゆきついたのが,いま話題の「iPS細胞」というわけです。この「iPS細胞」のもつ問題性についても詳しい説明がありましたが,わたしの手には負えませんので割愛。(ただ一点だけ。自然界には存在しない細胞を人工的に造りだして,それを生身の人間のからだに取り込もうということの意味,つまり,人間の存在論にかかわる重大な問題を内包しているということ。しかも,その問題についてはなんの議論もなされないまま実用化に向けてまっしぐら。国家も産業資本も国民の多くも後押ししています。さて,この問題をどうするのか。)

 臓器がどうしても治らないなら,臓器ごと取っ替えてしまえばいい,という恐るべき発想から「臓器移植」が登場します。こういう発想を支えている背景にはキリスト教的人間観があるというお話もされ,その根拠も懇切丁寧に説明がなされました。その発想が,自動車の部品交換と直結していることも,詳しい説明がありました。つまり,人間機械論の問題です。

 臓器移植は,それだけではなく,免疫抑制という医療にとっては,根源的な矛盾を抱え込むことになりました。つまり,病気を治す原動力は免疫力ですが,その免疫力を抑制しないことには,他者の臓器を自己の体内にとりこむことはできません。つまり,抗原抗体反応を起こして,他者の臓器を排除しようと免疫力がはたらくからです。つまり,ここでの医療は,移植した臓器を優先させるのか,もともとのからだを重視するのか,その微妙なバランスのもとに「生命」を維持しなければならない,というまったく新たな事態に遭遇することになりました。(この背景には,ジャン=リュック・ナンシーの『侵入者』による問題提起があります。)

 さらには,免疫抑制剤という新薬の開発が活発になります。新薬開発とともに特許競争もはじまります。こうして,臓器の売買もふくめて,医療は産業化されていきます。かくして,医療産業に大きな資本が投入されることになり,医療は気づけば,完全に「経済」原則のもとに管理されることになってしまいました。かくして,こんにちの医療は完全に経済に絡め捕られて,だれのための医療かという新たな問題が登場しています。

 もはや,そこには「人間」は,ひとかけらも存在しません。経済活動の一環としての,つまり,金儲けとてしの医療しか存在しません。医療が,あっという間に「商品化」され,「金融化」され,立派な経済活動の対象となってしまった,という次第です。

 とまあ,わたしは至らぬ説明しかできませんが,それでもなお,N教授がわざわざ「医療思想史」という講義題目を立てて,まったく新しい研究分野を開拓していこうとしていることの意味が,そこはかとなく伝わってくるのではないでしょうか。このあとの展開が楽しみです。

 というところで,今日のところはひとまず,おしまい。
 

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