2013年12月3日火曜日

西谷修さん企画イベント「自発的隷従」を撃つ(12月21日)が楽しみ。川満信一,中里 効,小森陽一,真島一郎さんらが集う。


 このブログでも紹介しましたエティエンヌ・ド・ラ・ボエシ著『自発的隷従』(西谷修監修・山上浩嗣訳,ちくま学芸文庫,2013年11月刊)が提起する問題の深層に迫ろうというラウンドテーブルが開催されることになりました。この本の監修者である西谷修さんの企画によるものです。この企画の内容は上のポスターにあるとおりです。

 豪華なゲスト・スピーカーをお迎えしてのラウンドテーブルですので,いまからとても楽しみです。わたしたちとも懇意にさせていただいているアフリカニストの真島一郎さんがどんな読み方をされているのか,「9条の会」の主宰者である小森陽一さんが,この「自発的隷従」にどのようなコメントをされるのか,NHKのドキュメンタリーで数々の名作を制作してこられた七沢潔さん,もと『エッジ』の編集長で沖縄問題とからだをとおして深くかかわってこられた映像批評家仲里効さん,このお二人がどのような切り込み方をされるのか,興味津々です。

 そして,最後に,特別企画「エッジの水底から」が用意され,詩人の川満信一さんが自作詩の朗読をされることになっています。かつては,琉球社会独立憲法を起草し,琉球独立運動の先頭に立って闘った熱血漢でもある川満さんが,いまや枯淡の境地に立たれ,仏教思想に深く踏み込んだ思索を楽しんでおられるとも伺っています(昨年の「奄美自由大学」での深夜のわたしとの会話)。その川満さんがこの「自発的隷従」に触発されて,どのような詩を創作されたのか,そして,その詩をどのように朗読されるのか,わたしの胸は高鳴ります。

 これから,再度,『自発的隷従』を精読して,21日のラウンドテーブルに備えたいと思います。このテクストの最後のところに監修者である西谷さんの解説・不易の書『自発的隷従論』について,が掲載されています。その中の最後のところに「人間の生存条件」という小見出しを付した論考があります。わたしにとっては,この部分がとりわけ印象深く,あれこれ考えさせられました。その部分を以下に引いておきましょう。

 では,「自発的隷従」の構造は人間の存在の重なる層をどこまで遡るのか。ひょっとしたらそれは,人間が言葉によって生存を組織する存在であるというところに根差しているのかもしれない。言葉は規範的性格をもつ。つまりわれわれは言葉を操るようになる前に,うむを言わせぬ言葉の約束事に従わなければならない。日本語では犬は「イヌ」と発語しなければ,誰にも何のことか通じないのだ。誰が決めたのでもないこの決まりをまず呑み込んでそれに身丈を合わせなければ,人は言語的コミュニケーションの圏域に入ることができない。それによって人は,言語的共同性に参入して話す主体になる。つまり,まず共通の規範を受け入れる。するとその規範の作り出す枠組みに則って,人は自由にものを言い,それを通して自由を現実化することができるようになる。ただし言葉は,誰かの作ったものではない。あるいは,人間が作ったというより,言語の生成が人間を可能にしたのだと言うほかていものだ。それがおそらく人間という共同存在の条件なのである。だからそこには「自発的隷従」という表現はそぐわないが(誰もその時点で「自発的」ではない),言語の規範性に従うことで主体となるというこの人間の成り立ちのうちに,規範的な力と主体の自由との入り組んだ関係の発端をみることはできるだろう。このことは掘り下げて考えるに値する。

 この西谷さんの指摘に遭遇し,わたしは思わず立ち止まってしまいました。わたしの思考領域であるスポーツは,まずは「ルール」ありき,の世界です。ルールに従うことなしには成立しません。しかし,ルールは「言葉」と違って,人間が作るものです。人間が作るものであるだけに,スポーツの世界で生まれる「自発的隷従」は,意図的・計画的な要素がふんだんに盛り込まれることになります。とりわけ,近代スポーツはその典型的な事例と言っていいでしょう。

 しかし,その近代スポーツのルーツをたどって古代オリンピアの祭典競技のような世界に分け入ったり,古代アステカのボールゲームにまで遡ってみますと,そこは神の世界と人間の世界の境界領域となっていて,そこでのルールはきわめて「神話的」です。そして,ときには「神的」でもあります。つまり,「贈与と享受」の世界に限りなく接近していくことになります。言ってしまえば,近代スポーツの世界に繰り広げられる「自発的隷従」と,古代スポーツの世界での「自発的隷従」とは本質的に異質のものである,ということがわかってきます。しかし,それでもなお,そこに現出し,繰り広げられる「自由」はまったく異質であるにもかかわらず,その基となっている「自発的隷従」そのものは同じ範疇でくくられてしまっても不思議ではありません。

 まあ,そんなことを考えながら,再度,このテクストを精読して,このラウンドテーブルを拝聴してみたいといまから楽しみにしています。そして,その上で,スポーツ史・スポーツ文化論の領域での「自発的隷従」と「自由」の問題について考えてみたいと思います。

 なお,このラウンドテーブルの趣旨などについては,西谷修さんのブログやフェースブックにも紹介されていますので,そちらをご参照ください。
 
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