2015年4月19日日曜日

我昔(がしゃく)所造(しょぞう)諸悪業(しょあくごう)・・・・。『修証義』第10節。

 我昔(がしゃく)所造(しょぞう)諸悪業(しょえくごう),皆由(かいゆう)無始(むし)貪〇痴(とんじんち),従身口意(しゅうしんくい)之(し)所生(しょしょう),一切(いっさい)我今(がこん)皆懺悔(かいざんげ),是(かく)の如(ごと)く懺悔(ざんげ)すれば必(かなら)ず仏祖(ぶっそ)の冥助(みょうじょ)あるなり,心念(しんねん)身儀(しんぎ)発露(ほっろ)白仏(びゃくぶつ)すべし,発露(ほっろ)の力(ちから)罪根(ざいこん)をして〇〇(しょういん)せしむるなり。

 以上で『修証義』の第二章懺悔滅罪の終わりです。要するに,仏さまの前で懺悔をすれば罪は消えてなくなりますよ,という教えを説いた章の最後の節(第10節)です。

 
この第10節の冒頭の四句は経文そのままが並んでいます。一見したところ,なんのことかさっぱりわからないように見えますが,不思議なことにじっと眼をこらして眺めていますと,なんとなく意味がわかってきます。そして,ある程度,意味が透けてみえてきましたら,こんどは声に出して何回も何回も読み上げてみましょう。すると,なんとなくわかったような気持にさせてくれます。

 実際にも,この四句の懺悔のための文言を唱えれば,お釈迦さまのあらたかなる助けの手が伸びてきますよ,とそのあとに書かれています。ですから,何回も何回も唱えつづけるだけでも,意味がおのずから通じてくるようです。でも,それだけではあまりにも不親切のようにおもわれますので,ここは参考書を手がかりにして,ひとまず読みくだし文にしてみましょう。

 「われ,むかしより造りしところのもろもろの悪業は,みな,無始の貪〇痴(とんじんち)に由る,身口意より生ずるところなり,一切われ今,みな懺悔したてまつる」となります。この読みくだし文を何回も何回も唱えるだけで,さらにその意味が次第に鮮明になってきます。

 この読みくだし文を,さらに現代語風に意訳をすれば以下のようになります。

 わたしがそのむかしに造りだしたところのもろもろの悪業は,どれもこれもみんな無始の貪〇痴(とんじんち)から生ずるものであります。(ここでいう貪〇痴の「貪」とは貪欲のこと,「〇」(じん)とは怒りのこと,「痴」とは愚痴のこと,つまり「おろかさ」のことです。)これらは身口意の三つの活動にしたがって生ずるところのものであります。(すなわち,「身」とは身業(殺生・盗み・邪淫)のこと,「口」とは口業(妄語・綺語・悪口・両舌)のこと,「意」とは意思による悪業(貪欲・怒り・邪見)のこと,です。)これらのすべてを,いま,懺悔いたします。

 というような具合になります。

 残された難関は,「冥助」と「心念身儀発露白仏」,の二つの文言だけでしょう。

 まず「冥助」とは,知らずしらずのうちにいただく仏さまの加護・助力というほどの意味です。
 つぎの「心念身儀」とは,心や意識の念想と,身体の威儀作法のこと,つまりは全身全霊のことです。「発露」とは,ありのままにすべてをさらけ出すこと,「白仏」とは,仏に告白すること,したがって,「発露白仏」とは,仏さまの前で自己の罪悪を包み隠さず,すべてをありのまま告白・懺悔することを意味します。

 これだけのことを頭に入れた上で,なんども声にして読み上げてみましょう。第10節の最後の文言もなんなく理解できることでしょう。

 さて,最後にわたしの意訳を挙げておきましょう。

 わたしがそのむかしになしたもろもろの悪業は,みな,はじまりもわからない貪欲と怒りと愚かさによるものであり,それらは身・口・意の悪業にしたがって生ずるところのものであります。わたしは,いま,ここでこれらすべてのことを懺悔いたします。と,このように懺悔すれば,かならず仏祖はそこはかとなく助けの手を差し伸べてくれます。ですから,誠心誠意,全身全霊をこめてありのままをすべて仏の前でさらけ出し,告白しなさい。そうすれば,告白・懺悔の力によって,これまでの罪根をすべて消し去ってくれるでしょう。
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