2015年4月9日木曜日

・・・願(ねが)わくは我(われ)設(たと)い過去(かこ)の悪業(あくごう)多(おお)く重(かさ)なりて・・・。『修証義』第9節。

 其(その)大旨(だいし)は,願(ねが)わくは我(われ)設(たと)い過去(かこ)の悪業(あくごう)多(おお)く重(かさ)なりて障道(しょうどう)の因縁(いんねん)ありとも,仏道(ぶつどう)に因(よ)りて得道(とくどう)せりし諸仏(しょぶつ)諸祖(しょそ)我(われ)を愍(あわれ)みて業累(ごうるい)を解脱(げだつ)せしめ,学道(がくどう)障(さわ)り無(な)からしめ,其(その)功徳(くどく)法門(ほうもん)普(あま)ねく無尽(むじん)法界(ほっかい)に充満(じゅうまん)〇(りん)せらん,哀(あわれ)みを我(われ)に分布(ぶんぷ)すべし,仏祖(ぶっそ)の往昔(おうじゃく)は吾等(われら)なり,吾等(われら)が当来(とうらい)は仏祖(ぶっそ)ならん。

 
お釈迦さまもむしかは凡夫だったのですよ。わたしたちも仏道に励めば,やがて仏になれるのですよ。このように説いているのが第9節の骨子です。そのためには,まずは,懺悔をしなさい,と。人間はさまざまな煩悩に取りつかれていますので,どうしても意に反して悪いことをしてしまいがちです。つい,うっかりということもあります。そういうときには,なにをおいても,まずは懺悔しなさい,という次第です。

 そうすれば懺悔の功徳が現れて,罪が贖われ,救われるだけではなく,周囲のあらゆるものにも波及していくのですよ。だから,さらに精進を積み上げていけば,必ず仏の道に入ることができるのですよ,というのが前節の第8節の教えでした。そのあとを引き継いで,この第9節では,その懺悔の功徳の大意がどういうものであるのかが説かれた上で,お釈迦さまもわたしたち同様の迷える凡夫だったのだから,わたしたちもまた懺悔の功徳の力と精進によって悟りの道を切り拓くことができるのですよ,と説いています。

 この第9節は,ことばもあまりむつかしいことは言っていませんので,このまま読めば大意はつたわってきます。ただ,若干,補足の説明が必要であるとすれば,「悪業」「業累」「法門」「法界」(ほっかい)くらいのものでしょう。

 「悪業」とは,「悪業報」(あくごっぽう)の略語。過去に行った悪い行為の報いのこと。
 「業累」とは,過去の業による障(さわ)りのこと。あるいは,これまでに積み重なった業によって縛り上げられていること。
 「法門」とは,文字どおり,法はお釈迦さまの説く教え・真理のことですので,そこに到達するための門,すなわち入口のこと。その用法は多岐にわたっています。たとえば,信心(澄浄心)の道に入る門であり,生死を脱して涅槃にいたる門であり,「坐禅はすなわち安楽の法門なり」というように用いられたり,あるいはまた,宗門の意味で用いられたり,仏法そのものの意味で用いられたりします。とても,広い意味をもっていると承知しておいてください。
 「法界」とは,十八界の一つで,法の世界,すなわち,真理の世界のこと。十八界とは,六根,六境,六識のこと。すなわち,眼・耳・鼻・舌・身・意の六根,色・声・香・味・触・法の六境,そして,眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の六識です。このうちの六根の「意」,六境の「法」,六識の「意識」が,ここでいう「法界」に相当します。

 仏教で説く真理の世界はきわめて奥が深いので,分け入っていくと際限がありません。ですから,ここでも「無尽法界」という言い方をしています。

 さて,最後にわたしの拙い意訳を試みてみたいとおもいます。

 懺悔の功徳の及ぶ大意というものは,以下のとおりです。わたしはこころから懺悔をしますので,わたしの過去の悪業がいっぱいあって仏の道に入ることに障(さわ)りがあったとしても,お願いですから,仏道をきわめて悟りの境地に達した先輩たちよ,わたしに憐愍の情をほどこして,わたしを縛り上げている過去の悪業による呪縛から解き放ち,精進努力の道に障りがないようにしてください。そして,その功徳や法門を,あまねく無尽にひろがり充満している法界の哀れみをわたしにも分け与えてください。お釈迦さまも,そのむかしはわたしたちと同じように凡夫だったのですから,わたしたちをもまたお釈迦さまと同じように導いてくださるに違いありません。懺悔の功徳というものは,そういうものなのです。

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