2015年6月25日木曜日

最悪の選択。新国立競技場の最終案。クレージーとしかいいようのない決定。

 だれが,いつ,どこで,どのような議論(検討)をして,このような最終結論に達したのかまったく不透明なままだ。いつもの密室会議。つまり,だれも責任を取らなくてもいい決定の仕方をしたということだ。裏を返せば,まことに無責任きわまりない決定,としかいいようがない。しかも,最悪の選択をしてしまった。それは,まるで,つくってはいけない原発を新たにつくるにも等しいような決定だ。つまり,悔いを千歳に残す決定ということだ。

 数日前,下村文部科学大臣が,わざわざ記者会見して,槇文彦案も含めて再検討をする,と柔軟な姿勢をみせた。ようやくザハ案のかかえる問題の大きさに気づき,賢い落としどころを見出そうとしているのかな,とささやかな期待をいだかせた。わたしは,個人的には,この段階にあっては槇文彦案がベストだと考えていたので,なおさら,大きな期待を寄せていた。

 しかし,その夢はわずか数日で儚くついえ去ってしまった。文部科学大臣の,やらずもがなの世を憚る単なるフェイントにすぎなかったと知り,その落胆も激しかった。

 6月24日の東京新聞夕刊が一面トップにこの問題を取り上げた。そのことは大いに是としたいが,紙面の制約と記者の力量不足とが相俟って,なんとも陳腐な記事になってしまっている。まことに,残念。なぜなら,問題の本質を取り違えてしまって,ひたすら経費の問題に矮小化してしまっているからだ。金の問題も重要だが,それ以上に見過ごしてはならない大問題が,今回の決定の背景に隠されている。そこのところに焦点を当ててほしかった。

 問題は,悔いを千歳に残す,取り返しのつかない選択をした,というその一点に絞るべきだっだ。要するに担当記者の取材不足。つまり,新国立競技場はだれのためのものなのか。そして,それをだれが,どのように活用していくのか。近未来の日本にとって新国立競技場のはたすべき役割はなにか。などなど,こういう思想・哲学的な視点をまったく無視した「決定」に対して,ジャーナリスティックな批評を展開してほしかった。

 新国立競技場に関する問題の所在をひとことで言ってしまえば,こんな巨大な建造物をつくること自体がすでにして「時代錯誤だ」ということにつきる。つまり,ロンドン五輪のメイン会場の3倍(予算規模では4倍)にもなる特大サイズと奇抜なデザインをもつ競技場を神宮外苑という歴史的風致地区に建造することの意味はもはやなにもない,ということだ。槇文彦さんが指摘しているように,2050年の日本の人口の推移,そこから想定される国民総生産力を考えると,もはや右肩上がりの発想はありえない,とわたしも考える。むしろ,最初から解体可能な,つまり,順次,解体して競技場を縮小していく,そういう競技場を志向すべきなのだ。

 どうしても8万人収容したいのであれば,それはそれでやり方はいくらでもある。その案もいくつも提案されている。経費も安く,しかも工期も短くできる案だ。それらをすべて蹴って,ザハ案を約2割縮小した案で押し切った。これが,最悪の選択,とわたしが断じる最大の根拠だ。

 なぜ,最悪の選択なのか,その理由の主なものだけを箇条書きにして挙げておこう。

 1.維持管理費が膨大なものとなり,赤字経営となることがだれの眼にも明らかであること。
 2.その赤字を埋め合わせるために巨大なイベント(たとえば,コンサート)を開催する,というがそんなことは不可能であること。
 3.つまり,スポーツの競技会(陸上競技,サッカー,ラグビー,など)とコンサートと併用することは不可能であること。第一,芝が育たない。枯れてしまう。毎回,芝を植え替えるとでもいうのだろうか。そのための経費,期間ははんぱではないこと。
 4.神宮外苑という歴史的景観が,巨大モンスターの出現によって,根底から破壊されてしまうこと。
 5.槇文彦案によれば,経費も工期も圧倒的に縮小できるのに,それを排除したこと。これから一年,議論してからでも間に合う(ラグビーW杯),と提案しているにもかかわらず・・・・。そして,なにより,国民的合意を形成することが重要だ,と提案しているにもかかわらず・・・。
 6.施工予定者(と新聞は書いているが)である大成建設と竹中工務店は,設計には協力するが,施工を引き受ける意思はない,と一部ではささやかれていること。つまり,二本の巨大アーチを建造する技術は橋梁建造によって培われてきたもので,これを地上で建造するとなるとさらなる技術開発が必要となり,時間も経費も算定できない,というのが建築エコノミスト・森山高至さんの主張だ。大手ゼネコンの腰が引けているのは,ここに原因があること。
 7.大手ゼネコンですら,予算をいくら積んでくれても採算がとれない,と踏んでいること。
 8.では,なぜ,こんなに困難な建造案にこだわるのか。そこに群がるハイエナのような闇の集団がたむろしているからだ。諸悪の根源はここにある。要するに闇取引が,あちこちで行われているということ。
 9.そのために,新国立競技場建造計画は弄ばれているということ。
10.その悪循環を断ち切るために構想され,国民的合意形成をめざす槇文彦案を,わたしは全面的に推奨したい。だが,これこそが利権を弄ぶことに関しては定評のある文部科学大臣がもっとも忌避したかったことに違いない。

 こうして,箇条書きにしていくだけでもエンドレスだ。ことほど左様に,新国立競技場建造にかかわる「陰の部分」こそが大問題なのだ。まさに,伏魔殿そのものだ。ほじれば,ほじるほどに,いくらでも問題がでてくる,恐ろしい世界だ。それらをすべてブルー・シートで覆い隠し,目の前の利害得失だけでことを処理しようとしている。

 この方法は,憲法を無視し,違憲法案を提出しておいて,なに憚ることなく「わたしは正しいと確信している」と言い切るアベルフ・シットラー閣下のやり方そのものだ。

 いま,政府自民党がやろうとしていることは,まさに,悔いを千歳に残すことばかりだ。この新国立競技場建造案(最終案)もその一つとして,重く受け止めなくてはならない。

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