2015年6月20日土曜日

『沖縄タイムス』をネット購読して1年余が経過。批評性が高く,魅力的。カラーも多く,記事も面白い。

 沖縄を代表する2紙,すなわち『琉球新報』と『沖縄タイムス』が面白いと聞き,一カ月ほどネットの無料サービスで両紙を読み比べてみて,最終的に『沖縄タイムス』を選んだ。『沖縄タイムス』を選んだ理由はさほどの根拠はない。言ってみれば判官贔屓。『琉球新報』の方がなんとなく上位であるかのような余裕が感じられたのに対して,『沖縄タイムス』はなんとかして追いつき追い越そうとしているような気魄が感じられたからだ。つまり,後追いの印象のあった『沖縄タイムス』の方が必死さが伝わってきたからだ。

 あれからもう一年以上が経過している。『毎日新聞』も,ほとんど同時にネット購読をはじめ,紙媒体は『東京新聞』だけ。つまり,この一年余は,それぞれ視点の異なる3紙を読み比べている,という次第。それぞれに特色がでていて,読み比べてみるとまことに面白い。

 この3紙で比べてみると,面白いのはだんぜん『沖縄タイムス』。なにが面白いかというと,「沖縄」という立地条件に恵まれた地方紙としての情報が満載であるからだ。とりわけ,一面トップを飾る情報が際立っている。つまり,沖縄県民として,もっとも大事な情報はこれだ,というものが如実に表出しているからだ。ちょっとオーバーに言えば,社命をかけている,と言っても過言ではない。それは,おそらく対抗する新聞『琉球新報』との勝負を賭けた一か八かのジャーナリスティックな博打勝負に打ってでるかのような気魄すら感じられる。それほどに気合十分な記事が一面トップを飾っている。その点は,『琉球新報』とて同じだ。だから,沖縄県民にとって,もっとも重要な情報はこれだ,というものが手にとるようにわかる。

 しかし,当然のことながら,大事件になれば,沖縄2紙も,毎日も東京も全部同じニュースが一面トップを飾るということになる。しかし,日常的には,これら3紙ともに一面トップの記事はみごとに分かれている。そこに,3紙の立ち位置のようなものがはっきりとみえてくる。そこが面白い。とりわけ,沖縄県民のまなざしをとおしてみえてくる重要な情報はなにか,ということが『沖縄タイムス』からは如実に伝わってくる。そのまなざしは,これまでのわたしにはなかったものだ。だから,この一年余は,わたしにとっては日々新たな自己との出会いでもあった。

 その沖縄的まなざしは全紙面にわたって見受けられるものでもある。そのうちのもっとも際立ったものは「訃報」欄。この欄の情報の分量ははんぱではない。沖縄2紙ともに,まず,間違いなく,毎日,どこかの紙面の全面のスペースを使って「訃報」だけが掲載されている。沖縄の人に聞いてみると,この情報はとても大事で,毎朝,まっさきに開くのはこのページだという。そして,友人,知人,恩人,職場の関係者らの「訃報」がないかどうかをチェックするのだそうだ。そして,ちょっとでも関係のあった人の「訃報」がでていたら,かならず,だれかに頼んで香典を包むという。その額は関係の深さにもよるが,「1000円」からあるとのこと。つまり,額の多寡ではなくて,そのつながりが大事なのだという。

 ここからみえてくることは,沖縄の人びとの日常的な人間関係の重要さだ。というか,とても密度の濃い人間関係がそこにはいまも生きているということだ。たとえば,人の名前を呼ぶときも,名字ではなく下の名前を呼ぶ。でないと,同じ名字の人がどこにでもいるので,混乱してしまうのだ。年齢性別に関係なく,たけしさん,ゆみこさん,と呼ぶ。近しい関係であれば,たけちゃん,ゆみちゃん,あるいは,たけし,ゆみこ,と呼び捨てになる。そして,その呼び方をしても,けして人を傷つけることのない温情のよくつたわる独特のイントネーションがある。

 この人間関係の密度の濃さは,たとえば,スポーツ面にも表れている。プロ野球やサッカーのようなメジャーな情報は,本土とほとんど同じだが,違うのは,沖縄出身の選手が活躍すると必ず記事になるという点だ。もう一つは,ローカルなスポーツの大会の記事がこと細かく掲載されている点だ。聞いてみると,それらの記事を追っていくと,たいてい一人や二人,だれかの甥や姪,弟,妹,などの名前が見つかるのだそうだ。それも楽しみの一つなのだ,と。そして,中には,中学生の将来有望なランナーが現れたといって写真まで掲載されることもある。とくに,九州大会で優勝すると,写真入りの記事になる。そして,そのことを県民みんなが誇りにおもうというのだ。

 そこからみえてくることは,同じローカルな情報でも,沖縄は一つに結束している,ということだ。たとえば,わたしは愛知県出身だが,浅田真央や鈴木明子といったスケート選手たちを,敬愛はするけれども,郷土の誇りだとはほとんどおもわない。鈴木明子は,同じ豊橋市の出身なので,いくらか郷土愛的なものを感ずる程度で,それ以上ではない。活躍していて立派だなぁ,くらいのものである。だから,新聞を読んでいるだけでも,沖縄県民の郷土愛の強さがひしひしと伝わってくる。この感覚がなんともいえない心地よさを伴う。そして,どことなく羨ましくもある。

 さてはて,もっとあっさりと『沖縄タイムス』の面白さを紹介できるとおもっていたら,どっこい,そうはいかないということがわかってきた。これ以上のことは残念ながら,割愛するしかない。でも,もう少しだけ。もっと面白いのは,地域の祭りやエイサー大会や闘牛などの記事だ。わたしのような本土の人間であっても,それらの記事を読むと,でかけて行ってみたくなるから不思議だ。そういう読者のこころをくすぐるような記事の書き方になっているのだ。ただ,こんな催し物がある,という単なる紹介ではないのだ。そこに,味を引き立てる薬味のようなやさしい情感が籠もっている。記事があたたかい,のだ。

 要するに,沖縄に特化した地域密着型・生活密着型の情報がふんだんに盛り込まれているのだ。だから,本土の中央紙に慣れ親しんだ人間には,こんな新聞があるのかと驚いてしまう。それは本土の地方紙ともいささか趣が異なる。本土でいえば折り込み広告になるような衣料や食品などの広告が,沖縄では新聞紙面を飾っている。一見したところ,どうして?と不思議でもあるが,そうではない。日々の食材を購入するときの重要な情報が新聞をみればわかる。しかも,その日の物価の動向もひとめでわかる。衣料でも同じだ。買い手に情報(知識)があるから,売り手もバカなことはできない。

 ことほど左様に,沖縄の新聞は面白い。そして,これだけは書いておかなくてはならないことがある。それは新聞の発する「批評性」がきわめて高いということだ。つまり,徹底して是々非々の姿勢を貫いていて,事実をありのままに書いている点は,本土の新聞の遠く及ばない点だ。さすがの自民党政権も,沖縄の新聞をコントロールするところまではいっていないようだ。もっとも,そんなことをすれば,たちどころに新聞が書き立てるだろうから,藪蛇というところ。ここでは,正しい意味でのジャーナリズムが生きている。その点,沖縄2紙が競合していることがいい結果をもたらしているようにもおもう。

 たとえば,辺野古で,その日に起きていることはじつに詳細に,連日,報じている。わたしなどは『沖縄タイムス』をとおして,辺野古の大事な情報のほとんどを得ている。本土の中央紙のほとんどがスルーしてしまい,遠く及ばない点だ。もちろん,戦争法案についても,本土の新聞とは,その主張の仕方がまるで違う。戦後70年もの長きにわたってずっと米軍基地と向き合って生きてきた人たちが受け止める戦争法案の意味は,本土の人びとのそれとはまったく次元が異なるからだ。言ってしまえば,つねに「エッジ」に立たされて,ぎりぎりの生活を耐え抜いてきた人びとの鋭いまなざしが,そこにはゆきわたっている。

 こういう新聞を読んでいると,われわれ本土の人間が,いかに「茹でガエル」に成り果ててしまっているかということを痛感させられる。わたしにとっては,もはや,不可欠の新聞だ。『沖縄タイムス』を読むことによって,わたしのスタンスも,絶えず修正を加えていかなくてはならない,そういう厳しさも教えられる。いまやわたしにとっては日々の大事なテクストになっている。そのお蔭で,わたしの心構えを日々に新たに練り上げることができているのではないか,とこころの底から感謝している次第である。

 以上,ご報告まで。

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