2015年6月22日月曜日

「其帰依三宝とは正に浄信を専らにして・・・」。『修証義』第13節。

 其(その)帰依(きえ)三宝(さんぼう)とは正(まさ)に浄信(じょうしん)を専(もっぱ)らにして,或(あるい)は如来(にょらい)現在世(げんざいせ)にもあれ,或(あるい)は如来(にょらい)滅後(めつご)にもあれ,合掌(がっしょう)し低頭(ていず)して口(くち)に唱(とな)えて云(いわ)く,南無帰依仏(なむきえぶつ),南無帰依法(なむきえほう),南無帰依僧(なむきえそう),仏(ほとけ)は是(こ)れ大師(だいし)なるが故(ゆえ)に帰依(きえ)す,法(ほう)は良薬(りょうやく)なるが故(ゆえ)に帰依(きえ)す,僧(そう)は勝友(しょうゆう)なるが故(ゆえ)に帰依(きえ)す,仏弟子(ぶつでし)となること必(かなら)ず三帰(さんき)に依(よ)る,何(いず)れの戒(かい)を受(う)くるも必(かなら)ず三帰(さんき)を受(う)けて其(その)後(のち)諸戒(しょかい)を受(う)くるなり,然(しか)あれば則(すなわ)ち三帰(さんき)に依(よ)りて得戒(とくかい)あるなり。


この第13節はとてもわかりやすく,仏の道への入口の話をしています。そこからは道元の絶対的な自信と,その自信に裏づけられた余裕のようなものすら感じとることができます。仏の正しい教え(正法)を伝授され,さらに一歩,その真理を深めた境地から湧き出てくる不動の信念といってもいいでしょうか。

 まずは,第13節の冒頭から,わかりやすく読み下してみることにしましょう。

 仏法僧の三宝に帰依するということは,こころをまっさらにして(浄信),如来さまがこの世にいようがいまいが,あの世にいようがいまいが,そんなことは関係なく,ただひたすら合掌して頭を低くし,南無帰依仏,南無帰依法,南無帰依僧と口に唱えることなのです。

 なぜなら,仏は偉大なる師匠であるからこそ帰依し,その偉大なる師匠の教え(法)は良薬となるがゆえに帰依し,それを説く僧はすぐれた友であるから帰依するのです。

 つまり,仏弟子となるということは,この三つの宝(仏法僧の三宝)に帰依するということなのです。どのような戒(戒律)を受けることになるとしても,必ず三宝に帰依してから,そののちに諸戒を受けることになるのです。

 そういうことですから,まずは三宝に帰依することによって,はじめていろいろの戒を得ることができるようになるのです。

 第13節は,たった,これだけです。なんとわかりやすいことでしょう。

 これで終わってしまっては,なんともはや物足りないとおもわれますので,少しだけ補足の説明をしておきたいとおもいます。それは,「南無」と「帰依」ということばの意味についてです。

 まずは,「南無」。「ナンマイダー」「ナンマイダーブ」「ナンマイダーブツ」「ナムアミダーブ」などと唱えるときの「ナン」「ナム」が「南無」のことです。「ナンミョウホウレンゲキョウ」と唱えるときの「ナン」もまた「南無」です。つまり,お題目を唱えるときの冒頭に置かれていることばが「南無」です。

 では,いったいこの「南無」とはなにを意味しているのでしょうか。仏教辞典を引いてみますと,「南無」はサンスクリット語の namas を漢字で音写したことばである,と書いてあります。その意味としては,「帰命,頂礼,恭敬,敬礼,信受」などを意味する,とあります。これらの一つひとつのことばの意味はそれぞれに深い意味があるわけですが,それらの意味をすべてひっくるめたことばが「南無」だということです。だとすれば,「南無」とは,敬いの気持,あるいは畏敬の念を表するためのことばの冒頭につける挨拶ことばである,と考えていいようです。

 ここまでわかってきますと,南無阿弥陀仏とは,恭しい阿弥陀仏さま,と呼びかけていることばだということがはっきりしてきます。それがいろいろに音韻変化して「ナンマイダーブ」「ナンマイダー」「ナムアミダーブ」「ナンマイダーブツ」となったということもわかってきます。

 つぎは「帰依」です。「帰依」はサンスクリット語を漢語に意訳して,編み出されたことばである,と辞典には書いてあります。そして,「帰」とは,最終的にみずからの落ち着き場所に帰着すること,本来あるべきところにもどり落ち着くこと。「依」とは,なにかのかげを頼りにして姿を隠すこと,転じてなにものかを頼り,なにものかに依拠すること。

 したがって,「帰依」とは,優れたものに帰投し依伏すること,すなわち「信仰すること」,ということになります。

 これで,南無帰依仏,南無帰依法,南無帰依僧,と唱えることの意味もおのずからはっきりしてきます。恭しく敬い身もこころも投げ出して全身全霊で信仰いしたます仏さま,というのが「南無帰依仏」というわけです。以下,同じように「法」と「僧」にも誓います。これが「全身全霊」で「三宝」に「帰依」するということの意味となります。

 以上で第13節の読解は終わりです。

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